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「そろそろ行かないと。とりあえず、自己紹介はしておくわ。私は、椿 なぎと申します。」
彼女はそう言いながら、目を細めて何故かすごく機嫌が良さそうにこっちを見る。
スーツ姿の男は余程惚れているのか、その微笑みに視線を向けただけでまた赤くなって目を背けた。
「…ぁ…、」
こっちに静かに歩いてくる女の人に身体を緊張させて、声を絞り出そうと口を開く。
反射的に身体が後ろに下がろうとして、床に手をついた。
「椿様、は、」
そう口ごもると、彼女は少しおかしそうにわらった。
「椿でいいわよ。あなた、蒼のお気に入りみたいだし」
そう言われても流石にいきなり初対面の人を、それに偉い立場らしい人を椿なんて苗字でも呼び捨てにするわけにもいかず、「椿さん」と呼びかける。
「…椿さんは…今日、蒼に会うためにこの屋敷にきたんですか」
屋敷で、この女の人を見たのは初めてだった。
蒼に部屋に閉じ込められる前に遊びに行った時にも、蒼に仕える人たちが蒼以外を「様」づけするのを聞いたことがない。
…ということは、この人はこの屋敷の人ではないということで。
でも、多分屋敷では偉い立場にいる人でもある…という雰囲気を漂わせている。
ごくりと唾を飲みこんで、恐る恐る視線を彼女に向けた。
「ええ」
「…っ」
クスリと笑みをこぼした椿さんはためらいもなく頷いて、目の前に来ると軽く俺の頬に触れる。
その手が怖くて、無意識に視線がそこに行く。
ぴくりと震えた俺を見て、彼女は歪に口元を緩めた。
「…………」
不意によぎる思考に無意識に眉を寄せる。
聞こうか聞かないか、一度躊躇う。
…でもやっぱり気になって、目の前で微笑むその人に視線を向けた。
蒼が逆らえない人。
屋敷の人が”椿様”と呼ぶ彼女。
「……ぁ、…蒼、とは、どういう関係ですか」
「うーん、そうねぇ」
つつ、と唇をなぞられて、ぞぞぞと寒気が走った。
絶対、絶対に触り方おかしい。
身体を椿さんから遠ざけると、そんな俺に笑みを零しながら離れていく指に、安堵して息を吐く。
しかし、次に言われた言葉に思考が止まった。
「紹介するなら蒼の初めてのオンナでもあり、今では同じ仕事をする同業者って感じかしら」
「……………」
(……蒼の、………初めてのオンナ?)
唐突に言われた言葉に一瞬その意味を理解できず目を瞬く俺を見て、ふふ、と満足げな笑顔を浮かべた椿さんは顔を近づけてくる。
驚いて肩が跳ね上がった俺に対して楽しそうに笑いながら、耳元にその唇を寄せてきた。
笑いを含んだ、でもどこか惹きつけられるような低く囁くような声音。
「…―――――もちろん、”男”としての俺の、な」
「……え?」
「また、あなたとはいろいろ話したいわ。こっそり遊びに来ます」なんて、先程とはうって変わって高い声に変えた”彼女”は、俺が呆然としているのを見て上品に笑った後、扉を閉めた。
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