8.越前の月の下で
「気をつけて」

「そなたこそ、ご無理なさらぬよう」

「ええ……」

ずっと言えないままだ。行詠は登城する利三を見送ってから、こっそりと肩を落とした。利三が帰還してから、互いの状況を多く話したし、その中でさらに分かり合えたことも多くある。行詠は義景との会話で得た、利三の妻として生きるとはどういうことなのか、守るとはどういうことなのかという答えを確信へ持っていくことができた。それ自体はいい。

自分が生きているということそのものが、利三を守る盾となっている。それは一筋の希望であった。自分が生きている限り、利三は捨て身で戦うという手段を選ばない。本当は、それだけで満足するべきなのだろう。行詠も分かっている。これを知れただけでも、斎藤利三というどこまでも主に忠実な男の妻となった意義があるからだ。事実、そのことを利三本人の口から聞けたとき、行詠はその嬉しさに体を打ち震わせた。月並みだが、利三の傷だらけである掌に触れる度にその生を実感する。彼に追いつこうと、肩を並べて鍛錬や戦に励んでいたはずだったが、その差は大きくなるばかりだ。それでもその温もりは、稲葉山城で彼に打ち負かされたとき、優しく伸ばされた掌と変わらない。

利三はずっと変わらない。その点は、とても好ましいものだ。変わったといえば、行詠に向ける感情くらいだろう。

対して自分はどうだ? 行詠は自室で書物を読む手を止めた。なぜだか、全く集中できなかった。利三に隠し事をしているという罪悪感が行詠を支配する。

左足を引きずって歩くことには慣れた。走ることはできないが歩くだけならば平気だ。だが力が入ったり足を向ける方向によって痛みが生じるのは相変わらずであったし、痺れの症状も頻繁に見受けられる。痺れがあると歩く感覚が鈍る。そのような中、義景に紹介してもらった医者に診てもらう機会があった。放浪中に一度診てもらったきりだったこと、義景の紹介であったことから医者の言葉を聞こうと行詠は思ったものだったが、受けた言葉は嬉しいものではなかった。

曰く、痺れの原因は神経を損傷している可能性が大きいとのことで、これはもう治る見込みはないかもしれないというものだった。行詠はいつか完治しているものだと思ったから、大層落ち込んだ。落ち込んでいるばかりでは折角医者を紹介してくれた義景にも申し訳がなかったため、行詠は様子を見に来た彼に対して明るく振舞った。それでも嘘を吐くのは不誠実だと思ったから、義景には本当のことを打ち明けた。義景の、まるで自分の事のように悲しむ姿を行詠は良く覚えている。世の中には綺麗事を言って搾取するだけの人間やそもそも綺麗事さえ言わずに悪行を行なう人間がいるが、義景は本当に心が綺麗な人だと行詠は彼を見て思った。無理に明るく振る舞わなくてもいいと義景は言った。心の内をさらけ出すことが、自分にとっての大きな助けとなると。義景に頼るつもりも慰めてもらうつもりもない。全ては行詠自身が引き起こしたことなのだ。だが、彼の言動とその振る舞いには大きな支えになった。

義景には本当のことを言った。だから利三にも言うつもりだった。利三が越前に舞い戻った日、行詠は知ったはずなのだ。離れた地にいたとしても、互いが互いを想いあっているということを。夫婦の間に隠し事はあってしかるものなのかもしれない。行詠が本来辿る未来はそうだったはずだ。そうせざるを得ないような生き方をしてきた。だが行詠と利三はそうではない。隠し事をしなくてもいい。打ち明けたからと言って、利三は責めたりなどしない。それを分かっているのに、結局行詠は言えなかった。足はもう治らない可能性が高いということを。

今日こそ、利三が帰ってきたら言わなければいけない。やっぱり隠し事なんて、それも利三に対してこんな大切なことを黙っておくなんて、耐えられない。行詠は傍らに置いた書物に目を落とした。父親の役に立つには手っ取り早い方法だろうと兵法書ばかり読んできた行詠だったが、今読んでいるのは物語だ。読んだことがないものだったが、雑念にかられさえしなければ止めどきが分からなくなるほど面白い。こんなものを読もうなど、美濃にいた頃の行詠は思いもしなかった。これも遠因を辿れば利三のおかげなのだ。そのことをしかと噛み締める。彼が帰ってくるまで読み進めようと思った。



遅くなるかもしれないと利三から聞いていた通り、夜になっても彼は帰ってこなかった。利三が不在の間、行詠は義景に世話になりっぱなしだったが、それでも誰の力を借りることなく一人で炊事を行なうことはできた。女中に家事を任せるという選択肢も提示されたものの、結局行詠は自分ですることを決めた。そうでもしなければ、わざわざ俸禄を固辞した光秀に合わせる顔がなかった。時間がかかっても、できないことはない。今更一人で日常を営むことそのものに寂しさは感じない。会いに行こうと思えば会いに行ける、手を伸ばせば届きそうな所にいる利三の元へ行くことができないということが寂しさを生んでいる。

行詠は縁側から外を眺めていたが、耐えられなくなって外に出た。書物はもうすぐで読み終わる。部屋の中、手で触れることができるものを見ている生活も悪くないが、そういった日々は時折息苦しくなる。

空を見上げる。月がそこにはある。手を伸ばしても届かない。本当に存在するのかさえ疑ってしまうもの。どこにいても、雲に覆われていてもそこに存在する月。月は遠い。だがそこにあるという真実は、行詠に安堵をもたらす。

利三にこんな姿を見られたら、きっと心配をかける。体に障るから早く部屋に戻った方がいい、と言うに決まっている。どこまでも人……いや、自らが大きな信を置く人に対して過剰なほどの思いやりを向けるきらいがある彼のことだ。それくらいのことは容易に想像がつく。だが行詠は部屋に戻らなかった。空を見上げるという行為など、一瞬でその目的を果たすことができる。だが行詠はそこから動かなかった。

「行詠」

時が過ぎること幾許か。名を呼ぶ声が聞こえた。利三の声だ。行詠はゆっくりと振り返る。

「利三」

行詠も名前を呼んだ。利三は足早に近寄る。ああ、この様子だと思っていたように心配をかけてしまっているな、と行詠は思った。利三はその予感通り、彼女の体を案じるような言葉を発した。利三の帰りが遅いから、月を見上げていた。行詠は正直に言った。普段なら寂しさは言葉でも態度でも示さない。だが隠し事を今から晴らすのだから、素直に言うべきなのだと思った。そうして彼の言葉通り、行詠は利三の腕を掴む。

「あなた自身が思っているよりも、あなたは私のことを想ってくれているわ」

本心からの言葉だった。光秀のことを何よりも大切にし、彼への忠節は何にも勝ることは明らかでありながらも、彼の行動は一介の武士が妻に向けるものにしては熱を持ちすぎている。

事情があった、などという言い訳はこの乱世では通用しない。たった一度とはいえ利三に刃を向けた行詠を、真実かどうかも分からないままであった縁談の話を根拠に連れ出したことも、行詠が負傷してからも彼女を捨てようとしなかったことも。想っていなければ、何だというのだろう。行詠はそのことを思い返して、そう話した。

「勿体なきお言葉。それがしは、まだそなたに尽くし足りないと思っているばかりに」

「初耳だわ。もう十分なくらいなのに」

「それがしにも気恥しく思ったり、おこがましく思ったりするがゆえに言葉に出せない感情が多々ありまする。素直になるのが一番だとは分かっていても、なれぬ自分がここにいる……そんなもどかしさを抱えておりまする」

「利三にも、そんなことがあるのね……」

行詠は利三の腕を掴んだまま動かずにいる。利三も無理に歩みを進めようとはせず、彼女に付き合っている。そういった部分にも、利三の献身的な側面が現れている。

行詠は利三の言葉を聞いて、今こそ打ち明けるべきであるのだ、と思った。素直になれずとも、利三は何も言わない。だが言わなければ先に進めない。今だってそうだ。行詠が話したことで、利三の知らなかった一面を引き出すことができたのだから。

「利三。一つ、あなたに言わなければならないことがあるの」

「何なりと」

「私、嘘を吐いていたの。あなたを守るために、戦場に立ちたいと言ったことよ。私の足……利三がいない間、お医者様に診てもらったの。……もう、これ以上は治らないかもしれない、だから……戦えないかも、しれないって……」

嘘を吐いた罪悪感もさることながら、改めて突きつけられた自らへの現状に、行詠は涙した。兄と敵対したこと、あの戦で想像を絶する痛みに襲われたこと、一人で何も出来ない無力感に苛まれた時にも流れなかった涙が、なにものにも遮られることなく流れた。

これしきのことで泣いてしまう自分が、分別を弁えない稚児のようで嫌だと行詠は思った。言葉を話せば話すほど、呼吸が乱れ息苦しくなった。利三に何と思われるのかも怖かった。彼が自分に向ける想いの強さを知っているからさらにそう思った。行詠は彼の顔を見ることができないまま、ただ腕に縋り付く力を強めた。

「……何を仰るのかと思えば」

「え……?」

行詠が顔を上げる。利三の言葉に耳を傾けようとした矢先、彼の指が頬に伸ばされた。流れた涙がそっと拭われる。月明かりに照らされた彼の表情は行詠を哀れむでもなく穏やかで、またこの行為による照れを感じさせない。行詠はどきりと胸が震えるような感覚に陥った。ついこの間までは遠慮がちに触れられたこたしかなかったというのに。

「以前言ったことをお忘れか? それがしは既にそなたによって守られている……そなたを置いていくことはできぬゆえ。帰る場所がある喜び、この身を傷つけることは許されないのだと強く思うのはそなたの力。直接盾となることが、全てではない。そうは思いませぬか」

「そうね……そう思ったのは、確かよ。でもそれだけだと足りないんじゃないか、って……っ!?」

利三の顔が間近に迫るのは一瞬で、気づいた時には口付けされていた。

何が起きているのか、行詠は理解できなかった。見開いたままの目を急いで閉じる。体を支えられながら、行詠は初めての感覚に酔いしれた。「こういう行為」をすることくらい、夫婦となったならば何も不思議ではないのだと知っていながらも、この場でされるとは思ってもみなかった。ただでさえ、涙のせいで呼吸しづらくなっていた上にこれである。短いようにも長いようにも思える、唇が合わさる感覚。ついに息苦しくなって行詠は利三の胸を押した。やっと唇が離れる。

「お気に障られたか」

「いいえ……ただ、混乱しただけで。だって急に、こんなこと……」

息を吐く。利三はこの状況でもまだ冷静さを保ったままだった。どうしてこんなに余裕なままなのだろう。行詠は分からなかった。分かるのは、ただ愛されているということだけだ。

「いつまでも健気なそなたのことが、より一層愛おしくなった。何もせずとも、ただここに在るだけでそなたは気高く、美しい。何よりも」

行詠に訪れる浮遊感。その衝撃から彼女は小さく叫び声を上げた。利三から与えられた言葉を頭の中で整理する間もなく、行詠は横抱きされていた。ずっと、混乱しっぱなしだった。抱き抱えられていることも、夫婦となってから改められた呼称と異なりずっと変わらなかった敬語が外れていることも。無意識なのだろうか。常に己を律する利三の隙を見れた気がして、嬉しくなった。

何だか、嘘を吐いていたことを弁明したこと自体が嘘みたいだ。責められるでもなく、打ち明けた真実に同情されるわけでも、慰められるわけでもなんでもなく。行詠は未だに、唇に感じた温もりを忘れられずにいた。それだけが強く残る。戦えないままの未来でも悪くないと、利三を見ると思ってしまう。そう仕向けた彼の言動や行動全てに、ぼうっと熱に浮かされたかのように見蕩れてしまうのだ。

利三はそのまま歩き出す。上手くこの場に起こっていることを飲み込めない一方で、この状況には既視感を感じた。

「長良川以来ね、こんなことをされるなんて」

長良川の戦いは、行詠にとって第二の人生の始まりとも言える。利三に抱えられて馬に乗せられ、そうして行詠は生家と決別した。利三は行詠の言葉を聞いて、ふっと笑った。

「あれから多くの時が過ぎた。だが、そなたへの情は深くなるばかり。……今宵は今まで伝えられなかった分を全て、示してみせまする」

示さなくても、全て分かっている……とは言わなかった。言うのが野暮なことくらい、行詠にも分かる。

互いに互いのことを大切に思っていて、それは互いに全部知っているのに、それでもう満足だと分かっているのに、まだまだ伝え足りない気がする。何と贅沢なことだろうかと行詠は思った。

「好きよ、利三」

素直になれて本当によかった。何だか照れくさくなって、行詠は目を閉じた。夜はまだ長かった。

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