5


唇が触れようとしたその瞬間――。


「い、嫌だ…!」

「っ、」


気づけば、ドンとその身体を突き放していた。
手に重い衝撃が加わる。


「……」

「ご、ごめ…っ」


彼の傷ついたような顔を見て、反射的に謝って、でも、何かがおかしいと心臓が早鐘を鳴らす。

おかしい。絶対に何かがおかしい。


「俺、帰るから…っ」


ごめん、ともう一度呟いて、立ち上がる。


帰らないと。
早く、ここから離れないと。

そんな気持ちが湧き上がってきて、焦る。



「…(…え――?)」



床に足をついた瞬間、ぐらりと世界が揺れた。
何故か足に力が入らなくて、身体を支えられずに、ドシャリと床に身体が倒れる。
幸いベッドに倒れこんだせいで、痛くなかったけど、そんなことを考える余裕もなかった。


「…っ、な…なん、で…」


立てないんだ。


狼狽して、もう一度立ちあがろうと手を床について足で立ち上がろうとして、


ドサ…ッ。


「…っ」


歩き始めた赤ん坊のように、倒れこんでしまう。

なんで、なんで、なんで。
自分の身体なのに、自分の身体ではないような感覚。
怖い。怖くて、たまらない。


「そんなことしても、無駄だよ」


残酷な言葉とは裏腹に、酷く優しい声音が、後ろからかけられる。
さっきとは違う理由で震える俺を、優しく抱き起して蒼が俺の額に口づけた。
その行為に、身を引いて尋ねる。


「どう、して…?」

「まーくん、何日くらい寝てたと思う?.」


その問いに、目を瞬く。
「え、」と答えらないで、絶句していると、彼はそのとても綺麗な顔で、無邪気に笑った。
何か悪い悪戯を隠している時の、子供のような表情。


「人間が寝たきりでいると、1週間に20%ずつ筋肉が落ちていくんだって」

「…?」


その言葉の意味がわからなくて、問うように蒼を見上げると、彼は微笑んで俺の髪を軽く撫でた。

蒼の瞳が、表情が怖くて、思わず「ひ…っ」と声を上げて、身体をよじった。
手を離した蒼が、首をかしげる。


「じゃあ、」

「………」

「1か月寝たきりだと、足の筋肉ってどうなると思う?」


その瞬間、真意を察して全身から血の気が引いた。
そう言うってことは、俺、もしかして1か月も寝たきりだったのか…?
本当にそれだけの時間がたっていたというのなら。
1週間で20%なら、1か月だと…。


「お、俺、帰りたい…っ帰る…っ」


慌てて、立ち上がろうとして、でも立ち上がれない。
どんなに必死に立ち上がろうとしても、足に力が入らない。
見た目は一緒なのに、いままでと変わらないのに。

どうして。


「だから、無理だって言ってるのに」


はぁとため息を吐いた蒼が、まったくもう仕方ないなぁと呟きながら床に這いつくばる俺の後ろから髪をなでてくる。


帰りたい。

帰りたい。


俺の足が、おかしくなってしまった。力が、入らなくなってしまった。
怖い、怖い、怖い。


「蒼…っ、あおい…っ」


どうしたらいいかわからなくて、怖くてたまらなくて、誰かに助けてほしくて、傍にいる蒼に手を伸ばす。
彼は嬉しそうにふわりと頬を緩めて、俺の手を取って抱き寄せた。


「よしよし。まーくん、大丈夫だから。泣かないで」

「…っぅ、おれ、どうしたら、いい…?っ」


このまま歩けなくなったらどうしよう。このまま、一生動けなくなったらどうしよう。

よしよしと背中を撫でる蒼に、しがみついてその服を涙で濡らす。
ひっく、ひっくと小さな子供のように泣く俺に、耳元で囁く声が聞こえる。


「外の世界は危ないから、ずっとここにいればいい」


その言葉に、ぴたりと身体が固まった。


「ここ、に…?」

「うん。心配しなくてもいいよ。俺は、まーくんを見捨てないし、お風呂だって、食事だって、着替えだって全部俺がやってあげる」

「…っ、どう、して…」


そこまで、と戸惑って蒼を見上げれば、彼は瞳を伏せて少し寂しそうに笑って俺をぎゅっと抱きしめた。


「近くにいてくれれば、しばらくは俺が守ってあげられる」


小さい声でそんなことを呟く蒼に目を瞬いていると、ふいに身体を離して、俺の涙で濡れた頬に触れた。
その瞳が、優しく細められる。


「…――お姫様みたいに、これからはずっと俺の傍で笑って」


髪をなでる手に、俺は、涙が止まらなかった。

――――――

それは、きっと俺に歩くことを許さないということ。
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