4.美濃との決別
明智城を守る。それは血を分けた兄である義龍と戦うということだ。それを行詠に強いたのは利三だが、彼女はその責任を利三のものとしたくはなかった。

彼はきっかけを与えてくれただけ。行詠が義龍と決別する決意を固めたのは利三の行動のせいだと言えるが、最終的に選んだのは自分自身だ。本当に義龍の元から離れたくないのならば、あのとき馬上から利三を薙ぎ倒せばそれは叶っていただろう。そうしなかったのは、利三と共に歩む道を、そして自分の未来を自分で選んだからだ。

姉にかけられた呪縛が信長と出会ったことで解かれたように、行詠もまた利三の手を取ったことで運命は変わったのだ。

利三が手を差し伸べた。槍を下ろし、主命でないにも関わらず彼は行詠に新たな道を差し伸べたのだ。その事実は光秀と合流してからさらに重く伸し掛る。利三は光秀のことを第一に考え、此度の戦いでも準備を進めた。明智領に来たばかりの行詠にも算段を伝え、武器以外何も持たずにやってきた彼女を見かねて厩舎から馬を用意させた。

主君である光秀に尽くすことを何よりの生き甲斐としている彼が、彼の意志の元で自分を義龍から奪い去ったこと。今もこうして、直接の主君ではない自分のことを案じていること。そのことが行詠の胸を締め付けた。

利三からすれば、それは造作のないことかもしれない。行詠が考えすぎているだけかもしれない。上記のことを除けばやはり利三は常と同じように、光秀に忠実に従う男でしかなかったからだ。必要以上に話すこともなければ、出陣前に互いに武運を祈りあったりはしたものの、それ以上のことがあるはずもなかった。だがそれで良かった。十分だった。

それに、自分が特別扱いされているとなれば、光秀に対して申し訳がなかった。同じように、自分が利三のことを特別視してしまいそうになるのも、どこかおこがましいようが気がして嫌になった。

だからこそ、行詠はこの戦いで義龍に一矢報いようと思った。恩を返すという言い草は大袈裟だと言えてしまう。しかし、自分がここに来た意義を、理由を、光秀や利三に示さねばいけないのだ。自分は斎藤家の娘。道三という父親の娘であることに、大きな誇りを抱いて生きている。だが斎藤の道具ではない。兄に指示されて生きているようでは、自分はいつまでも囚われたままだ。

行詠は光秀達と同じように、馬を走らせ出陣した。戦力差は大きい。光秀らは八百七十、対する義龍は三千七百の兵を引き連れている。

戦いは、好きではない。味方が命を落とす様を見て心が痛まないなんてことは有り得なかったし、自分が命を刈り取ることも許し難い行為だと思っている。

だが戦わずに済む道はない。戦わずして、何も勝ち取ることはできない。守ることも、得ることもできない。戦ってこそ新たな道が示される。それを知ったのは、道三のおかげだった。

行詠を含め、明智の兵は懸命に戦っている。その様子は、行詠の予想以上の善戦に思えた。兵力差をも覆すこの勢いは行詠を驚かせると同時に、さらなる光が見えたような気がした。この調子なら兼ねてからの目標通り、義龍に一太刀浴びせることも可能かもしれない。進軍の勢いを止めることはなかった。

だが、長良川の戦い以来顔を見ることはなかった義龍の姿を遠目で見て、それだけで行詠はあの頃の、あの戦場の空気を無意識のうちに思い出した。

体が震えそうになる。姉や光秀、利三達と敵対するという事実は、避けられなかったことを知った上でも耐え難いものであった。それと同じだ。義龍が兄ということは、生まれてから死ぬまで変わりようのない事実。父親の仇である、憎むべき男であるとは分かっていても、肉親という名の鎖が着いて回るのだ。薙刀を握り締める。きっと手加減などしてくれない。兄にとって自分は、裏切り者。それ以上でもそれ以外でもない。行詠は己を律しながら歩みを進めた。

「よお……行詠。可愛がってやっていたのに、よくも俺を裏切りやがったな。俺が美濃を手に入れたら、お前のことを戦になんて出さずにしてやろうと思っていたのによ……」

「兄上……」

「今なら許してやる。俺がこの国を手に入れる僅かな間だけ、俺に逆らった愚か者を殺す手伝いをするのならばな。可愛い妹のことだ、俺が守ってやるぜ」

義龍は大きな槌を携えながら、不敵な笑みを浮かべている。彼は行詠にも、帰蝶にも自らが美濃の主となった未来のことをよく話していた。妹に対する彼が思い描いていた処遇は、道三の行いとは正反対のことばかり。余程父親、道三に対して反感があったといえる。道三への憎悪が引き起こしたこの一連の戦いの果てにあるものは、一体何だというのか? 行詠は彼の思い描くこの先が見えなかった。いくら綺麗なことを妹たちに言っていたとしても、それを実行する為の手段は悪辣なものだった。そんな人間が成すこの先の未来は、きっと自分にとって受け入れ難いものであるはずなのだ。そう自分に言い聞かせた。

「……今更何も言うことはありません。裏切りを弁明することも、ましてやあなたの元に帰ることもないでしょう。ただ思うのは、兄上が向けたその優しさを、私や姉上だけでなく全ての人に向けていたら……そう、思うばかりです」

薙刀の鋒を、義龍に向ける。義龍の目の色が変わった。それは、かつて彼が道三に向けていたものと同じだと行詠は思った。今、明確に義龍は行詠のことを敵であると認識した。

「お前にその気がないのなら、俺はもうお前を倒すしかねえなあ……あーあ、残念だ」

義龍が、そして彼の周囲の兵全てが行詠を捉える。槌が、槍が、弓矢が行詠を狙っている。義龍を狙う。これは肉親を討つという罪を背負うものではなく、父親の仇を取るためのものなのだ。そう思った時だった。

「義龍様! 策の準備が整いました。これで間もなく城は落ちるでしょう。急いで退かれよ!」

策? 何のことだ、と思ったのち、行詠ははっとした。なぜ義龍が陽動だと気づかなかったのか。ここまで進軍できたことは、自分たちが奮戦していたから……そんな都合のいい話をなぜ信じていたのか。きっと今このとき、明智城には自分たちが思いもよらぬほどの大軍が迫っている。ここで義龍を追うべきではない。そこまで行詠は先を読み、歯噛みした。ここで義龍を討ってこそ、彼への最後の情を断ち切ることができるというのに。

「残念だったな、行詠よお。……お前は明智に付く意味なんてねえ。俺を殺すこともできねえ。可哀想だが、ここでくたばってくれ」

義龍が兵に合図を出す。彼は部下が連れた馬に飛び乗り、瞬く間に駆けていく。行詠は追いかけたかったが、これ以上のことをしたところで何もかも無駄だと思った。

義龍が兵に下したのは、行詠に大量の矢を浴びせろという合図。矢ごときに怯むような教育を施された行詠ではない。だが、ここまで兵を倒してきた、殺めてきたことが無駄だと知ったことへの驚嘆は大きかった。馬を操り矢を避け、薙刀を大きく振り払って弾く。しかし、一つの矢が肩を掠めた。

その矢は肩の表面を、戦装束を、皮膚を、大きく裂きながら通過した。その痛みの衝撃から、行詠は均衡を崩して落馬した。

地面に投げ出される。考えられないほど、矢の痛みなどとは比べ物にならない痛みが行詠を襲った。戦で負傷したことはある。馬から落ちたことも。だが落下した際の当たり所、負荷が相当悪かったようで、今までに負った怪我の中で一番大きな痛みを感じた。

左足だ。左足首、踵、踝といった箇所周辺に、馬から落ちたことの衝撃が全て加わった。確実に骨は折れていると反射的に思った。共に落ちた薙刀を急いで回収し杖のように地面に打ち立て立ち上がるが、立つこともできないほどの痛みで行詠は思わず涙を浮かべた。地面に足を付けるだけで痛い。体重を掛けるなど以ての外。だがここで、こんな所で雑兵にやられてなるものか。行詠は必死に左足を引きずり、主を失い暴れる馬にしがみつくようにして馬上に戻った。

とにかく今は退いて、光秀達と合流しなければいけない。義龍はとっくに居なくなっている。いるのは彼の指示を受けた者だけ。馬を必死に走らせる。左足が痛い。馬に乗って揺られているだけで相当な圧力が掛けられているような気がした。

きっと、手当を受けている暇などない。なぜならば、城は間もなく……最悪の想像をしてしまう。城を守る光秀の叔父たちはきっと。行詠は情けなくなった。城を守ることができないどころか、義龍を取り逃してしまった。その上、何もできないまま逃げ帰る。腹立たしいことこの上ない。気持ちが交差する中で無性に、利三に会いたくなった。謝罪の気持ちと、やっぱり自分は長良川で捨て置かれるべきだったという後悔、それらとはまた違う、単純に彼に会って安心を得たいという利己的な感情があった。

「姫様!」

利三の声がした。冷静な彼にしては珍しく、声を荒らげている。馬に飛び乗りぐっと堪えた涙が、行詠の目から零れ落ちそうになる。

「……光秀は」

本当は、思い切り泣いてしまいたかった。足の痛み、肩の痛みだけではなくて、それ以上に不甲斐なさが大きかった。行詠はそれでも、光秀の状況を把握するほうが先だと思った。

「殿は、城に……だが、それがしもお供いたしたがもうあの地は……それがしは撤退路を切り開くために魁となった。殿の無事を確保するために」

「そう……分かったわ。生きてこの地を、脱しなければ」

痛みは消えない。だが戦場という環境がそうさせるのか、行詠から未だ闘志は消えていない。まだ戦える。悔恨はあるが、それらを精算するのは全てを切り抜けてからだ。

「姫様。今は目の前のことを考えるのみ。余計な言葉は無用……しかし、あなたのその傷は……」

「いいの、利三。あなたは優しい。でも、今はその優しさを私に向けないで。あなたは殿の懐刀。何も言わなくていいわ。死なないで、利三」

草木で指を切っただけで、女中が大騒ぎするような立場で行詠は生まれた。それでも行詠は人を殺めることを正義とするこの環境で生きることを選んだ。それが父のためだからと判断したからだ。

本当は、遮ってしまった利三のその言葉の先を聞きたかった。行詠は無理をして生きている。心配の言葉が欲しいわけでも、構ってもらいたいわけでもなかったが、利三の言葉があれば救われるような気がした。父、道三は厳しくも尊敬に値する愛しい父親だった。父のために戦い賞賛を得られることは大きな喜びだった。今は違う。今は誰かのために戦うことで得られる何かはいらない。自分の目的のために戦って、その結果としての同志の言葉が欲しかった。

「は……姫様。共に死地を乗り越えましょうぞ」

利三が勇を奮い、彼が取り逃した敵は行詠がとどめを刺した。後に、城の惨状を目にして精神的に大きく疲弊した光秀が合流する。

明智城は落ちた。

炎上する城で、光秀の叔父である明智光安、光久は自害した。

光秀の慟哭を聞き、行詠はなぜ自分が生き残ってしまったのかと思った。光秀の元に残されたものは、僅かな将兵だけ。このまま光秀の元にいても、足手まといとなるだけだと思ってしまう。

「姫様……」

行詠は肩と足、負傷した箇所に応急処置を施す。包帯を巻く行詠を、利三は見ていた。肩からの血は未だ止まっていなかった。よく貧血にならずにいれたものだ。左足は大きく腫れ熱を帯びている。戦が終わればそれらの痛みはさらに増した。

「いいの、光秀の元にいなくて」

そう口では言っていても、本当のところは嬉しいものだった。

「あなたと話す責任がありますゆえ。ご自分で背負う、その心意義にそれがしは安心いたしたものの……そのような大怪我を負ってしまわれるとは、それがしは顔向けできませぬ。謝罪のしようも……」

「……全部自分でやったことだから。あなたのせいじゃない。私、初めて自分のために戦ったの。でも、それがこんなに怖いことだって思わなかったわ。後悔はしていないけれど、光秀にも利三にも迷惑をかけてしまうなんて……滑稽だわ」

「迷惑など、とても……姫様がご無事なだけで、それがしだけでなく殿にとっても救いとなりましょう。戦力がほしい、そんな単純な問題ではありませぬ。気心の知れたお方が共にいる、それだけで心強いものゆえに」

「ありがとう……利三にそう言ってもらえて嬉しい気持ちもあるの。あなたは私にとって、私を解放してくれた恩人だから。私ね、本当のことを言うと……怪我をしたとき、とてもあなたに会いたくなったわ。こんな環境だからかもしれないけど、あなたがいると安心する」

「かようなお言葉……胸に刻みまする」

心做しか、利三の表情が幾分柔らかくなったように行詠には見えた。

これから、自分たちは牢人となる。あてのない放浪の旅となる。いつ義龍の手が差し向けられるとも限らない。療養に時間を費やす暇などない。利三だけでなく光秀も同じように行詠を心配していたが、行詠は引き下がらなかった。まずはこの美濃から遠く離れることが重要なのだ。相変わらず馬に乗っているだけで足は痛む。それでも行詠は他者の助けを借りなかった。

美濃との別れが、このような形になるとは。行詠は故郷を後にする。失ったものは大きい。だが、得たものもある。行詠は、新たな自分に生まれ変わった気がしたのだった。

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