お庭の花よ、永遠なれ
第一章 祝福の春風吹いて
ガルグ=マクの夕暮れはいつの日も美しく、そして寂しい。ガルグ=マク周辺に群生している木々の葉の、夕風に掠れる音、夕陽に燃やされ色付く様、それらが生命の儚さを教えてくれるからだろう。それに、石造りの建物たちの静けさが、日向の橙と日陰の黒の対比によって際立つのである。
「……綺麗」
誰も側にいないから、わざわざ感じたことを口にする必要はない。それなのに、私は発声していた。その声が存外嗄れていて、そういえば私は急いでいるのだったと我に返る。
日没までにレアを訪ねなければ、彼女との約束を破ることになってしまう。もう、時間がない。
しかし、足は動かない。さっき走り出したばかりなのに、もう。まるで親に何処かへ連れて行かれるのを嫌がり、必死に抵抗する子どものように、私の両足は私に操作されることを拒んでいる。
何故だ、レアとの約束があるのに……否、彼女との約束があるからこそ、か。私は修道院三階に取り付けられた硝子の窓を見上げ、目を閉じ、窓の向こうに居る人物に思いを馳せた。
ああ、やはり彼女との約束があるからこそ、私はこの場に留まったようだ。レアが、夕景色を眺めたときと似た感慨を、私に覚えさせるから。
ということは、私は寂しいのだろうか。寂しいから、現在のガルグ=マクを眼前にしてレアの存在を思い浮かべ、ここ、大聖堂と大修道院を繋ぐ石橋が黃昏の美しさと寂しさを明瞭に映し出す鏡のような場所だからと、その光景に立ち会うために、この場に佇んでしまうのだろうか。
ふと、何処かで烏が鳴いているのが聞こえた。数からして一匹だろう。何処にいるのかと、遠くの空を望んでみれば、夕日に真白く照り返すオグマ山脈の岩肌に向かう、一つの黒い塊があった。
帰るのか、と思った。直後、あの子には家族がいて、家族と集まる場所があって、帰るべき巣もあるのだ、と素直に理解した。
やはり私は寂しいのだと確信した。寂しいからこそ、夕暮れ時のガルグ=マクを見てレアを思い出し、ここが黃昏の美しさと寂しさを明瞭に映し出す鏡のような場所だからと、その光景を眺めるためにこの場に佇んでしまったのだと分かった。
何故、寂しいのか。
答えは明白だ。つい先程までその原因について振り返っていたところなのだから。故に、今このときにわざわざ考え込む必要も、言葉に表す義理もあるまい。それよりも何故にこの場が暮れに相応しいのかということを、私は存分に語りたい。
ここが日暮れを語れる場所である理由は、全て足元にある。空でも植物でもない。地面、それも石畳だ。
それは太陽が夕陽へと変貌すると同時に、艷やかに斜陽を反射し、まるで陽光に煌めく水面のような眩さを放つ。色は真昼間の純白ではなく、気高さすら感じられる黄金である。しかし、暫くすれば輝くために必要な陽光が足りなくなり、石たちは光沢を失ってしまう。代わりに、宵闇の勢い良く押し寄せる空をそのまま写したかと私に思わせるほど、黄金色や茜色、紫色、紺色、様々な色にその身を染めていく。そして、やがては暗闇に包まれるのだ。この僅かな間の色調の移り変わりが、私には極めて幽玄な美に、かつわびしく感じられるのである。
ただ、私にとって絶対的な、最早恐怖すら覚える物寂しさは現地点よりもう少し先にある。
思い出すだけで、心が恐れで震え、身体が萎縮する。それほどまでに怖いと感じるなら見なければいいのだろうが、何故か私はその光景を目の当たりにしない訳にはいかないのだ。
謎の衝動に駆られながら、私は夕間暮れの石畳を踏み締める。既に拍動は速く、呼吸は浅くなっていた。
一歩。
ニ歩。
三歩。
――ああ、着いてしまった。
今、私の目と鼻の先、否、履き慣れた靴の先には、夕陰の石畳が敷き詰められている。くすんだ黒に染まった石畳である。けれども私はそれが怖いのではない。修道院の影を踏んで、陰に呑まれた後のことが怖いのだ。
一歩進めば、私は陰に呑まれてしまう。そうなったら――。
「ヴィオラさん?」
自身の喉がごくりと鳴ったと同時に、誰かが私を呼んだ……ような気がした。というのも、脳内であれこれ考え込んでしまっていて、しかも自分の唾を飲み込む音やら夕山おろしの音やらで発声が絶妙に掻き消されてしまったのも相まって、言葉が上手く聞き取れなかったからだ。しかしつい顔を上げてしまった。
これで呼ばれたのが私ではなかったとしたら恥ずかしさで死ねるかもしれない、なんてことを器用にも頭の片隅で巡らせながら、私は前方に佇む人の姿をいよいよ捉える。
「え、ディミトリくん?」
正体は簡単に判明した。その子が夕陰の中でもキラキラ輝く髪を涼風に靡かせ、今朝方の青々とした瞳ではなく、深海のように暗い蒼眼で私をとらえていたからだ。
しかしながら、あの不思議な青を覗けないとは。一瞬不満を覚えたけれど、彼が「はい」と優しく頷いてくれたから、そんなものはすぐに忘れてしまった。彼が呼んだのはやはり私の名だったのだと、私は顔を上げてよかったのだと、安心したから。