7.月山富田城からの帰還
義景の元、光秀は守る強さを知り、利三もそれに従った。だが、それだけではどうにもならないことがある。世の中、上手くいかないことだらけだ。

力がなければ、何も守ることはできないのではないか。全ての出来事は、力だけでは収まらない。そこには理や、義が密接に絡み合う。だが、利三は月山冨田城の戦いを経て力というものの意義を改めて見直すことになった。尼子には力がなかった。圧倒的な数に抗う程の力は既に尽きた。滅びの過程を間近で見るのは、利三にとって二度目のことだ。

一度目は明智城。二度目は月山冨田城。どちらも敗因は、力がなかったことに起因するだろう。どちらも数を覆すには至らなかった。そう思うと、一人の力で二人を……つまり、光秀と行詠を守ることなど、やはり不可能ではないかと思った。二人を守りたいという気持ちは嘘ではない。嘘ではないからこそ、悩ましい。光秀を優先するのは当然であり、これからも揺るぐことはない。それは、武士であるからだ。だが行詠のことも嘘偽りなく愛している。それは、夫であるからだ。その感情を、言葉にも態度にも表せないだけで。行詠に今の己はどう思われているのか……利三はそれを知るには少しの勇気が必要だと思った。愛されていないと思われても致し方ないことであるからだ。

行詠を娶るにあたって、利三が思い悩んだことはいくつもある。だが娶った以上、その責任は果たしたいに決まっている。それに、利三はこうも思った。それはつまらぬ男の意地かもしれないことだった。越前で過ごしているときに自覚したことだ。やはり彼女が自分の体を支えにして拙く歩く姿を見ていると、どうしようもなく惨めなほど醜い独占欲が湧き出てくるのだ。自分以外を頼らないでほしいと。そのような独善的な感情を、未熟な餓鬼のように忘れられないでいる。行詠に告白した日から、欠かさずに。傍にいることができないときもだ。このまでくるといっそ、惨めにも感じた。

ろくに愛を伝えることすらできない毎日だ。結ばれたとは思えないほど、利三はそれ以前と変わらない態度を彼女に取ってしまっている。美しく、高貴な方だ、という印象だけは変わらない。そんな方に軽々しく接することはできないと、この後に及んで思ってしまっている。あの時無理やり彼女を抱き抱えた頃の大胆さがまるで嘘のようだ。

愛しているなんて陳腐な言葉、と思わないでもなかったが、その陳腐な言葉すら彼女に捧げていないのだ。これでは、守るだのどうだのという以前の問題である。力が付いたとして、守ることができたとして、愛がなければ意味がない。政略で行詠を妻にしたということではなく、心の底から彼女が妻であってほしいと思っての婚姻だというのに、上手く行かないことばかりだと利三は若干落ち込んだ。とはいえ表情はいつも通りであるし、目の前を歩く光秀をしっかりと見据えている。手に持つ槍はいつ敵襲を受けてもいいように丁重に手入れされていて、常に周囲への警戒を怠らない。だがそんな利三に水を差す男が一人。

「それにしても、利三って結婚したばっかなんだろ? 奥さん、寂しがってないのか? お互いが好きで結婚したっていうのに。中々ないもんな、こんな乱世で恋愛結婚なんて」

利三の眉間に、皺が深く刻まれた。なぜ鹿介がそのようなことを。振り返った光秀が意地悪く笑った。

いつの間に、殿は鹿介に。利三は敬愛する光秀の裏切りともとれる行為に、すぐに返答することができなかった。

「俺一人でもいいと言ったが、どうも聞き入れなくてな。利三らしいが、姫様に嫌われても文句は言えないぞ」

「……それがしはどこまでも殿に着いていく所存でござりまする。私情よりも優先するものがありますれば」

「まあ、仕方ない部分もあるに決まってるよな。もうすぐ越前に着くし、早く会いに行ってやれよ? なあ利三、やっぱり奥さんに会えないって寂しいものか?」

早くこの話を終わらせたいものだ。そうは言っても変に話を反らせたところでからかわれるのが落ちである。利三は潔く諦めた。

「……寂しくないとは、言えぬ……」

寂しい。正直な気持ちだったが、隠すことができないほどにその寂しさは拭えない。長良川の戦いの後から、共に過ごした時間の密度はそれまでには考えられないほど大きいものだった。今回のように長期間行詠の顔を見ることができないのは初めてだったから、余計にだ。光秀といるとき、戦っている最中は彼女のことを考えないように無意識に追いやることができたものの、気持ちを率直に尋ねられたならば、隠すことはできなかった。

「利三が姫様への感情を素直に話すとは、今夜は槍が降るな」

「槍が降るくらいのことなのか……? 寂しいくらいのこと、俺だったら誰にでも言えるけどなあ」

「普段は器用だが、こういったことになるとてんで不器用なのが利三だからな」

「……」

強くならねばいけない。鹿介はあの一戦でそう思ったはずだ。それからは気楽に雑談することもなく、ここまでやってきた。はずだったというのに。こんな無駄話に興ずる必要もあるまい。そんな猶予などありはしない。そう利三は思っていたというのに、光秀も鹿介も余程利三の話が面白いのか本人を置いて盛り上がる始末だった。

「でもな、寂しい気持ちを持つことは恥ずかしいことなんかじゃない。直接会えなくても……ほら、月を見てみろ。月は誰の元にも平等にある。同じ月の元に、俺たちはいるんだ。きっと利三の奥さんも同じように空を見上げているぜ。きっと、同じように寂しく想ってるだろうし、な」

言葉につられて、利三は空を見上げた。この日は雲ひとつない快晴で、それは夜になっても変わらなかった。近くにいなくても、行詠は確かに存在している。彼女の温度を感じることができなくても、同じ空の下にいる。気休めかもしれないが、その気休めが今の利三にとって大きな両役となる。先程までと打って変わって、利三は鹿介のことを見直したのだった。

「……鹿介」

「うん?」

「このような流れで、かようなことを言われてしまうとは、思わなんだが……その、感謝いたす」

「全然。利三はなんでも一人で抱え込みそうだと思ったんだよな。光秀に言う訳にもいかないって考えていそうでさ。少しでも気持ちが晴れたなら嬉しいぜ。奥さんも、利三が元気でいれば嬉しいだろうし」

鹿介の言う通りだった。利三は自分のことであっても、行詠のことであっても、光秀に相談しようとは考えたことすらない。それでも行詠について悩むことは多い。守ってやれないことや、夫らしいことを何もできないこと。

行詠が出立前に言った言葉。利三が無事なら何もいらない。彼女はそう言った。それだけであるはずがない。本当は、行詠も正直な気持ちを言いたかったはずだ。だが言わなかった。それを選んだ彼女に応えるには、まず自らが無事にいなければいけない。死に急ぐわけにはいかない。命あっての物種なのだ。それを知った夜だった。いい加減、愛の言葉一つでも伝えねばならないような気がした。




それから数日して、光秀たちは越前に帰還した。義景への報告を終えて利三は屋敷に戻った。浮き足立っているつもりはないと利三は自身を評価していたものの、光秀に「随分と嬉しそうだな。俺も嬉しいぞ」 と言われてしまったので、やっぱり浮き足立っているのかもしれなかった。

日が落ちる寸前。夕焼けが差し込み廊下を照らしている。行詠は何と言うだろうか。利三は障子を静かに開けた。

「利三……! おかえりなさい……」

行詠は書物を読んでいた。大方、義景あたりから貸し与えられたものだろう。最後に会った日と変わらないその姿に、利三の頬が緩んだ。

「長い間、苦労を掛け申した」

書物を傍らに置き、行詠は利三に向き直る。利三は行詠に寄り添うようにして、隣に座った。ふいに、彼女に触れたくなった。

「利三がいない間、私……悩んでいたの。どうやったらあなたの妻としてふさわしい振る舞いができるのかって。私何も……何も、できていないから」

久方ぶりに見る行詠は、記憶の中の彼女と同じであるはずなのに、より愛おしく見えた。何もしなくてもいい。何もせずとも、行詠は利三に力を与えている。それなのに何もできないことを思い悩む行詠がいじらしく、また可愛らしく利三には感じられた。

「このような言い方をそなたにするべきか……そのたはそれがしにとって、いつまでも敬うべき姫様であるということに変わりませぬ。しかし、そなたは……ただ守られるだけの姫君ではない」

「本当に……?」

「そなたはそれがしに尽くしてくださっている。それがしが生きて成すべきことをなそうと強く思うのは、そなたのおかげゆえ」

「……義景様の言う通りね。私がいることで、あなたはあなたのままでいられる。命を捨てずにいられる。私の役目はそれだって……」

行詠は利三の腰に手を回した。利三はその手を握る。反対の手で、行詠の髪を撫でた。彼女の柔らかな笑顔が眩しい。

「義景様が。まさしくあのお方の言う通り。そなたはただここにいるだけで良い。何もせずとも……それだけで、それがしの大きな力となりまする」

行詠は、紛れもなく自分を守っている。何も返すことができていないのは、こちらの方なのだ。そう思っていると、行詠が再び物憂げな視線を寄越した。

「……利三」

行詠が、利三を見上げている。長い間会えていなかったのだ。話したいことは様々ある。その中にはきっと、言いにくいこともあるはずで。利三は行詠の中に話すことを躊躇うような何かがあると感じた。

「如何なされた?」

口を開いたものの、行詠は中々話そうとしなかった。無理に話す必要はない。気を遣う必要など何も。だが行詠は、迷いながらも、声を絞り出した。

「……もし、また戦えるようになったら。利三の隣に立ちたいの。許してくれるかしら」

行詠は、嘘を吐いている。彼女が手を握る力が強くなった。真っ直ぐ見据える瞳は、先程と変わらない。だが真実の言葉ではないと利三は思った。直感でそう感じたのだ。

それは彼女の決死の告白であるようにも感じられた。今はただ、それに敬意を払うのみ。その言葉が嘘であっても、その気持ちだけは真実であるに違いない。行詠という人は、そういう人である。利三は知っている。彼女が自分を愛しているということを。これは、愛ゆえの言葉であるということを。

「そなたが紡ぐ言葉、尊重しないという選択など、それがしにはありませぬ」

「良かった。利三は光秀のためなら無茶をしてしまう。光秀は利三が守るけど、ならそんなあなたのことを誰が守ればいいのか。私しかいない……そう、どうしても思ってしまうの。あなたはもう、私は守られるだけの存在じゃないと言ってくれるけど、戦場に立てれば、どれだけいいことか……」

「今はただ、その気持ちだけを胸に刻みまする。共に轡を並べる日も遠くはない、そうでござろう?」

本音を言えば。行詠はもう戦う必要などない、戦わないでいてほしいとさえ利三は思っている。もし、彼女が本当に戦場に立つとして、再びその身に何かあれば。力がなければなにも守れない。何も成すことができない。その現実をまた突きつけられてしまうだろう。今度こそ、我を忘れて光秀よりも彼女のことを優先してしまうかもしれない。ただでさえ、自分以外を頼らないでほしいと利三は思ってやまないのだ。

だから、彼女のこの言葉が真実でないほうが利三にとっては嬉しいものとなってしまう。それでも彼女の言葉を受け入れないわけにはいかなかった。それもやはり、行詠という人間を愛しているからだ。互いに守り、守られる存在。戦がなければ容易に成り立つ関係性を、二人はこの乱世で築こうとしている。

「利三ならそう言ってくれると思ったわ」

「……」

やはり、行詠は隠し事をしている気がする。変わりないように見えて、どこかが違う。利三はその予感をしまい込んだものの、胸騒ぎまでは収めることができなかった。

再会を期して、柄にもなく愛の言葉を。という密かな目論見はまだ果たせそうにない。利三は行詠の髪を撫でる程度に止めた。それ以上の気概はなかった。

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