我々はどこから来たのか
【この話】の続編


武田の世継ぎであった嫡男義信が、信玄の手によって廃嫡された。

その男には謀反の罪があった。本当のところは乙女も知らない。彼女は相変わらず、興味を持つのは武芸のみだった。

信玄がその仔細を語らなかったということもある。別に乙女は彼に仕えているわけでもなく、ずっと前から変わらずに客将としての待遇を受けているから、特にそれには不満はない。

乙女にとって気がかりなのは勝頼のことだった。この男は元来、諏訪家を継ぐための駒に過ぎない。諱に「頼」の字が含まれていることからもそれが分かる。そうであるのに、嫡男義信は廃嫡、次男は盲目、三男は夭折ときた。

世継ぎを幽閉した信玄の横顔は、乙女もよく覚えている。

深い孤独がそこにはあった。

孤独をその身に抱えているのは、晴れて世継ぎの資格を得た勝頼も同じだ。本来はそうなるはずではなかったというのにも関わらず、運命の悪戯で彼は武田家の嫡男となってしまった。案の定家臣の中にはそれを不満に思うものもいる。

それを抜きにしても、彼のことを目の上の瘤のように扱っているものも多いというのに。

勝頼は穏やかな目をして、空を飛ぶ鳥を見つめていた。乙女が近づいているのも気づいていない。

この穏やかな男が戦では父親と同じように獰猛に槍を振るうのだから、人というものは分からないものだと乙女は思う。母親も夜伽の際に実家から持ってきた短刀で信玄を切りつけたというのだから、存外血の気が多いのかもしれない。

「勝頼」

乙女がその名を呼ぶと、彼は振り返って淡い微笑みを浮かべた。美男子と呼ぶに値する菅田だった。

初陣で彼の頭を撫でてやったときから、また一段と大きくなっている気がする。その血が成す風格も、それ一役買っているようだ。

「……どうかしたのか、乙女」

信玄のような狡猾さはない。だが実直で、思いのほか熱くなりやすい。単純なようにも見えるものだが、情には篤く心優しく、何よりも父親のことを尊敬している。

乙女にとっては勝頼が武田を継ぐことに異論はなかった。その境遇を不憫に感じているという贔屓もあったが、愚漢ではないと見ている。

「私は、気が済めばここを出ていってもいいと思っていたが。……残りの一生を、勝頼に捧げてもよいと思うようになった」

勝頼は驚いて、小さく「何故だ」という。素直に喜ぶと思っていたから、乙女には予想外だった。

「何故って……私はお前の父親を見てきたが、あの男は女が傍にいても家臣が傍にいても、ましてや息子が傍にいてもどこか孤独だ。……勝頼も、私にとってはそう見える。……信玄は私のことも、戦の腕以外ではどうでもよいと思っているのかもしれないが、どこか放ってはおけない魅力がある。お前も、それだからな」

放ってはおけない。それが乙女の、この武田に身を置く原動力だった。

性愛ではなく、半ば同志のような形で、同志に向ける類の愛を乙女は信玄に抱いているはずだ。……あの男に向けるものは、愛などという大層なものでもないと思う反面、勝頼に向ける愛も似たようなものではないのかと乙女は思うようになった。

自分が、どこかで見守る必要がある気がした。それが初めから、生まれ持った上で存在していた使命のようだ。

「……お前は、気づけば消えてしまう、私の元から去ってしまうのだと……そう思う日があった。そんな夢を見ることもあった。その言葉を信じてよいのだな、乙女」

乙女は夢を信じない。信玄もきっとそうだろう。勝頼の頭を再び、思い切り撫でてやりたくなった。

「信じてもらっていい。勝頼は私が守ろう。お前は元来守られる立場だが、あまりにも敵が多すぎる。私の献身は打算ではなく、無償の愛だとでも思ってくれ」

勝頼は頷いた。

乙女は初陣の日の勝頼を思い出した。彼の純真さは失われていない。

母親に愛されていたのか、母親に信玄を殺せとでも吹き込まれていたのか……乙女はそう率直に尋ねたい衝動に駆られる日もあったが、ついに何もその意を知ることはできていない。彼が信玄の貫く道が正道であると信じているのはどうしてか、これほど近くで彼を見ていても掴めなかった。

どちらにせよ、信玄は非道なことをした過去があっても、乙女は己と切り離すことができない存在である。勝頼もまた同じだった。

どうせ生を終えるなら、彼ら親子を看取ってからにしようと乙女は思った。

この素性のしれない女は空を見上げる。

雀が懸命に羽を広げて飛んでいる様子が見えた。勝頼もまた、同じように空を見ていた。

(20251118)

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