3

✤✤✤


小学4年のある日。
突然彼方がいなくなって、もう何カ月が過ぎた。

そして、彼方が屋敷から姿を消したその日から

――……【教育】という名目の拷問が始まった。

バシャッ。

冷たい。


「………は…っ、ぁ…は…っ、…っ、げほ…っ、」


唐突に上から何か冷たいものが大量に降ってくる。
すぐに俺を無理矢理起こすためにぶっかけられた水だとわかった。
ぼろぼろに破れた薄い着物が濡れて肌に吸い付く。

(……)

ずっと閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げた。
息が苦しい。
熱い。
肩が上下する。
身体を動かせば、天井からつり下げられた鎖がジャラジャラと揺れてすぐに元の位置に戻される。
その繰り返しのせいで手枷と足枷の部分の肌が真っ赤にこすれて血を滲ませていた。

(…ああ、また気を失ってたのか…)

どこかの罪人のようにずっと腕を軽くあげた状態で、地面に膝をついている。

頭部から流れた血が首筋を伝って降りていく感覚が気持ち悪かった。
腹部、肩、背中、全部の傷口からドクドクとやけに大きく脈打って痛い。


「反省したか?」

「はい」


無言で小さくうなずく。

俺を閉じ込めた張本人は頬を歪めて笑った。

その男…父親とほざく”その人”に鍵を天井から伸びた鎖を外されて、部屋から出る。
気を緩めれば痛みで気を失いそうになる。
新しくつけられた鎖を引きずって廊下を裸足でペタペタと歩く。


「…っ!…――っ」


唐突に首に嵌められた犬用の首輪から伸びた鎖を引っ張られて易々と壁に放り投げられる。

後頭部が壁に当たってその痛みと衝撃に意識が朦朧としているところに顔面を蹴られて、こめかみから血が流れて零れ落ちてきた。

一昨日強く蹴られたせいで折れた手首と打撲している足にまた痛みがぶり返してくる。


(…手首が熱い…)


壁に背を預けたまま怠く目を開ける。

身体が重い。身体が酷く熱くて瞼を閉じればすぐにでも気を失ってしまいそうだった。

でもここで意識を失ったらもっと酷いことになる。
そうわかりきっているから重い瞼を必死に持ち上げた。


「なんだその目は。…チッ、毎度毎度俺の言うことも素直に聞けない愚息ごときが俺の顔に泥を塗るな」

「…ぁ…は…っ、……っ、もう、二度と倒れたりしません」


唇に滲んだ血を腕で拭う。

テストの結果。
どの科目も100点だった。

だから当然それ自体は何の問題もない。

でも俺は長時間に及ぶ睡眠不足と身体に負っている傷で学校で倒れた。

幸いにもすぐに目が覚めて自力で帰ることができたけど、その時の俺の様子を教師が心配して父親に連絡したらしい。

…つまり、学校で他の人間に家の中を不審に思われやすい行動をとったのと同時に、倒れるというみっともない醜態を外で晒した。

だから、今こうして何度目かわからない”この人”の逆鱗に触れている。


「こんなのが優秀な俺の遺伝子を継いでるだなんて本気で信じられんな」

「…」


反論なんてしない。
文句なんて言わない。

髪を濡らした水がぽたりぽたりと床に染みを作っているのが見える。
こうやって俺が惨めでいるのを見てやけに嬉しそうな顔をするから、それをこれ以上見るのが嫌で無表情を装った。

(……自分は女と毎晩毎晩気色悪い行為に勤しんでるくせに)

気色悪い。
心の中で吐き捨てる。

屋敷内のある部屋で、夜聞こえる音、匂い、気まぐれで無理矢理見せられ続ける光景、そのせいで何が部屋で行われているのか、嫌でも記憶に焼き付いた。


「蒼」

「はい」

「これは教育だ。俺はお前がお気に入りで大切だから、こうやって躾をするんだ。わかるな?」

「…はい」


抵抗なんて許されない。
そもそも小学4年なんかに、自分より何十pも大きい大人に抵抗する力も手段があるはずもなかった。

外に出る時だけは家の体裁を保つためにきちんとした服を着る。
自分を偽っていい人を演じて笑って愛想を振りまいていい成績を取る。
全部教師から”この人”に連絡がいくから気を抜くこともできない。
そして家の中ではずっと手足を鎖で繋がれたまま、”教育”という名の下で鍵をかけられた部屋に閉じ込められる日々。

初めは数日間真っ白な何もない部屋に数日間閉じ込められた。
最初は我慢できても、やっぱり限界は来る。
今まで屋敷にどこかにはいたはずの彼方も母親もいなくなって、寂しくてお腹が空いて数えきれないぐらい壁を叩いて助けを求めた。

やっと扉の鍵を開けた”その人”に何度も何度も食べ物をねだって謝って、気が狂いそうになるほど反省文を書かされた。

今まで反抗的な態度を取ったことへの謝罪。何時間も何時間も許しを得るまで書き続けた。

その後は24時間監視された状態で、時間もわからなくなるくらい勉強勉強勉強勉強勉強勉強――。
休憩することも、外に出ることも、彼方や母親のことを聞く時間もないまま、寝ずに毎日毎日ひたすら机で文字を書いた。

躾と言う名目で殴られて、何度骨が折れたかわからない。
身体が耐えきれなくなって吐いたこともあった。

でも、それでも辛いから休みたい、痛いからやめたい、なんて言葉を吐けば今度こそ骨折では済まないような仕打ちをされることが目に見えていた。

父親とほざく男に反抗的な態度を取った日には、その男か、男に従う下僕どもに気絶するまで殴られた。
申し訳ありません、と言葉の上では謝る下僕達も、結局は”その人”側の人間だった。
テストで100点を取ることができなければ数日間ご飯ぬきで、反省したと認められるまでずっと部屋に閉じ込められて折檻を受ける。

…初めは何度も声が枯れるほど泣いた。殴られるたびに痛くて悲しくて辛くて逃げたくて自分の存在意義を考えて何度も心の中で誰かに問いかけて救いを求めた。

…でも、助けを求めても、誰も助けてなんかくれない。
…味方だったはずの彼方も、お守りがわりだって言ってあのうさぎのぬいぐるみをくれた母親だって、全部俺を捨てていなくなったんだ

泣いたって叫んだって現実は変わらない。

そんなことは既に嫌というほど身に染みていた。


「……(……)」


俺を投げ飛ばした”その人”の後ろから無関心、興奮、悦楽、そんな色をして見下ろしてくる数えきれないほどの目。目。目。
以前はそんな目に嫌悪感も浮かんでいたのにも関わらず、今はそんなことを思う気力も体力もない。

(…いっそのこと殺してくれたらいいのに)

そう思えるほど、生きることになんの希望もなかった。


「蒼君」


そうよびかけて、一人の女の人が歩いてきた。
心配そうな表情を装って傷ついた額に触れようと手を伸ばしてくる。


「大丈夫?だめでしょ清隆さん。蒼君はまだこんなに小さい子どもなのに。あらあら、綺麗な顔にこんな…」

「……」


気持ち悪い。

軽く顔を背けてその手を避けると露骨に女が苛ついた表情をする。
その苛立ちをおさえもせずに唇を震わせていた。

それを見て笑う声。


「はは…っ、良かったな蒼。俺の遺伝で他とは比べ物にならない程の美形に産ませてやったんだから、ちょっと傷がつくだけで女がホイホイ寄ってくるだろう。感謝しろよ?」


周りで男を称える声。その通りでございますと賛同する声が幾つも聞こえる。


「……」


流れていく血のせいか、長期間の”教育”のせいか、あまりにも身体が怠い。

(…ねむたい…)

どうでもいいと思考を放棄していると、俺が何も答えないことに腹が立ったらしい。

怒りを滲ませた表情で折れてる方の手首を踏みつけられる。
ただでさえ骨折していて、かつ細い小学生の腕なんて大人の足に踏まれれば一溜まりもない。


「ッ、」


ぶわっと汗が滲みでてきた。
痛みに顔を歪ませて涙を滲ませながら、それでも声を出さずに耐える俺を見て機嫌を良くしたその男は嗤う。

(…嗚呼、だめだ…負の感情を顔に出したらまた殴られる…)

ぼんやりとそんなことを思って最早条件反射で必死にドクンドクンと痛みで全身が心臓みたいになっている身体を抑え込んで無表情を装った。


「うまくできるようになったじゃないか」と息子が痛みに対して表情をコントロールできるようになったのがそんなに嬉しいのか、自分の教育の賜物だと誇らしげな顔をする”その人”から視線を逸らす。
prev next


[back][TOP]栞を挟む