お庭の花よ、永遠なれ

序章 ガルグ=マクの庭師

ガルグ=マク大修道院は大聖堂をはじめ、聖者セイロスを祀るための聖廟や、女神再誕の儀を執り行うための女神の塔などが建造されている、列記とした(誰も疑っているとは言っていないが)宗教施設だ。故に、大修道院に暮らす教徒たちを守るため、院内にはセイロス騎士団が常駐している。
 かつて「壊刃」と畏れられたジェラルトも、セイロス騎士団の一員、且つ団長を務めていたことがある。しかし病で妻を亡くし、彼女の形見である息子をも火災で喪ってしまって泣きっ面に蜂だったのだろう、あの日を境にガルグ=マクから忽然と姿を消してしまったけれど。アロイスというベテラン騎士が「ジェラルト団長はどこに行ってしまわれたのだ! ジェラルト団長! ジェラルト団長ー!」と声を大にしてあちこち探し回っていたのが記憶に新しい。数年前には、英雄の遺産である「雷霆」を使いこなすカトリーヌと、私と同じくレアに恩があるという元傭兵シャミアが騎士団入りしていた。
 実を言うとカトリーヌとは、彼女が騎士団入りする前から知り合いだった。それはガルグ=マク大修道院に併設された士官学校へ、彼女が通っていたからである。
 しかしながら、当時彼女はカサンドラという名前だったはずだけれど、数年前に再会したとき「これからアタシのことはカトリーヌって呼んでくれ。改めてよろしく頼むよ」と爽やかに言われ、質問を挟む間もなく頷かされたあれは何だったのだろう。勿論、彼女のことは彼女の要望通りカトリーヌと呼んでいるけれども。今も少しのモヤモヤを抱えている。
 さて、話を戻そう。
 士官学校とは、フォドラの未来を担う若者たちを育成するために建てられた学校である。巷ではそう言われているけれど、私はその謳い文句に疑問を抱いている。何故なら、士官学校で養成される知識や技能といえば武術や戦術、魔術等、戦いに用いられるものがほとんどだからだ。
 まあ、寮生活を通して家族や従者の存在のありがたみに気付けたり、人との関わり合いの中で人格を磨いていけたり、料理や釣り、温室の手入れなどの腕を上げられたりはするのだけれど、如何せん「未来を担う」という言葉から戦争で勝つだとか、武力によって自領を治めるだとか、そういうニュアンスを汲み取ってしまうのである。そんな物騒な未来ではなく、もっと平和な未来を次世代に担わせてあげたいと思うのは、私だけなのか。しかしまあ、貴族は貴族から、平民は平民から物を学んでいるし、何よりここは士官学校であるため、確かにここで養うことといえば「戦力」くらいしかないのかもしれない。
 それに、本来ならば私だってこれまでの戦乱に参加せねばならなかったのだ。けれども私は自身の持つ力を戦いに活かせるだけの器用さを持ち合わせていなかった。故にずっとガルグ=マクに籠もるしかなく、そうしてこの平和ボケした思想が生まれたのであろう。そもそも士官学校の教育課程は彼女と彼女を支える者たちの意向によってつくられたものだから、私に「異議あり!」と唱える権利はどこにもない。
 とまあ、散々語りはしたけれど、この思いは百年余りの間、誰にも明かせずにいるのが結局のところだ。無駄に生きている訳ではないが、こんな取り留めのないことを考えていると、無駄に生きている気がしてくる。
 多少の文句を挟んでしまったけれど、しかし何やらガルグ=マクに住まう教師たちが言うには、我が鬱憤を総じて晴らしてくれるような奇跡が、今年の士官学校で起こるらしいのだ。
 そこまで凄いことでもないだろう、と無感動な自分もいるにはいるけれど、それよりも一体これからどんなことが起こるのかとわくわくする気持ちの方が勝って、私はベンチで足をぷらぷらと無意識に動かしてしまう。そんな年寄りの幼稚な振る舞いに共鳴し、辺り一帯の草花や木々が音を立ててざわめき出す。
――植物を司る力。
 私の力とは、植物を生み、育て、守る力である。
 何もそれだけではない。植物たちは、育て人の私を、あらゆる手段を用いて護ってくれる。故に誰も、きっと私自身ですら、私を殺すことはできない。私を殺すことは、フォドラの何割かの植物の芽を摘み取ることに等しいから。
 一つ思い出話をしよう。およそ千年前の、「わたし」が村を飛び出し、フォドラを彷徨っていた頃のことだ。





 森は生きている、とはよく聞く話だと思うけれど、それは事実だ。生物学の観点からすると、こんなに稚拙な結論も中々にないだろうが、しかし暗喩表現として捉えたとき、この言葉たちは途端に豊かな可能性を生む。
 例えば表情。朝はあんなにも瑞々しく葉を茂らせ、人を澄んだ世界へと導いてくれる木々が、夜は光という光を闇で覆い尽くし、人を恐怖へと誘ってしまう。夕暮れ時は葉を紅く色付かせて、人を静かに黄昏れさせる。このように、森は折々の表情を覗かせるのだ。
 例えば音。森に対して「静か」という印象を抱く人は少なくない。けれども実は朝昼晩、森はこれでもかというほど騒がしいものだ。鳥の囀りや川のせせらぎ、木々のざわめき、小動物の鳴き声、虫の音など、その種類は多岐に渡る。更に意外なのは、夜という舞台の主役が虫たちであるということだ。夕方から夜にかけて、殆どの動物は眠るために鳴りを潜める。代わりに蟋蟀や鈴虫が何処からか心地良い音を響かせて、見事なコンチェルトを生むのである。
 故に私は、森が生きていると強く思う。

庭師のおもいとちから




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