12
何をしようとしているかなんて考えなくてもわかってしまった。
(ぜったい、ぜったいにわたすもんか…っ)
おかあさんがしぬなんていやだ。
そんなのおかしい。ぜったいにいやだ。
「真冬…いい子だから…」
「…っ、やだ…ッやだぁ…!」
縋るようなお母さんの声と同時に、ハサミを握る手を掴んでくる手。
これだけは渡すわけにはいかないのに、お母さんがおれからはさみを取り上げようとする。
「真冬…っ」
「いやだ…っ、やだ…っ…やだよ…っ」
ハサミの刃を握る指、鋭利な部分に触れる指が痛い。
痛いけど、離すわけにはいかないんだ。
…でも、どれだけ強くはさみを握ってたって所詮子どもは大人の力にかなわない。
少し争った跡、すぐに奪い取られてしまった。
「…っ、」
青ざめるなんてものじゃない。全身から血の気が引く。
すぐに自分の心臓の辺りをめがけてハサミを構えるお母さんの手から、必死にそれを取り返そうとした。
(だめだ…っ、こんなのだめだ…っ)
「離しなさい…っ」
「やだ…っなんで、おかあさんがそんなことしようとするんだよ…っ、ほんとはおれがしないといけないのに…っ、おれがぜんぶわるいのに…ッ」
でも自分に刺すのが怖いみたいで、手が震えていた。
お母さんだって、やっぱり怖いんだ。
だったら、そんなに苦しいことは、辛いことはやめればいい。
なのに、おれのせいでおかあさんはこんなに苦しんでいる。悲しんでいる。
…おれさえ、いなければ。
おれなんか、最初からいなければよかったんだ。
そう思った瞬間、じわりと目頭が熱くなる。
「……そう、ね……」
少しの沈黙の後ふいにお母さんがぽつりと呟いた。
わかってくれたのか、と顔色を明るくして顔を上げれば、空虚で真っ暗な夜のような目がおれを見る。
「…おかあさん…?」
その顔が、いつもと違って少し怖い。
血の気が引いた…まるで生きていない死人のような顔。
嫌な、予感がした。
「そうね…そうよ…」
もう一度ぶつぶつと呟くお母さんに、不安になる。
怯えたように身を委縮させてその様子を眺めていると、その虚ろだった瞳に不意に怒りの色が宿る。
キッと目に力を入れて、おれを睨む瞳。
「全部あんたのせいよ」
「…っ、ぁ…っ、…っ」
「全部、全部あんたのせい…。本当に、あんたもそう思ってるなら…お母さんのお願いを聞いてくれるわよね?」
「…おねがい…?」
おかあさんにお願いされることなんてめったにない。
だから、少し期待する。
もしおれがおかあさんのお願いを叶えることができたら、それはおれにとってとても嬉しいことだ。
…でもこのタイミングで、今おれにできることってなんだろう。
おかあさんがおれに期待することってなんだろう。
いくら考えてもわからなくて、意味もなく心臓の鼓動が速くなった。
ドキドキと不可思議な感情に襲われながら問い返せば、ぽつりと短く呟く声が聞こえた。
「…ハサミ、押して」
「…え?」
「少しだけ、ハサミを持って勢いよく、強く前に突き出してほしいの」
「…なに、いってるの…?」
冗談かと思ったけど、お母さんの顔は嘘を言ってる顔じゃなかった。
本気の目だった。
(…おれが、はさみを…おす…?)
今、おかあさんがむねのまえでにぎってるはさみを…おれが、…おす…?
「あはは…っ」と壊れたようにケタケタ笑って、おれのちいさな手にぎゅっと”それ”を無理矢理握らせてくるおかあさんを、ただ呆然と見上げる。
今日お父さんに殴られて出来たんだろう、真新しい青黒い痣の跡があるお母さんの顔を信じられない面持ちで見る。
(………………だって、そんなことしたら…)
はさみをおしたら。
おかあさんが、しんじゃうじゃないか。
「ねえ、真冬…」
「…やだ…」
おかあさんになにをたのまれているかりかいできない。したくない。
わからない。わからない。わかりたくない。
ぶんぶんと首を横に振る。
はさみを持った腕が、手が、指が震えた。
今自分が持ってるものが、さっきよりも随分重い物に感じる。
ずっしりとその重さが手にかかってくる。
「…お、おれ、やだ…やだよ…そんなの…むりだよ…」
「なんで…」
「だ、だって、おれ…おれ…は…」
ああ、まずい。
まずい。
おかあさんの顔色がどんどん悪くなる。機嫌が悪くなる。
まずい。まずい。
そう分かっているのに、口の中から出てくるのはそんなたどたどしい意味のない言葉ばかりだった。
「どうして?真冬はいい子なんでしょう?悪い子じゃないんでしょう?またそうやって、私を苦しめるの…?私に褒めてって願いはするくせに私のお願いは聞いてくれないの…?!!!いい子に、なりたいんじゃなかったの…?」
「…っ、ぁ…ッ」
パンっと乾いた音。
掌で頬を殴られた。
頬に響く衝撃のせいでそのことに気づくと同時に、頭の中が委縮していくのを感じた。
(……いたい…)
でも本当に痛いのは、叩かれた場所じゃなくて胸の辺りだった。
俯いて、ぎゅっと服の上からその部分を掴む。
痛い。痛い。痛い。
「ごめ、なさ…」
「さっき自分が死のうとしたのだって、私へのあてつけなんでしょう…?!!そうだわ…そうなんだ。まふゆもわたしのこときらいなんだ。これみよがしに、私の前で死のうとして…っそんなに私が嫌い…?!!」
「…ちが…っ、ちがうよ…っおかあさ…っ、ぁ…っ」
狼狽えるおれをみて、さらに機嫌を損ねたらしく瞳を苛つかせる。
もう一度頬に平手打ちをされた。
さっきよりも強い。
開いてた口のせいで、頬の肉を噛んだ。
ひりひりと痛む頬をおさえて、ぐっと唇を結ぶと苦い鉄の味が口の中に広がる。
「何が違うのよ…!!一瞬でも騙された私がばかだったわ…!!そうよ…真冬は私を嵌めようとしたんでしょ?自分が死ねば、また私が怒られるってわかっててやろうとしたんでしょ?!!」
「…っ、…」
耳に響いてくるその言葉の語尾が苛立ったように強くなる。
その声が怖くて、ビクッと震えた。
否定したいのに、喉の奥が引きつったように固くて何も音が出なくて、言葉の代わりに必死に首を振る。
普段はすごく優しいお母さんでも、一回機嫌を損ねるとそれが収まるまでに時間がかかるんだ。
さっきまで落ち着いてたと思っても、機嫌が180度変わるのなんてきっかけさえあればほんの一瞬だ。
だからまさかこのタイミングでそのスイッチが入ると思ってなくて、身体が委縮する。
「あんただって本当は私が死ねばいいって思ってるんでしょ?!!!」
「…ぁ゛ぅ…ッ」
「…思ってるくせに…っ!!!思ってるくせに…!!!」
今度は握った拳で殴られて、身体が後ろに飛んだ。
床に倒れ込んだ瞬間、間髪入れず耳を覆いたくなるほど怒りと悲しみの混じった叫び声をあげるおかあさんに、片手で首を掴まれる。
指の腹が、骨と骨の間の気管を覆う肉をぎゅっと押してくる。
それだけでドクドクと血管が悲鳴を上げた。
空いた方の手で、バシンと顔を強く殴られる。
長い髪を振り乱して、おかあさんは無抵抗のままのおれをなぐる。
痛い。
でも、おれには謝る以外の術がわからない。
「おかあさん…ごめんなさい…ごめんなさい…」
「…きっと一之瀬様の息子さんと離れることになったのだって、全部私のせいだと思ってるのよね…」
「……っ、」
「…こんなにあんたが傷だらけになったのだって、元はといえばわたしのせいだものね」
その言葉によって、脳裏にあの時の光景が蘇ってくる。
(…くーくん)
名前を心の中で呟くだけで、ぎゅって胸が痛くなる。
…最後に見た彼の顔が忘れられない。
今、どうしているんだろう。
(…くーくんに、会いたいな…)
そんな記憶に一瞬思考を奪われている間に、自嘲気味にお母さんはわらう。
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