全ては、君のためだけに。

✤✤✤

その後のことは、正直言えばよく覚えてない。

色々あった気がする。
まぁ、それぐらい…思い出そうとも思わないくらい、取り上げて騒ぐほどの出来事もなかったんだけど。



「……」



…息を、吸う。


自分が呼吸をとめていたことにすら、今まで気づかなかった。
喉がカラカラに乾いて、痛い。

もう一度深く深呼吸をして、いつの間にか乾いていた唇を舐めた。
部屋に漂う、むっとした空気。
素材になっている木の匂いだけではない、家畜部屋と同じ匂い。
木の匂いに負けないぐらい、もう一つ、新たに生じたものが充満していた。

でも、ここはあの場所とは違う。

ほとんど俺の部屋と同じ構造で、酷似していた。
しかしその違いは見てすぐわかる程、より豪華な物たちで彩られている。
色々な人間の苦痛と犠牲の上に成り立っている生活。


ぽたり、ぽたり、と水道の蛇口から水を垂らすような音が聞こえてくる。

(…おかしいな。この部屋に水を流す場所なんかないのに)

相変わらず他人の瞳を通して世界を見ているような平坦な感情で、小さく首を傾げた。

何かを感じて、ゆらり、と無表情のまま視線を下に向ける。
少し離れた場所から蒼様、とあの人の好んでいた口紅で塗られた唇を震わせて見上げてくる顔。

それはつい数秒前まで重ねられていたから、所々薄く元の唇の色に戻っていて、メッキが剥がれ掛けていた。

つい最近、屋敷で飼われ始めた人間。

化粧を濃く塗っているのに、青ざめて蒼白になっているのが明白だった。
まるで今目の前で予想できないことが起こっている、とでも言いたげな。

例えば通り魔にすぐ近くの通行人が殺されたとして、次の標的は自分なんじゃないか。…そんな、顔。


「今更後悔しても遅いよ」

「…っ、でも、」


「でも…、何?」と冷めた瞳で見下ろせば、言い訳でもしようとしたのか女はパクパクと溺れかけた鯉のように言葉にならない声を発して、結局何も言えずに頭を垂れた。

そして今自分が全裸だということに恥じらいを覚える様子もなく(それどころじゃないんだろうけど)、肩を震わせて嗚咽を漏らしながら泣き始めてしまった。

見た目だけでは美人の部類に入るんだろう。
この屋敷に入ってくる時にやけに自慢げに紹介されたのを微かに思い出した。
でもその姿を見て可哀想だとか慰めようとかそんな感情が湧かないどころか、面倒臭いと思う自分はやはりどこか壊れているのかもしれない。


「泣く程嫌なら、最初から協力なんかしなければよかったのに」

「…そ、んな…」

「…俺は強制した覚えはないんだけど」


ただ、協力してもらう代わりに女の望むことをしてやっただけ。

ノリ気だったくせに、今頃になって後悔して恨まれても困る。

多分、これが屋敷のそこらへんで歩いてる犬達だったらきっとこの女は泣かなかったんだろう。
涙一滴流さずに処分されるのを見送っていたはずだ。

この屋敷ではこんなの当たり前で、日常茶飯事で、だから別段誰も気にしない程度の出来事で、
今従僕達を呼べば、何も言わずに片付けるのが普通だった。

(…相手が、他の人間だったなら)

心の中で呟いて、
女から、少し視線をずらす。

とりあえず、


「…どうしようかな」


今、目の前で血まみれになって死んでいる”あの人”の身体を。

―――――――――

(あーあ、)

(まーくんとおそろいの着物が汚れちゃった)
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