6.出雲の方角
所謂、「新婚」というやつだ。行詠は晴れて利三の妻になることを了承したものの、だからといってどう過ごせばよいのか、その答えを見いだせずにいた。

道三から教えられたことというと。嫁ぎ先では表向き夫となった男に従うこと。忠実でなければいけないし、妻として、女としての役目は果たすこと。夫が道三、ひいては美濃にとって仇なすような行いをするのならば、その行為を止めること。行為を止めるということは意見を聞き入れてもらわねばならないということである。よって、普段から夫に対して何でも物申し、臆せずにいることが大切である。そして、もし道三から夫を殺せと伝えられたならば、容赦なく殺す。

利三には、このような教えは通用しない。道三が世を去ったから効力が途絶えているという以前に、もし稲葉山城で暮らしていたときに結ばれていたとしても何一つ役に立たなかっただろう。

武家に生まれていなかったら、一体どんなことを教えられていたのだろうか。行詠はため息を吐いた。市井に生まれていたら利三のような人と結ばれるのが幸せだろうという父の仮定は間違いではない気がする。実際、利三からそれを伝えられたときは喜びの感情しか生まれなかったし、そう言われてみるとずっと昔から彼の傍にいることが心地よく感じていたように思うのだ。

夫婦の間に愛なんていらないと思っていたものの、利三に対しては(直接仕えているわけではないが)一介の臣下というには重すぎる情を持ってしまっている。行詠は頬を熱くさせたあの日のことを思い返した。はっきりと、利三のことが好きだと言ったのだ。利三が果たして、道三の言葉だけでなく自分の真の気持ちとして自分を娶りたいと思っているのか……そんなことを考えるまでもなかった。利三の手を握った時、彼の指先は震えていた。瞳は、揺れていた。優しく笑う、これまでに見たことがない彼の姿。葛藤があったのだろうと思う。長良川で敵と対峙して以降、色々なことがあった。ありすぎてしまった。

だからこそ、彼にとっての「姫君」ではなく「妻」として振る舞いたいという気持ちはあるのだが、上手くやっているという自信はない。少しでも利三の元に自分を嫁がせたいと思っていたのならば、少しくらいは普通の夫婦としての常識を教えてくれても良かったのに、と行詠は思った。そう思う程度に何も分からず、また生活は大きく変わったわけではなかった。拠点を得たというだけで、金もなく食べ物も最低限の暮らし。道三が言うところによる「女」としての役目も、特に果たしていない。それほど大切にされているのだ、ということだけは何となく感じていた。それだけが愛の証ということでもないし、むしろ二人で過ごしているときは何だか今までより一番優しく接してくれている気がする。光秀に向けるような小言を言われた覚えもない。また利三から行詠に触れることはほとんどなく、ふとした瞬間であっても、手や髪に触れることを躊躇する。名前を呼び捨てるようになったものの、堅い口調は変わらない。彼の中には未だ「姫君」という認識が根付いているようだった。それもまた、彼らしいと思えて行詠は好きだった。

「出雲に行くなんて、急な話だと思ったけど……義景様のお言葉だったのね」

そんな折。光秀は義景からの薦めで出雲に出立することになったらしい。当然、利三も同行することになった。この所、越前は落ち着きを取り戻している。義景の元、光秀たちが尽力したおかげだ。だからこその義景の厚意なのだろう。光秀は力を求めている。その問いを見つけるための旅なのだ。

「……申し訳ありませぬ。それがしといれば安心するとそなたが仰った日のことを覚えておきながら、このような次第に……」

とはいえ、行詠にとっては必ずしも喜ばしい知らせではない。行詠の体に遠出は大きな負担がかかるから、当然着いて行くことはできない。これまではこの越前国を中心に戦うことが多かった。会えない日があろうとも、声を聞けない日があろうとも、長い間その姿を目に入れないでいるということはあまりなかった。無論、話せない日に寂しさを感じることは否定できないが、光秀のために戦う彼こそが、本来の彼であるとも思えた。それに、光秀もせっかく結ばれたにも関わらず申し訳がない、と直接頭を下げられたのだ。

「寂しいことは否定できないわ。……でも、光秀のことを守れるのは、きっとあなただけだから。最近はこの国も安寧が保たれているし、あなたが無事だったら何もいらないわ。光秀にも謝られてしまったけれど、本当に謝るのは私のほうなのだから」

「行詠……不甲斐なく思いまする。それがしはあなたの痛みを引き受けることができないのだということを……」

「いいの。その気持ちだけ、受け取っておくわ。あなたはいつだって優しい。それだけで私、とても嬉しいの」

ほんの少しだけ、虚勢を張った。利三の本領が発揮されるのは光秀といるとき、彼のために策を練り、戦を勝利へと導くとき。分かっていても、拭えない寂しさがある。

彼がいないときは、いつだって不安だ。しかし、その不安の正体は、ただ傍にいることができないことのみではない。

傍にいれば、いることさえできれば利三のことを守ることができる。刀でも槍でも弓矢でも、向かってくる凶弾から守ることができる。光秀のことを守ろうとする利三を守れるのは自分だけしかいない。

夫婦としてのあり方としては間違っているかもしれなかったが、行詠にとって利三は守らなければいけない人だと強く思う。光秀に仕える利三の姿をずっと見てきたからこそ、そう感じるのだ。妻として過ごすにあたって、分からないこと、不十分なことばかり。明確な解決方法を見つけることができないまま生きている。そんな中、今までのことを思い返して至った一つの、妻としての結論。それが、自分が身を呈して利三を守るということだ。それができない自分の体が憎い。行詠は自らの左足を睨む。

腫れは引いた。持続的な痛みも随分和らいだ。だが、軽く触れただけで、足を揺れ動かしただけで鋭い痛みが走ることに加えて、近頃は痺れの症状が強く出ている。足を引き摺らないと未だに歩くことができないのだ。このままでは、いつまで経っても妻としての本懐を遂げられないと思ってしまったのだ。行詠もまた、光秀が強さとは何かを学びに遠征するように……自身の生き方について学ぶ必要があった。

光秀達の出立の日。光秀が義景に挨拶するということで、それを終えた時が暫しの別れだろうと思った行詠は無理を言って同行した。その間も光秀は勿論のこと、利三は行詠以上に彼女のことを案じた。

その帰り道。つまり、もうすぐ彼らは出立する。こんなことが続いてしまうなら、やっぱり利三を守るなんて夢のまた夢かもしれない。行詠は自身に寄り添う利三を見上げながら思った。例えばここで、陰に潜んだ刺客がいたとして。身を呈して彼を庇うには、その歩みを勢いよく進める必要がある。そんなことができるのか。いや、できないに決まっている。むしろ守られてしまうだろう。行詠の気持ちは沈んだ。

「……いかがなされた?」

「ううん、何でもないわ。ただ、無事であることを祈ることしか私にはできないけれど……私、待っているわ」

利三は少しの間黙って何かを考えているような様子を見せた後、おずおずと手を伸ばし、行詠の頭を撫でた。ぎこちない動きの彼を見ていると、行詠は沈んだはずの気持ちがぱっと明るくなっていった。

「ありがとう、利三」

そういうと、利三は行詠から目を逸らしてしまった。少しだけ頬が赤いようにも見える。光秀の送る、揶揄するような視線に気がついたからかもしれない。

遠慮がちに触れる彼の姿は、城でよく共に鍛錬していた頃に手加減なく向かってきたときとはまるで正反対だ。そういう一面も含めて、やっぱり利三のことが好きだなあ、と行詠は思った。





それから暫くの時が過ぎた。

「義景様。わざわざお越しになるなんて」

「城にいるばかりでは、民の暮らしに寄り添うことはできません。それに、たまにはあなたとも話そうと思ったのです」

「私と、ですか?」

「ええ。婚姻したしたばかりだというのに、私はあなたから利三を遠ざけてしまった……近くにいる者の気持ちを慮れないようでは、民の安寧を司ることなどできない。そう自省したからでもあります」

行詠は思わず、口に入れた茶を吹き出しそうになった。利三と結婚した(とはいえ、このような状況であるし祝言を挙げたわけでもないのだが)ということは、利三本人のほかには光秀くらいしか知らなかったはずだからだ。

「な、なんで結婚のことを知っているのですか……?」

「……? 光秀が教えてくれましたよ」

納得しすぎる答えだった。利三はこの暴露に何と言ったのだろう。聞いたところで、という話になるのだが。

「光秀が。それなら仕方ありませんね……いえ、いいんです。私がもっと自由に動けるならば、利三に着いていくことができたのですが……中々、治らなくて。歩く分には随分と楽になってはきたのですが……またお医者様に診てもらうべきかとは、思うのですが」

典医を紹介しましょうかという義景の姿は、正しく聖人に見えた。父と同じように城を持ち、国を背負う立場の人であることに変わりない。けれども、その性質はまるで異なるように行詠は思った。

「そうですね、義景様の紹介なら安心できそうです。私、早く戦場に戻って、利三を守りたいと思うのです。でも、このままだと上手くいかない気がします」

「あなたは利三のことを、本当に大切に思っているのですね。よく伝わってきます」

「……はい。私、城にいたころは誰からも守られる存在でした。けれど、今はもう違う。利三は、光秀のことを守るため、光秀のために全力を尽くして戦っている。私は……そんな利三を守りたい。そう思っています」

主のために死んでいく人間のことを、行詠は大量に見てきた。主のために果てることは、武士ならば本望かもしれない。それでも、そんな生き方は悲しいものだとどうしても思ってしまう。自分が率いた兵士が倒れていく様子を、行詠は今でも鮮明に思い出すことができた。

「守る、ですか……守るという行為は、ただその人を、身を呈して庇う……というだけには留まらないと思います」

「と、言うと?」

「私は、常々民に守られていると思います。私たち武士は、民の暮らしを守り、安寧に導くことこそが責務。ですが、そもそもの民がいなければ私たちの責務そのものがなくなります。その事を思うたび、私は務めを果たさなければいけないという思いが強くなります」

「……なら、私が利三のことを守りたいと思うのは……」

「あなたは既に、利三のことを守っているのではないでしょうか? 彼はきっと、光秀のためならどんなこともしてのけるでしょう。その源……つまり、命を掛ける覚悟が彼の内にあるからです。しかし、命を捨てることはできないはず。あなたを置いていくわけにはいかない……そんな気持ちが、きっと彼の中に存在していますよ」

生きていく中では、疑ってかかるということも重要だ。だが義景の言葉は、何の違和感もなく行詠の中に入っていった。

それが正しいかどうかではなく、利三がそう思っていたとしたら、喜ばしいと思った。

「利三の、あなたを見る目を眺めていれば分かります。彼はあなたのことを本当に大事に思っていますよ。彼は恐らく、光秀とあなた……どちらが大事であるのか、自問自答し、迷うこともあるでしょう。けれどもそれは両立します。答えを出す必要もありません。夫婦も主従も、一方向の関係ではなく、相互に依存し、関係するものだからです」

他人から見てそう見えるのならば、本当にそうなのだろう。行詠は遠い地に旅立った利三のことを想った。初めからそうだ。利三はいつだって自分のことを大切にしてくれている。

こうやって平凡に過ごすことに後ろめたさはあるものの、戦とは無縁な生活を送るということで、かえって利三に安堵を与えることができる。利三自身も、無事に帰還しなければならないという思いが強くなる。確かに、よくできている。

「義景様……ありがとうございます。私、答えを見つけられたのかもしれません。妻としてどうあるべきかという、答えを」

戦場に在ることができれば、それが一番いい事だと思っていた。今もその気持ちは確かにある。だが、それだけが妻としての生き方でも、守るための手段というわけでもない。

それを知ることができて、本当に良かった。義景がいる手前、それ以上のことは何も言えなかったが、余計に利三に会いたくなった気がした。

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