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目にみえて分かるただならぬ変化に戸惑いと恐怖を覚える。
「ごしゅじん、さま…?」
「あ゛?なんだよ。俺様の声が聞こえなかったのか?」
「…ぁ…」
聞こえていた。
決して聞きのがしたわけじゃない。
…ただ、言葉の意味を理解できなかっただけだ。
思考がピシリと凍ったように固まっている。
さっき御主人様は、なんて言った…?
(…ころしてみせろ…?)
殺すって、どういう意味だっけ。
痛む脳で、理解する。
…殺すってことは、相手が死ぬってことだ。
…もう目が覚めなくて…話しかけても何も答えてくれない。
呼吸もしないし心臓も動かない。
異常なほど熱を発していた身体は、温もりを感じられた体温は低くなって…どんどん冷たくなって…、動かなくなる。
…そんな状態に、する…?
(…だれを…?)
不安と恐怖と苦痛が心の芯をぎゅっと掴んで締め付けてくる。
苦しい。
喉の奥から零れ出る声は今にも消えてしまいそうな程、震えていてか細かった。
瞬きさえ忘れたまま、御主人様の体温を感じながら視界に映る部屋のコンクリートの壁をぼうっと見つめることしかできない。
「……ぁ…、え…、でも…」
「一之瀬蒼を殺せ」
「…――ッ」
もう一度、鬱陶しそうに低く吐き捨てた御主人様にビクッと身体が跳ねる。
”一之瀬 蒼”。
聞き間違えじゃない。
はっきりと今、耳に届いた。
俺が知ってる人のなかでその名前の人は、
かつ、このタイミングで御主人様が示している相手は…
一人しかいなくて。
殺す…?
「…おれ、が…?」
視界がぐらりと歪んだ。
嘔吐感が込みあがってくる。
眩暈がする。
「…な、なんで…」
「お前にとったら人ひとり殺すことなんか簡単なことだろ」
「…ッ」
「もう二人も殺しちまったんだから、今更もう一人ぐらい増えたって変わんねえだろうが」なんて呆れたような口調で小さく耳元で囁かれる。
硬直する俺の掌に、何かが触れた。
ぎゅっとその何かを握らせるように手に触れてきた御主人様の手に、”それ”ごと包み込まれる。
「…こ、れ…」
「刺してやれよ。お前の手で、アイツを苦しめてやれ。もっと俺はアイツの苦痛の表情が見てぇ。悲しむ顔がみてぇ。死ぬ直前でさえ死ぬほど苦しめてからでねぇと俺の気が収まらねぇんだよ」
「…ごしゅじんさま…?」
身体を抱きしめる指が、爪が、更に強く皮膚に食い込む。
あまりにも強い力に、激痛と同時に血が滲む。
声は興奮したように震えを帯びて、とめどなく大きくなっていく。
「絶対幸せになんかならせねぇ。絶望の淵に落として落として落として、たとえ死んだとしてもずっと苦しませてやる。幸福なんか必要ない。アイツには絶望して悲しんで不幸になる姿が一番お似合いなんだよ」
「…っ、」
「…アイツは俺の一番大事なものを奪いやがったんだ…それぐらいの罰を受けるのが当然ってモンだろうが…」
どうして蒼を殺せと命令するのか。
その理由はわからないけど、憎悪するように、嫌悪するように呪詛を吐く声とは裏腹に…彼の声には、寂しそうな苦しそうな悲痛の叫びが混じっていた。
「…ッ、絶対に許さねぇ」
「……」
俺を抱きしめている御主人様の身体が震えている。
(…ごしゅじん、さま…)
何かしたい。
何がそんなに怖いのかわからないけど、辛そうな御主人様のために何かして、どうにかしてその不安を拭い去ってあげたい。
でも。
「……むり…むりです…おれ…」
「……」
…そう思うのに、口から出た言葉は全く正反対の意思だった。
何があったのか…それを聞くよりも先に、心が恐怖で押しつぶされそうになる。
御主人様と同じくらい、俺は今…多分違う感情に震えている。
…視線を動かせば、ぐったりとして倒れている血だらけの市川の姿が見えて、
全身から血の気の引いた。
首を横に振る。
指先一本動かせないまま、震える唇だけを動かす。
「…ごめんなさい…ごめんなさい…ほかのことなら、なんでも、なんでもしますから…」
「いらねえんだよ」
ぴしゃりと俺の言葉を跳ねつける声と一緒に、肩を掴んで引き離される。
鋭く光を放っている切れ長の瞳が、鬱陶しそうに、嫌悪するように俺を睨み付けていた。
そうやって睨み付けられるだけで、喉の奥から悲鳴が上がってきて眼球が熱くなる。
「俺のいうことを聞けない家畜なんかいらねぇ。お前は永遠に捨てられる運命なんだろうなぁ?親にも捨てられて、蒼にも捨てられて、俺にも捨てられる」
「…ッや…いやです…」
叫びたくなるほど記憶が脳裏にフラッシュバックして、全身から熱が消える。
氷水につけられたように身体が酷いくらいに震えていた。
それだけは、それだけは嫌だ。
緩慢な動作で首を振る俺に、念押しするような口調で問われた。
「じゃあ、いい子の家畜は俺の言うことをちゃんときけるよな?」
「…ッ、ひ…」
”いい子”
ビクッと震える身体に心拍数が上がるのを感じながら、もはや脊髄反射で「わかり…ました…」と小さく呟いた。
こくん、と諭される子どものように頷けば頭に手が乗せられる。
「おりこうさんだ」
ふ、と唇の端をもちあげた御主人様にくしゃくしゃと頭を撫でられて…嬉しくなる。
何故かその表情がいつもとどこか違う気がして、余計に胸が温かくなる。
瞳が、声が、いつも以上に優しくて穏やかで…心地よい。
でも、頭を撫でてくれていた手の温度は一瞬だけで、…すぐに離れていってしまった。
「…ぁ…ッ」
それが寂しくて、悲しくて、心臓が締め付けられる。
どうしようどうしようと脳内がパニックになって、やるべきことはわかってるのに身体を動かすことができない。
(…いやだ)
御主人様に捨てられることも。
蒼を、殺すことも。
だけど、御主人様の期待を裏切りたくない。
もしここで失敗すれば本当に捨てられてしまう。
1人になってしまう。
(…でも、)
さっき蒼の声を聞いた時の感情が蘇ってくる。
自分でも、まさかあんなに動揺するなんて思ってなかった。
嫌いになれっていわれて、毎日その言葉を叫んできて…もう大丈夫だと思ったのに、蒼を求めなくても良くなったと思ったのに。
…相変わらず俺の心は、彼の声を聞いただけでどうしようもないほど嬉しくなってしまった。苦しくなってしまった。
今でもまだ…その時のことを思い出すだけで鼓動が速くなるのを感じる。
「…(わかってる)」
俺が、蒼を殺すなんてできるわけがないんだって…そんなことわかってる。
だって、全身の感情が嫌ってほど訴えてくるんだ。
もう一度俺を呼んでほしい。見てほしい。笑ってほしい。
煩いくらい、そんなふうに心が叫んでる。
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