5.一乗谷の二人
義龍の軍勢は、圧倒的な強さを誇った。利三は光秀と行詠の無事を祈っていたものの、結果的に行詠は大怪我を負った。城は落ち、失ったものはあまりにも大きかった。利三はそれでも、自らの無力さを嘆く光秀を横目に見ながら涙一つ流さなかった。ここで心を痛めるのは従者の役目ではない。光秀が打ちひしがれてるからこそ、利三は平常心を保つ必要があった。
それを踏まえた上で、だ。
戦場で行詠と合流した時、利三はあと一歩のところで冷静さを失ってしまう所だった。
戦場の興奮というものは、多少の傷を負ってもその痛みを感じさせなくする作用がある。利三もそのように感じることがあった。それにしても、あの時見た行詠が負った怪我は酷いものだった。行詠本人が自分のことよりも光秀のことを優先して話し、その後も戦い抜いたからこそ利三もあれ以上声を荒げることはなかったが、そうでなければ……想像するだけで、肝が冷えた。
本当ならば一刻も早く医者の元に行って必要な処置を受けるべきだろうが、行詠はそんな暇があるのならば遠くに行くべきだとして聞かなかった。行詠の言うことにも一理あるが、利三としては複雑な面持ちだった。
行詠は光秀と同じく、守るべき人間だ。どちらか一方だけ……などと言われたならば光秀のことを選んでしまうのは前提だとしても、行詠のことも大切に思っている。その気持ちは、一連の戦いとその中における行詠の言葉を聞いて強まった。
改めて、道三の言葉を思い出す。行詠が言った、利三といると安心する、そんな言葉と共に。
道三が言った、行詠を己に嫁がせたいという言葉。冗談ではきっと、済まされない言葉。真意を聞くこともできないままだったが、それが今も胸の内に生きている。あの頃ならともかく、現在の彼女を安心させられるのは、彼女を守ることができるのは、きっと自分だけしかいない。特に今の行詠は斎藤の姫君ではなく、光秀に付き従う一人の女として生きている。彼女自身がそれを選んだのだ。
一人の女として散らすことを許したくない。それに、彼女には武家に産まれた女性としてだけの幸せを掴み取る、そんな生き方は勿体ないと感じる。勿論、あのようなことがあった以上戦場に立てと無理には到底言えないが、それでも縛られるだけの生き方は似合わないように思える。自分ならば、行詠を政略の道具に使うことなんてしない。そんなことを考えるまでに、利三は行詠に対する思いを強めていった。彼女のことをよく知らない人間が夫となってしまうくらいならば、道三の言葉通り自分が──
ここが潮時かもしれない。かつて道三から縁談の話を持ちかけられたこと、それが本気であれ、冗談であれ……自分こそが、行詠の夫としてふさわしいと思う気持ちが芽生えてしまったこと。隠し通すのは、不誠実だ。利三は、いよいよ打ち明けるときが迫ってきたと感じた。
流浪の旅。光秀、利三、行詠、そして僅かな兵。あてのないままさすらう毎日。光秀や利三は、各地で戦の助太刀に明け暮れた。そうしなければ金は得られないし、生きていくことができない。その度に行詠は宿や往く先々にある空き家、あばら家で待機している。それもまた忍びなかった。行詠自身も、役に立てない負い目を大きく感じている。それを和らげたいという気持ちはあれど、何をしたとして解決には至らない。もし行詠からの了承を得たとして夫婦となったとして、利三が彼女と共に過ごす時間は多くはないだろう。その話をするには、気が熟していないようにも思った。
そうした毎日の中、光秀たちは越前に辿り着いた。この地も変わらず、民の安寧を妨げる人間が多くいる。悪を許せず、清廉な光秀は一目散に駆け出そうとする。そんな彼に半ば呆れながらも、利三もまた駆ける。止めようとしても無駄なのだ、この主は。行詠はというと相変わらず戦乱を避けるように潜伏している。その繰り返しの中、今までの待機が堪えたのか馬上で薙刀を振るうくらいならできると行詠は言ったことがあった。だが他でもない利三が彼女の出陣を止めた。それは彼女の思いを踏みにじる我儘かもしれなかったが、これ以上無理をさせたくなかったのだ。その果てに、光秀たちは一時の安穏を手に入れた。
「……それにしても、義景様がこんなお屋敷を与えてくださるなんて本当にいいのかしら。いくら私達皆で寝食を共にするとはいえ、厚遇すぎるわ。私なんて、先の戦いでも何にもしていないのに。ずっと薙刀をお守りみたいに握りしめて……早く治るといいのだけれど」
ちらりと利三が振り返る。後ろには縁側に座っている行詠の姿。彼女は足の包帯を取り替えている最中だった。骨が折れていると思われる箇所は、赤黒く変色していた。旅の途中で医者に診てもらったものの、それでも治るにはまだ多くの時間がかかりそうだった。
「初めは殿が一切の俸禄を固辞したものの……最低限の生活は必要ゆえ、とそれがしが進言いたした次第。……屋敷だけは立派でも、これではまだ食べるには心許なくござりまする」
馬上にいる間はともかく、旅の途上ではずっと馬にいることは不可能だ。ある程度は歩かなければならないし、その上行詠は常に重い薙刀を手放さなかった。起きている間は勿論のこと、眠っている間も傍に置いている。そうした生活が治りを妨げている可能性もあるだろう。だが武器を片時も手放したくないのは、武家に生まれた人間の宿命ともいえる。利三もそうであるからだ。
「光秀は真面目で清い人だから、せっかくの申し出も断ってしまう……利三の良さが幸をなしたようね。でも良かったわ。食べるものに困ったとしても、寝る場所はちゃんとあるんだもの。義景様の元でなら、光秀も私も……学ぶことがあるかもしれない。勿論、利三も」
行詠は包帯を巻き終わった。板で足を固定している分、当初よりは痛みが軽減されているらしい。暫くは無理な移動もさせずに済む。食べ物には困る生活となりそうだが、その辺りは自分達が武働きで返せばよい。そこまで利三は考えて、今こそが絶好の「機会」なのではないかと思った。
光秀は義景の元にいる。そう遅くないうちに帰ると言っていたが、まだすぐには帰ってこないはずだ。利三は、ふと空を見上げた。雲ひとつない、快晴がそこには広がっている。天は、祝福してくれるだろうか。それ以前に行詠の気持ちをしっかりと知らなければならない。全てを決めるのは、結局人なのだ。利三は行詠の隣に腰掛けた。
「……姫様。ずっと、申し上げたかったことがありまする。こうして寄る辺を得た今だからこそ、伝えねばなりませぬ」
「伝えたいこと? どうしたの、そんなに堅くなって」
「姫様に縁談の話があったことを、あなたはお知りだったか、と……」
あまりにも回りくどい言い草。利三は、率直に言うことはできなかった。行詠の顔を見る。普段と変わらない表情。少しだけ驚いたようにして、利三を見つめていた。
「縁談? 聞いた事ないわ。私は仮に嫁ぐことになっても、嫁ぎ先ではなく父上の利のために生きる……そんなことを考えていたこともあったけれど。本当にそんな話があったなんて 」
でも、なんで今そんなことを。困惑する行詠を前に、本当に言っていいものかと利三は悩んだ。行詠は誰のためでもなく、彼女自身のために生きてほしいと思う。それがあの時彼女の手を取ったことに対するせめてもの罪滅ぼしである。また、道三の意思を継ぐためでもある。結婚、夫婦という鎖に縛り付けることになろうとも、それでも自分以上に彼女を自由に、今までの呪縛からできる男などいない……ここまで考えて、やっぱり己もその他に位置する有象無象と変わりないのでは、とも思いはじめてしまった。
しかし、ここまで来てしまった以上、背を向けるわけにはいかない。背を向けるのは、武士として、それ以前に人間として恥だ。利三は観念した。
「道三様が、それがしに仰られていた。あれきりで話は仕舞いとなり、本当にそのつもりがあったのかは分からぬままであったが……道三様は、姫様を……あなたを、それがしに嫁がせたいと」
「……あの父上が、そんなことを。私、ずっと顔も知らない殿方に嫁ぐものだと思って生きてきたのに」
「それがしも、信ずることはできずに毎日を……道三様は冗談だと言ったものの、こうも言い申された。 あなたがもし、政略とは無縁な市井を生きる女性だとして……それがしのような男とならざ幸せになれると。その言葉が忘れられませぬ」
自分は何を言っているのかと利三は自嘲した。大真面目に、自分のような男と結ばれるのが幸せなどと。いくら借り物の言葉とはいえ、そのようなことを自ら口にできる立場ではないというのに。
だが行詠の頬がみるみるうちに朱に染まっていくのを見て、利三は思わず釘付けになった。まだ、それ以上のことは何も言っていない。
ああ、この人はこんな顔もできるのか。光秀に着いて城に上がり、そこで彼女と出会ってから長い時が過ぎた。それでも、初めて見る表情だった。率直に、美しいと思った。
「父上の言う通りかもしれないわ……だって私、明智城で傷を負ったとき、とても利三に会いたくなったの。あなたといると安心する。あなたがいないと不安になる。長良川で私が家の縛りから解放されたときから、ずっと。あの城のお姫様じゃなくなってから、私はあなたのことばかり意識している」
頬に手を当て、羞恥からか目を逸らしながらも行詠は自らの気持ちを吐露した。
利三には、ずっと背負ってきたものがある。行詠を連れ去ったこと、行詠の怪我を防ぐことができなかったこと、彼女を故郷から遠い地に連れてきてしまったこと、道三の言葉を隠してこれらの行いをしてしまったこと。行詠が本当にこれまでの自分の行動を悔いていなかったとしても、利三にはずっと着いて回っていた。
これからもきっと、悩み、後悔することばかりだろう。利三はどれだけ行詠のことを愛したとしても、彼女のことを一番に考えることはできない。それが、光秀に仕える従者としての生き方だからだ。それでも、仲間ではなくその先に進みたい。行詠のこの表情を見ることができるのは、自分だけであってほしい。己に似合わぬ独占欲が生まれる。せめて彼女の傍にいられる時だけは、彼女の為に尽くしたい。聡明で美しい、守るべき尊い方。主君に向ける愛と彼女に向ける愛。どこか似ているようで、その実大きく異なっている。
「姫様……差し出がましいながらも、それがしは……あなたを妻として迎え入れたく存じまする」
利三は、自分の鼓動をはっきりと感じた。戦場の高揚、悲嘆、衝撃、いずれを経験しても感じないほど、胸が大きく拍動している。
「うん……利三。あなたの妻になりたい。私、利三のことが好きなんだわ。だって、こんなに大変な目に遭っても全然辛くないんだもの。ああ、ずっと昔からあなたを知っていたのに、今この気持ちに気づくなんて。父上はきっと、お見通しだった……」
行詠が、隣にいる利三に寄り添う。
抱き締める勇気は利三になかった。代わりに、行詠の手を握る。
生きている。血が通っている手。愛おしいと思った。本当は、この手でずっと守ってやれるならばどれだけいいか。けれども、この感情すべてが「幸せ」というものなのかもしれないと思った。
「利三……私はあなたにとって、ずっとお姫様なのかもしれない。けれど、もう姫様なんて呼ばれる立場でもないから……せめて私の名前を、名前だけを呼んで欲しいの」
「し、しかし……」
「いいの。……ね、お願い……」
「………行詠」
「……不思議ね。名前を呼ばれただけなのに、とっても嬉しいわ」
行詠の笑顔が眩しい。利三は意味もなく赤面して、手を握る力をほんの少しだけ強めたのだった。