5
どうしてそんな表情をするんだろう。
俺が何か嫌なことをしたのかと怖くなって、離れていく綺麗な蒼の顔を目で追う。
不安げな俺の視線を受けて、彼は微笑んだ。
視界が少し暗くなって、近づく距離。
「……あおい…?」
「だから、一緒にいるから……俺に好きって言って」
「……す、き…?」
「…うん。好きって、言って。つらいことなんか、何一つ思い出さなくていいから…だから、昔、まーくんが俺にくれた約束を形にしてほしい」
「……やくそく」
「まーくんが、俺にしてくれた…俺と恋人同士になるって、約束」
その言葉に、気まずくて視線を逸らす。
恋人。
それは、好きな人同士がお互いを想う、相思相愛の間柄の人たちが結ぶ契約。
「…こい、びと…?でも、…おれ、そんな記憶ないし、よくわからない…」
「まーくんが忘れても、…俺が覚えてる。忘れたりなんか、できない」
その時、蒼の苦しそうな、泣きそうな顔をみて、また胸の深い部分がズキリと痛んだような気がした。
…ああ、そうだ。
あの時、本当は一部を除いてほとんど思い出していた。
いつ思い出したかなんて正確には覚えてない。
でも。
…真っ暗闇の中に一人で放り出されて、手足を鎖で繋がれ続けたこと。
目が覚めた途端に、誰かに首を絞められること。
俺を見る、蒼の泣きそうな顔。
その口から放たれる、おれを守るという誓いの言葉。
…全部、昔と一緒だった。
全部、封じ込めていた記憶の中にあったものだった。
今までは頭痛を伴っていたのに、今回は驚くほど呆気なく、あっさりと思い出した。
…それでも、途切れ途切れの光景しか思い出せないのは、どうしてもそれに近い部分で蓋を開けてはいけない記憶があるからだ。
フラッシュバックのように途切れ途切れにその光景が断片的に蘇ってくる。
蒼の言う通り、俺が小さい頃蒼に会った時のことも。
…蒼と恋人になる、本当にそんな約束をしたということも。
全部、本当のことだった。
だから、ほとんどの蒼の記憶を思い出していたのに、吐きそうなほど込みあがってくる感情に負けて、叫びたくなる感情に負けて、全部記憶を閉じ直して、知らないふりをした。
(…ほんとは、ずっと思い出したかった)
でも、思い出すと胸が苦しい。
張り裂けそうになる。
(…くーくん……)
これが、俺が幼い頃呼んでた蒼のあだ名。
あの時、蒼はどれだけ聞いても、自分の名前を口にしようとしなくて。
結局、蒼の髪の毛が見惚れるほど綺麗な黒髪だったから、俺は蒼のことをその黒髪にちなんで”くーくん”って呼んで、毎日遊んでた。
俺は小学生の時、蒼に会った。
…ゴミ捨て場で、まるで今すぐにでも死んじゃいそうなぐらいぼろぼろな姿の蒼に、出会ったんだ。
蒼は誰かに追われているようで、酷く怯えて、誰かに見つかることを恐れていた。
そんな蒼を家に連れて帰って、何日間か匿ってあげたんだった。
…そして…俺は自分が蒼を助けたのと引き換えとして、蒼に約束をさせた。
でも、それは約束と呼べるほどのものでもなくて…一方的な言葉の要求。束縛。拘束。
”ぜったいに、おれをむかえにきて。おれをまもって。ずっといっしょにいて。そうしてくれたら、くーくんのこいびとになる”
とても大切な記憶だった。
温かい記憶だった。
幸せな記憶だった。
絶対に忘れたくない記憶だった。
……でも。
(…っ、)
でも、それを思い出してしまうと、だめなんだ。
だめ、なんだ。
チリチリと焼けるように脳が痛い。
汗が滲む。
俺は、その時の蒼のことを全部忘れないといけない。覚えてちゃいけない。
だから、俺は無理矢理その記憶に蓋をして、記憶が戻ってないふりをした。
きっと、それは蒼にとってはすごく悲しいことなはずなのに、俺は全部なかったことにしたかった。
「いいよ」
「…なに、が…?」
一瞬、自分の心の中を見透かしたような言葉に、ドキリとした。
蒼は、俺の揺れる瞳を見て、ふ、と優しく切なげに笑った。
その唇が、自虐的な言葉を紡ぐ。
「俺は…、まーくんが”俺”を求めてないってちゃんとわかってる。まーくんは傍にいてくれる人なら俺じゃなくても誰でもいいんだってことも、…まーくんに心の底から俺のことを好きになってもらうことなんかできないってわかってるから…それでも、いい」
「…なにを、言って…」
「それでもいいから…寂しいなら、辛いなら、苦しいなら、俺を利用していいから俺を好きだと言って。まーくんが好きだって言ってくれるなら、俺はなんだってできる」
「だから、飽きたら、俺のことがいらなくなったら、必要じゃなくなったら、俺のことなんか捨てればいい。殺せばいい」とまで言って俺に縋るように強く抱きしめてくる蒼に、どうして俺なんかのためにそこまで言えるのかと不思議だった。
まるで自分を道具の使い捨てにしろとでも言いたげな蒼に、胸が苦しくなった。
俺よりもずっと蒼の方が、沢山の人に必要とされてるのに。
俺よりもずっと蒼の方が、生きてる価値があるのに。
今まで、どうして、そこまで蒼が俺を閉じ込めるほど執着するのかわからなかった。
俺のことを最優先に考えて、他のひとのことはどうでもいいというような態度をとる。
俺が他の人に触られれば、蒼はその人を容赦なく傷つける。
そして、よく蒼が俺といる時に浮かべる、あの表情。
迷子の子どもみたいに、寂しそうな、苦しそうな表情。
…今思えば、もしかして小さい頃に俺が蒼に約束させたことが、蒼にとって手足を縛る枷のようなものになってしまっていたのかもしれない。
無理に蒼にあの約束をさせてしまったことが、蒼を苦しめてたのかもしれない。
俺を守って。俺を助けて。ずっと一緒にいて。
……全部俺が蒼に頼んだことだった。
過去の記憶の中で、蒼は俺に誓ってくれる。
俺の欲しい言葉を。
望む言葉を。
言ってくれる。
その約束は、守られることはなかったけど…それでも…その言葉だけでも、どうしようないほど嬉しくなってしまう。
「俺は、まーくんが俺を”好き”でいてくれる限り、絶対に離れたりしない」
「……ぜったい…に…?」
「…うん。まーくんの母親みたいに、まーくんから離れたりなんかしない。裏切ったりしない。殴ったりしない」
「…っ、」
「だから言って、俺のことが”好き”だって」
「…あおいが…すき…」
ぽつりと呟けば、彼はふわりと嬉しそうに微笑む。
……好きの言葉に感情なんかない。
ただ繰り返しただけの言葉なのに、どうしてそんなに幸せそうな顔をするんだろう。
「うん。それでいい。まーくんがいい子でいれば、好きって言ってくれれば、ちゃんとご褒美もあげる。もう、寂しくないよ。」
「すき…っ、あおいが、すきだ…っだから、ずっと…いっしょに、いて…」
ぼろぼろと泣いてその身体に抱き付いて縋る俺に、彼は頬を緩めて俺の髪にキスを落とした。
抱きしめてくれる。
「…俺も、好きだ。好きだよ。世界中の誰よりも、まーくんを愛してる」
「あおい…、すき…っ、おれも…あおいが、すき…」
「もっと求めて、俺に言って、…好きって言って」
「…あおいが、すき…っ…すき…す、…ッ、んん…っ、…ふ…ぁ…ッ」
「まーくん…好き…好きだよ…」
俺が言い終わる前に、欲情の色をその瞳に浮かべて我慢できないというような表情をした蒼に、噛みつくように唇を塞がれた。
……そうだった。
思い出した。
あの時だけじゃない。
母さんがいなくなってからずっと誰かが傍にいてくれないと泣け叫びたくなるほどの恐怖に駆られるようになった俺の傍に、いつも蒼はいてくれて。
俺がそのことを何かがきっかけで思い出そうとすると、思い出さなくていい、まーくんは知らなくていい、大丈夫大丈夫って言いながら、毎回俺が落ち着くまで抱きしめててくれた。
あの時も、暗闇で玩具で弄ばれてずっと独りきりで辛くて寂しくて苦しくてもう死にたいと思っていた俺に、本当は思い出してほしいからあんなことしたくせに。
(…本当、蒼のばか…)
でも、もっとばかなのは、俺の方だ。
結局せっかく記憶を思い出しのに、蒼から媚薬を奪い取って全部記憶を消したくて、気がおかしくなるほど飲みまくった。
その前も俺は蒼にたくさん媚薬を飲まされてたけど、それをはるかに超えるくらい、たくさん飲んだ。
それに蒼は、俺が”好き”だと言えば、離れていかない。もう、一人にしない。ずっと一緒にいてくれる。そう言ってくれたから…。
(だから、)
……だから、あの時、俺は蒼を”好き”になったんだ。
もっとずっと早くにそうしてれば楽だったんだろうけど、…ああやって暗闇に置いていかれて…初めて、あんなに強烈な恐怖を味わった。だから、元々一人が嫌いだったのに、…もっと嫌いになった。
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