18(真冬ver)

おこられる。
ぜったいに、おこられる。

そんなこと、わかっていたけど。

トタタと裸足で玄関に走っていって、瞳に映ったお母さんの表情を見てすぐに機嫌が悪いってことを察した。
出ていった時よりも乱れている服。

ピリピリと一瞬にでも凍りそうな雰囲気に、作った笑顔が強張りそうになる。



(…だめ。へんなかおしたらだめだ。…おれがこわいっておもったら、おかあさんをげんきにすることなんてできなくなる)

おかあさんがふあんになる。

わらわないと。
ずっとまえに、おかあさんがすきだっていってくれたえがおで、ちゃんと


「……」

「おかあさん、おかえりなさい…!」


少しでもお母さんに笑ってほしくて、えへへと震えそうになる身体を押さえつけて、引き攣りそうになる頬を緩める。

背中に隠したくーくんに綺麗にしてもらった花束を掴んだ手を、うきうきと前に出す。

(…よろこんでくれるかな)

なんてちょっとだけ期待しながら、にこっと笑ってみせる。
差し出した手が無意識に震えた。


「…えっとね、おはなひろってきたんだ…!」

「…」

「おかあさんにぷれぜんと!」


何時間も何時間も、寒くて手が凍りそうなほど冷たくなるまで、色んな場所を探して積んだ花。
お母さんに笑ってほしくて、最近ずっと機嫌が悪くて、家に帰ってくる回数も減っちゃったお母さんに喜んでほしくて、…胸がどきどきする。

おかあさんの目が一瞬だけおれのもってるお花にむいて、ふいと逸れる。
何かを探すように彷徨う視線。


「…あのひとは?」

「…ぁ、…おとうさんは、おしごと…いった…」

「……っ、…そう」


わからない。ほんとうはどこにいったかもわかんない、けどこれ以外の返答なんかしたらどうなるかかんがえたくない。

もう一時を過ぎたからこんな回答はおかしいんだけど、他にいい答えがみつからなくて、お母さんを傷つけないで済む答えを必死に考えて、出てきたのがあんな言葉だった。



「…まぁいいわ。あの人がいなくても、私には真冬がいるものね…」

「…っ、うん!おかあさんといっしょにいる!」


嬉しいという風に笑う。
喜んでるということを示したくて、笑う。

…でも、でも、違う。

おれは、…何か間違えたのかな。
答えを、間違えたのかもしれない。


…おれの頬を撫でる…お母さんの   顔が、


「…やっぱり真冬はいい子ね。」

「うん!おれ、いいこ!」


「いい子」って言われるだけで何でもできるような気がしてくる。
褒められるのは嬉しい。
そうやって褒めてもらえると、自分を認めてもらえているような気がして、生きてていいんだって思えるから。


「じゃあ、一緒にお風呂に入りましょうか」

「……うん」


どこか虚ろな目で、唇の端だけを上げたお母さんがおれを抱き上げる。
近づくとわかる目の下の暗い隈と、流れてくるお酒の匂い、あと誰か知らない人の匂い。



(…ずっと、だれかほかのおとこのひとと、いっしょにいたのかな…)


それに。

…一緒に、お風呂。


(……いや、じゃない)

いやじゃない。いやじゃない。いやじゃない。いやじゃない。いやじゃない。いやじゃない。いやじゃない。
いやじゃない――、


「…ね、前みたいに楽しいこと、しようか」なんて、そんな言葉に一気に全身から冷や汗が流れ落ちる。


(…おとうさんの、かわり)



「嬉しい?」

「うん!」


嬉しいわけない。
でも嬉しいと、そう暗示をかけないとどうにかなりそうだった。
受け取って貰えなかったお花を胸の前でぎゅっと抱きしめてえへへ、と内心額から汗を流しながらぎこちなく笑った。手先の感覚がなくなる。…ただ、ドクンドクンと胸の嫌な音が鳴るおとだけが聞こえる。


お母さんとお風呂に入ること自体が嫌なわけじゃない。
…ただ、凄く変な感じで身体を触られるのが、すごく嫌で、怖くて、


今日は、そういう日らしい。
お父さんがいない日はその日によって、首を絞められたり殴られたりするか、こうやってお風呂に一緒に入ったりして触られるか、どちらかにわかれる。

「真冬はお父さんに似て綺麗な顔してるわ」なんて変な目でおれを見て、お父さんの代わりにする。
昔も人気だったらしいけど、今でも整っているお父さんは、女の人との関係が絶えない。

だから…お母さんだってお父さんがいなくて寂しいんだから、仕方がないんだ。仕方がないことなんだ。

…おれはいま、ひつようとされてるんだから、だいじょうぶ。


(…くーくん、)


ぎゅっとくーくんが作ってくれたチラシの包みを握って、恐怖心を抑えつける。

ぜんぶおわったら、くーくんにぎゅってしてもらおう。
くーくんに、なでなでしてもらおう。


(…えへへ、)


きっと、くーくんならしてくれるはずから。
よくがんばったっていってくれるはずだから。

…それだけで、今はがんばれる気がした。

さっきまでくーくんと一緒にいて楽しかったはずの空間が、一気に違うモノに変わる。

風呂場に近づくにつれて、心臓が壊れそうになっていく。



「…あれ、…何よ…」

「……?……ぁ……、」



脱衣所で、不意にお母さんの足が止まった。
不思議に思ってその方向を見る。


と、


部屋の端に置かれたゴミ袋。
最近片付けたばかりで、まだ捨てにいけてなかった…もの。

そこにはお父さんが使ったものとか、色々入った物があって、
…透明なゴミ袋だったから…外から丸見えだった。

恐る恐る振り向けば、蒼白になっているお母さんの顔があった。


(…どうしようどうしようどうしよう…っ)

一瞬で泣きそうな感情と不安と自分への怒りがごちゃ混ぜになって「ぁ…ぁ…」なんてまだ言葉を話せない赤子のような言葉が口から零れる。


「…っ、!!」


身体を揺さぶられて、強い風が吹きつけられる。
お尻と腕の下を支えていたものが消えた。

反転する視界。

手から放り出された花。

直後、息が詰まって身体に痛みが走る。
抱きかかえられていた状態から、思いきり浴室のタイルに投げ捨てられた。
内臓を揺さぶるような衝撃と叩きつけられる身体。
腕が思いきり擦れて血が滲んでいるのが見える。
捻ったのか、少し腕を動かすだけで痛みが身体を駆け抜けた。


「っ、ぅ…」

「…どうして、言いつけを守らないの?」

「…っごめ、ごめんなさい…」

「謝ってほしいんじゃないの…!!私は、なんできちんと片付けておかなかったかって聞いてるの!!!」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…っ!!」

「だから…っ」

「ごめんなさいごめんなさい…っ、おか、おかあさ…っ、かなしく、させてごめんなさ…っ」


おれがわるいおれがわるい。
見たくないものを見せられたせいで泣き出しそうなお母さんの顔におれは謝ることしかできない。

…ちゃんとみえないところにかくせっていわれてたのに。

お母さんが傷つかないように、そんな顔をしないですむように、今までちゃんとしてきたのに。


(…なんで。なんでこんなかんたんなこともできないんだ。ばか…っ)


こんなんだから、できそこないって呼ばれるんだ。

自分を責めたって、見せてしまったものに変わりない。
顔を両手でおおって泣き始めてしまったお母さんに胸がぎゅっと痛くなる。
どうしよう。おれのせいだ。どうしよう。
土下座して額をタイルに擦りつけたって、謝ったって、お母さんの心が軽くなるわけじゃない。


…でも、こんなじぶんにはそんなことしかできなくて、


腕を掴まれて、身体を押し倒される。
首を掴まれた。
圧迫感。
気管支が狭まる。
息ができない。

でも、いつものことだ。こうやって首を絞められることなんか、いつものこと。



「…それだけじゃないわよね。真冬は、私が帰るまでお風呂に入らないって約束したわよね」

「…ぁ゛…っ」

「どうして…わたしはしつけがちゃんとできないの…?」

「…っ、ご…ぁ」

「もう聞きたくない」



謝ろうとした言葉は、絞められた首によって声にならない。

お母さんの視線の先には、さっきくーくんとお風呂に入った時についたらしい壁の水滴。


言われてた。
覚えている。
忘れたわけじゃなかった。
お母さんは自分の指示した行動以外をおれがするのをひどく嫌う。
…だから、自分がいない間も勝手な行動をするな。勝手に家の物を使うなって言われた。

…でも、くーくんに嫌われたくなくて、自分が汚い子だって言われるのが怖くて、お母さんの言いつけを破ってお風呂に入って、しまった。


「…また最初からしつけ直さないと…」

「…ごめ、なさ…っ」

「泣いたからって…許してもらえるだなんて思わないことね」


息がうまくできなくて、苦しくて、勝手に涙が出てくる。
泣きたいわけじゃない。
泣けば泣く程お母さんの機嫌が悪くなるのがわかってるのに、どうしてもとめられない。
そんな吐き捨てるような声に、ごめんなさい、と掠れた声が漏れてさらに涙が溢れる。

ジャーっと水の出る音。
それが浴槽の方からすることがわかって、…すぐに水をためてるんだと気づいた。

耳の中で一層激しくなる音のせいで、近くでしているはずの水の音すら聞きづらい。
血液がどうにかなってしまったのか、ドクドクと首から鳴るなにかの音がうるさい。

ギリギリと首を掴んでいた指が離れる。
一気に空気が入ってきた。
咳き込む。


「…っ!は…っ、げほ…っ」

「……ねえ、真冬。これはしつけなんだから。しつけなの。ちゃんといいつけをまもらない真冬が悪いんだから」


まるで自分に言い聞かせているような低い声。
首の後ろを片手で掴まれて、お湯のたっぷりとたまった浴槽と向き合う形になる。

(…っ、)

揺ら揺らと揺れる水面に映る、不安げな自分の顔。


「…ほら、繰り返しなさい。”自分は悪い子だからいい子になります。もう言いつけを破ったりしません”って」

「…っ、おかあさ、…っ、や、やめ」


わきあがる恐怖に身を捩ろうとすると、首の後ろを掴む手に力が入る。


「…っ、…、!」


気づいた時には、水中に顔を押し込まれていた。

(…つめ…たい…っ)

痛い。苦しい。
顔にかかる水圧。
常に肌を刺されているような感覚。
氷のように冷たい水が、一斉に無防備だった鼻や口から入り込んできた。
反射的に空気を吸おうとして口を開けて、もがこうとすればするほど冷水が入り込んできて息ができなくなる。
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