呼吸し、感じ、苦悩し、愛する
信玄の側室は【この話】の夢主

乙女が信を置く男の、側室が死んだ。

その女は男を恨んでいた。父親の仇だったから、当然のことだ。

乙女は政を知らない。そのような立場にはない。だから、側室がどうだとか、その女を孕ませただとか、死んだことすら、心の底からどうでもよいことだった。ただ戦うことしか知らない彼女に、子を宿すことは考えられなかったし、同じ女であるその側室にも初めから興味はなかった。

諏訪と武田の血を引く遺児は、どうやら諏訪家を継がせるつもりのようだった。そのために子を産ませたのだ。男にとっては妻と子も己の野望のための道具にしか思えないのだろう。

正直な男だと乙女は思う。乱世に生まれるべくして生まれたような男だ。それは乙女も同じだった。

「信玄、あんたらしくない」

側室の死に何か思うところがあるのか、男は……信玄は、何も語らなかった。

家臣から二人の遺児、四郎勝頼の初陣に関することを献策された信玄はそのことを乙女にも伝えるつもりだった。そう聞いていたから彼女はここにいる。だというのにこの男は仮面の奥の瞳を微かに濁らせていた。

意外だ、と思った。愛を囁くことに抵抗はないらしいが、それは全ての人間を駒として見ているからだ。あの側室にとってもそうだったと乙女は記憶している。従順に躾けるために、愛を利用していたのだ。短刀で殺されかけても、動じることなく格の違いを見せつける。後、そのような敵意には屈さないこと、それ以前に敵意すら踏み潰すのだということ、そして誠の愛(などこの男には存在しないのではないかと乙女は思っている)を植え付ける。

損な男だ。乙女は信玄を見遣る。

「愛していたのか、諏訪家の娘のことを」

何も語らない信玄に乙女は痺れを切らした。

「……分からぬ」

「あんたにも分からないことがあるとはな」

「だが、あの女は……俺を恨みながらも、愛していた。子を産んだ後俺は女を半ば捨て去ったようなものだったが、それを女は恨んでいた。父親を俺が葬ったこと以上に」

「それが分からない、と」

「分からぬ」

乙女は笑った。声を出すことはなく、ただ唇の端を釣り上げて、歯を信玄に見せつけた。卑下た笑いだった。

愛というものは恐ろしい。乙女は愛を知らないが、必要なものではないと思っている。

愛は愛でも、乙女が持っているのは勝頼への庇護欲から来る愛だけだ。

愛という言葉で済まされるものでもない。勝頼が成長し、どのような男となるのかを乙女は見るつもりだった。呪われた男だと陰口を叩かれる初陣間近の男ほど、面白いものはこの世にないとまで乙女は思っているのだ。

「面白い。私は女の悦びを知らぬが、あんたの偽りの愛に絆されたのだろう、ああ、哀れだ……あんたは彼女から愛を捧げられたはずなのに、それに本当の意味で応えることはない。……あんたはその愛すらも道具としか考えていない、からな」

信玄の瞳が動いた。何を考えているのか分からぬそれは今乙女を見ている。ここに来てから初めてそうしたように乙女は感じた。

「お前も同じか」

信玄は立ち上がって、胡座を組む乙女の目の前に立った。

「お前を抱けば……俺を愛するとでもいうのか、そんな単純な論理が成り立つことが、腹立たしい。最期まで足掻かぬ愚か者が恨めしい、」

信玄は乙女を押し倒し、馬乗りとなった。乙女は抵抗しなかった。

そうしたいのならばすればいいと、どうしてか思ってしまった。無理やりこの剥ぎ取って、口を吸って、あの側室にそうしたことをやればいいのだ。

乙女は信玄のことを、男として見たことはない。ただ人間として見ている。この薄汚い世の中のことを薄汚い世だと認識している部分を好ましく思っている。その程度だ。

そして、この男は父親に愛されなかった。強い屈折と劣等感が、ずっと男を巣食っている。

女がどのような過程を経てそうなったのかは乙女の知った話ではないが。恐らく、本当に慕っていたのだろうなとぼんやり思った。心の変化は恐ろしいものだ。

「抱きたければそうすればいい。私は抵抗もしない。死んだ女のようにその手を短刀で切り裂くこともない。あんたを殺そうとは思わない。どうだ、このような従順な女は」

乙女は、信玄がそう望めば犯される。首を絞められる。命を握られている。

それでも歴戦の血がそうさせるのか、戦場にいるよりも冷静で、頭はずっと冴え渡っていた。

信玄は思案している。そう読めた。

仮に孕ませたとして、その子は何の役にも立つまい。乙女は武芸のことしか知らない。どこの生まれとも、信玄を持ってしても掴めぬような女なのだ。

「……興が醒めた」

「今のこの一瞬で、その激情が死んだのか」

「……お前にはまだやってもらわねばならぬ事が残っている」

信玄は、やけにあっさりと乙女の体の上から退いた。

乙女は天井を見ている。心は、一欠片も動かなかった。

「まあいいさ。……勝頼のことだろう」

信玄は乙女を見下ろしながら頷いた。

なぜだか、乙女には信玄の瞳の奥に光が宿っているように見えた。

醜悪なものではない。

まだここにいる価値が、乙女にはある。

目を閉じて、勝頼の顔を思い浮かべた。つくづく父親に似つかぬ男だ。ふと、あの男は愛を知っているのだろうかと思った。

少なくとも、あの母親には愛されているように見えたが。

それは、初陣を終えてから探ればよいことだ。乙女はのっそりと起き上がって、にやりと笑った。

「あんたの可愛い息子のことだ、次の戦には私も全力を尽くそう」

信玄はその指先で仮面を抑えた。その仕草は、涙を拭っているようにも見えた。

(20251117)
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