隣にいるとまた喧嘩になるからと俺は原田さんの横に戻り、試合を見つめた。
サイドスローの選手、確か川上さんの不調の中。
凄いプレーを見せた倉持さんに頬が緩む。

やっぱりあの人凄いな。
予想と反対の方へ飛んだ打球への速い反応と素手で捕ってからの、バックトス。
俺もあの人と二遊間を組んでみたいと思った。
だが、そのファインプレーの後川上さんのフォアボールからのデットボール。
それを見つめながらふと思い出したことを口にした。

「あの、沢村って…大丈夫だったんですか?調子崩したりとか…」

なんだかんだ言って、あれ以来倉持さんに尋ねることもできなかったこと。
俺の言葉を聞いた小湊さんと確か伊佐敷さんがこちらを振り返る。

「どうして、それを知ってる?」

低く小さな声は俺の耳にははっきりと届いた。
その言葉を発した人の名前は俺には残念ながらわからないけれど。

「試合終盤。チームにとって大事な一戦。自分の失投からの敗北。3年の夏を終わらせた挙句…生死に関わってもおかしくない頭へのデッドボール」

彼らは何も言わず、俺の言葉を聞いていた。

「見るからに野球バカっぽくて、プレーから見てあまり場慣れしているように見えないアイツにとってみれば…あの1球がどれだけ重く圧し掛かるかなんて…簡単に想像つきますよ」
「ホント、怖いね。お前」

小湊さんの言葉に少し考えてからありがとうございます、と言葉を返した。

「あぁいう、気持ちが強いタイプだと自分がスランプに陥ってるってことにも気付かなさそうだし…」
「御幸が欲しがる理由がよくわかった」

あの小さな声でそう言って、彼はふっと口元を緩めた。

「アイツは敵に心配されるような奴じゃない」
「…そうですか。まぁ、そのまま落ちてくれれば俺としては嬉しかったんですけどね」
「その割に気にかけるんだね」

知っているからだ。
あの1球の重みを。
いや、きっと俺の方が軽かっただろう。
監督にかけられた言葉も、チームの雰囲気も、勝敗も沢村と俺ではきっと全然違っていただろう。

あの行為が正当化されるあの場所で。
俺がマウンドを降りたところでいくらでも替えがいるあの状況で。
俺がいなくとも勝ったあの試合で。
俺が感じたものと彼が感じたものはきっと、全く違う。
それでも、その1球が大きな傷になったことは疑いようもない事実であった。

「たった1球の失投に、案外人生変えられるんですよ。それが良い方に転がるとは限りませんけど」
「確かに、そうだな。けどアイツが悪い方に転がると思うか?」

自信ありげに笑う彼に、沢村を信頼しているのだなと思った。

「…いえ、思いませんね。沢村なら…地獄も天国に変えそうです」
「違いない」
「…いや、まず地獄だって気付かなさそう」

俺の小さな呟きに小湊さんと伊佐敷さんは吹きだした。

「え、ちょ…なんですか…?」
「確かに、そうだな!!」
「倉持と御幸に言ったら腹抱えて笑いそう」

クスクスと笑う小湊さんに俺は首を傾げたのだった。





玖城が、残る。
そのことを何度も何度も自分の頭の中で繰り返して、下を向く。

だって、おかしいだろ。
Joker'sはメジャーに一番近いチームとか言われてて。
そこでアイツはエースをやってて。
大事な仲間に囲まれて、信頼されて、信用されて。
アイツが望むものが全てあるそのチームを捨てて、なんで俺達を選んだ?

返してって、言ってた。
アイツの仲間は玖城のことを待っているんじゃないのか?

青道の3年と話す彼に視線を向けて、どうしてと小さく呟いた。

「鳴さん?」

どうして、アイツは帰ってきた?
どうして、アイツの仲間は玖城をすんなり返した?
そりゃ、帰って来て欲しかった。
いってらっしゃいを言えなかったから、おかえりって言いたいと思ってたし。
酷い態度ばっかりとってたけど、これでもちゃんとアイツのことは認めてて。
今度こそ一緒に、優勝したいとか思ったし。
背中合わせじゃなくて、隣になんて恥ずかしいことも雅さんに言ったし。
その感情に嘘はない。
嘘は一つだってなかったけど。

本当に、ここに残るなんて思っていなかったから。
だから隠さずに言ってた。

「何でだと思う、樹」
「何がですか?」
「アイツが帰ってきた理由」

俺の言葉に樹は目を瞬かせた。

「帰ってきて欲しくなかったんですか?」
「いや、そういうわけじゃねェけど。アイツには大事な仲間がいて、大事なチームがあって…アイツの野球をする理由は、ここにはねぇ」

なら、どうして帰ってきた?
どうして俺達を選んだ?
おかしいだろ。

「そんなの、簡単な事じゃないですか?」
「は?」
「仲間は増えていくからでしょう?」

樹はそう言って玖城に視線を向ける。

「何で鳴さんは颯音の仲間がそのチームのメンバーだけだと思うんですか?」
「なんでって、それは…」
「確かに、最初は仲間になんてなれてなかったかもしれないし。俺達のこと信頼だってしてなかったかもしれない。俺達のこと、どうでもいいって多分思ってましたよ」

けど、颯音は鳴さん達と一緒に同じユニフォームを着て戦っていた。
鳴さんが信頼していなかったとしても、颯音はきっと鳴さんを信頼してました。

樹は視線を俺に戻して真っ直ぐと俺の目を見つめた。
コイツの目はいつも真っ直ぐだから、時々心の奥底まで覗かれているような気になる。

「だから、颯音は鳴さんをエースだって呼んだんですよ」
「…エース…」
「信頼してない人を、颯音はエースだなんて言いませんよ」

確かに、そうかもしれない。
じゃあ玖城にとって俺達は仲間なのか?
いや、俺はアイツを信頼してないと言い続けてきたから俺は違うかもしれないけど。
この稲実というチームはアイツにとって、大事なチームになっているのか?

「野球を続ける理由が過去にあるから、なんだっていうんですか?鳴さんは一緒に戦ってきたんじゃないんですか?…過去に理由があるからって、颯音が現在にいないわけじゃないって…鳴さんが一番わかってなきゃいけないんじゃないですか?」

樹は失礼なこと言いますけど、と前置きをした。

「現在を一番見てないのは鳴さんですよ」

頭を殴られたような気がした。

「過去に囚われてるのは颯音じゃない。鳴さんですよ」
「どういう、意味だよそれ」
「だって、そうじゃないですか?何で颯音の過去を鳴さんが気にしてるんですか?」

颯音にとって大事な過去だからって、颯音はいつもそれを考えてるわけじゃないってなんでアンタがわかってないんですか?
ふとした時に、大事な試合の前に、思い返すことがそんなにいけないことですか?

樹の言葉に俺は口を閉ざす。
言い返す言葉が見つからなかった。

「颯音にだって今、勝ちたいとか負けたくないとかそんな感情よりも大きなものなんてあるわけないじゃないですか。颯音は鳴さん達と勝ちたいってちゃんと戦ってた。その感情に、行動に過去が関係してないってどうしてわからないんですか」

もう止めろよ、と声がした。
それは少し困った顔をした玖城だった。

「…颯音、」
「聞いてるこっちが恥ずかしい」
「え、あ…ごめん」

玖城は樹の頭を少し乱暴にかき混ぜてからこちらに視線を向けた。

「俺の過去って、どんなものだと思いますか?」
「は?」
「俺の過去は栄光じゃない。数多の暴力と挫折と犠牲とで出来たただの…地獄ですよ」

玖城はそう言って首にかけていたネックレスを外した。
ドッグタグを模したネックレスと一緒についている鍵。
その鍵か何の鍵なのかはすぐに分かった。

「成宮さんは何か、勘違いしてます」
「え?」
「あんな地獄の日々を、俺は忘れたい。忘れてしまいたい。忘れられたら、どれだけよかったか」

玖城はそう言って、ネックレスをこちらに投げた。
それを咄嗟にキャッチして、彼を見る。

「けど、忘れちゃいけないんです。忘れずに…野球をしていかなきゃいけないんです」
「なんで…」
「その犠牲を踏み台に俺が今、野球をしているから」

手の平のネックレスに視線を落とす。
ドックタグに刻まれた彼の名前とJoker's No.1という文字。
俺と同じエース番号なのに、なぜか凄く重たく感じた。

「俺の誓いはその犠牲を忘れない為。俺とLeoの約束は、お互いに同じことを繰り返さない為。登板するときに過去を思い出すのは懺悔の為」

視線を玖城の方に向ければ彼は目を伏せて笑っていた。

「決して許されない。決して過去は変わらない。わかってる。わかってるから…俺達が背負うんです」
「なんで…」
「俺達が…いや、俺がJokerだから」

玖城はこちらに視線を向けた。
弧を描く口と反対に彼の目は何も映していない。
あの時と、同じだ。

「…俺に忘れ去る権利はない。ただ、それだけのことです」

知りたいなら、開いていいですよ。

玖城はそう言って俺の手に収まった鍵を指差した。

「あの本の鍵です。開けたければ開けてください。全部英語ですけど、書いてる本人が子供でしたから。読めないことはないと思います」

その代り、それ相応の覚悟をしてください。

静かに、彼はそう言って笑みを消した。

「そこにある野球は貴方の知る野球じゃありませんから」

俺はじっと、その鍵を見つめてから大きく息を吐いた。
そして左手を振りかぶって、全力でその鍵を彼に投げつけた。

「……いらない」
「え…?」
「俺は、お前の口から…お前のことを知りたい」

玖城は目を丸くして、さらっとキャッチした鍵と俺を交互に見た。

「口にする覚悟がねぇからって、押し付けんな」

あの表情を俺は知ってる。
彼が階段から突き落とされる、と話した時のものと同じだ。
その表情の意味は俺には分からないけど。
確かにそこに、諦めがあった。

「チ、チーム…メイトだから、そりゃ知りたいとは思うけどね」
「成宮さん?」
「……人のトラウマに無遠慮に土足で踏み入りたいって、わけでもない」

彼の過去に囚われていたのは俺。
彼の仲間を気にしていたのも俺。
Joker'sを知ったその日から、俺の目に映る彼は稲実の彼ではなくJoker'sの玖城颯音だった。
樹に言われて気づくとか、スゲェ気に入らねェけど紛れもない事実だ。

「…いつか、話せよ。お前が俺を…俺自身を信頼したら」
「…はい」

大切そうに、玖城はそのネックレスを握りしめて笑った。
向こうの仲間の話をしているときにしか見せなかった笑顔。

なんだよ、ちゃんと笑えんじゃん。

俺は彼のその表情を見て、少しだけ頬を緩めたのだった。



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