珈琲の馥郁
序章 Morningと珈琲と美味しいと
先生は出来立てほやほやの珈琲を一瞥した後、私の顔を見上げて柔らかく微笑んだ。
「聖澄さん、いつもありがとう」
その聖なる瞳に見つめられ、感謝を伝えられても尚平然としていられる人間が、この世に果たして存在するのか。という疑問の解答を知ることは恐らく不可能だろうが、少なくとも私はかなり心を乱された。何故、先生はここまで温かく優しいのか、と。
「いえ。私がやりたくてやっていることですから」
照れ臭いような、少し困ったような感じで応えると、先生は脈絡もなく真剣な面持ちをして、けれども声音はあくまでも穏やかに「さっきの話のことなんだが……これから私が言うことを信じてくれるかい?」と尋ねてきた。余りにも唐突だったために戸惑いを覚えつつもこくりと私が肯くと、先生は安心したように表情を緩め、しかし緊張しているのか、未だ熱を持つカップをぎゅっと握りながら、それでも私の目を真っ直ぐに貫いて、心地良い大人な声で言ってのけた。
「聖澄さんが私を尊敬してくれているように、私も君のことを一人の人間として尊敬しているんだ」
ああ……。
H歴が始まってから現在で二年とちょっとになるが、私は幸いにもヒプノシスマイクによる精神干渉攻撃を受けずに過ごしてきた。しかし今、私は疑似的に精神干渉攻撃を受けているように思う。だってこれほどの精神的衝撃ならば、きっと精神干渉攻撃を想像するに相応しいだろう……なんて、それっぽい理屈を並べ立てて現実逃避を企ててみるも、結局はただの悪足掻きでしかなかった。
私は渋々今生きる現実と向き合うことにしたが、そこで口を突いて出てきたのは、どうにも先生に対して失礼で、気の抜けた意見だった。
「……私は、先生の方がおかしくなっちゃったんじゃないかと思います」
ぼそりと呟いたそれがどうも拗ねているように聞こえて、自分はとことん子どもだな、と呆れる。けれどもそんな未熟な私を、先生は「人間」として尊敬してくれているというのだ。
それは勿論、先生と十年近く一緒に暮らしていて「ああ、先生は私のことを大切に思ってくれているんだろうな」と思うことは多々あった。けれども尊敬となれば話は別だ。
「やはり、信じられないかな」
先生は眉を下げてこちらの様子を窺っている。その様子から、ふと私はあることに気付いた。
「あの、先生」
言いながら、半歩ほど先生の方へ歩み寄る。
「私は心の底から先生のことを尊敬しています。だから――」
私は持っていたお盆を机上にそっと置いて先生の方を向き直り、何か思うところがあったのか、いつの間にか顎に添えられている彼の手をパシッと掴んで自身の両手で包み込んだ。そうすると先生は、まさか私が大胆な行動に出るとは思っていなかったらしく、まるでマネキンのように固まってしまう。けれども流石は先生というべきか、すぐに我を取り戻すと、次は私に握られたその手をじっと見つめながら「だから、何だい?」と先を促した。私はその期待に応えるように先生の手を更に強く握り、彼の目をしかと見つめた。
「私のことを尊敬してくれているなら、そんな先生を、先生自身が信じてあげてほしいんです」
刹那、先生は最大限まで目を丸くした。その様子からして、きっと私が言わんとしていることはきちんと伝わっただろう。けれども無駄に熱くなってきた私は、目を瞑って更に想いを紡いでいく。
「先生は本当に凄い人です。私を救ってくれて、大事に育ててくれて。でもだからこそ、そんな凄い先生だからこそ、先生から敬意をもらっても、自分を尊敬するはずがない、見下しているに違いないって思い込んで、拒んでしまう人もいる――いいえ、いたんじゃないでしょうか」
そう言い直したのは、私がまだ幼かった頃の記憶を思い出したからだった。
その日、先生は珍しく落ち込んだ様子で家に帰ってきた。その落ち込み振りといえば、幼い私でも分かるほどだった。当時まだ遠慮を知らなかった私が心配して「先生どうしたの?」と尋ねるも、先生は寂しげな雰囲気を微塵も変えなかった。そして「他者と自分を比べることが人間にとっての弱みでなければいい。そう思っただけですよ」と、当時の私には到底理解し得ない、切なる願いを零したのだ。
それから暫くして、私は健やかな成長と引き換えに、身をもって先生の言葉の意味を知ることとなった――そう、先生と自分とを比べるようになったのだ。
コーヒードリップの件は良い例である。先生はできるのに何故自分はできないのか。私が役立たずだからか。先生も私のことをそう思っているのか……何度こう思ったことか。
けれどもあるとき、私は思い至る。先生が人を役立たずと思う訳がないし、そう思うのは先生への冒涜になるのではないか、と。そこからだろうか、悩む暇があるなら練習しようと思えるようになったのは。