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わけもわからずに零れでる涙が頬を伝い、彼の浴衣にも染みていく。
バクバクと煩い心臓が、嫌な感情をこみ上げさせてきた。
唇を噛み締めても、声が漏れる。
身体の震えがおさまらない。


「…っ、ぅ、ぇ…ッ、くーく、くーくん…っ、」

「…うん」

「…ね、お願い、…頭、撫でて、」


彼にしがみついて懇願すると、ゆっくりと頭に回されている右手が気遣うように動く。
…耳から肌越しに聞こえる鼓動。温かい体温。嗚呼、嬉しい。幸せ。



「いる、くーくん、…ちゃんと、いる、」



おれは、ひとりじゃない。
ここは病院じゃない。だけど、あっちの家でもない。あのコンクリートの部屋でもない。

だから、くーくんがいる。

…ぎゅうって、してくれてる。


「大丈夫。大丈夫だよ。…俺は、まーくんの傍にいる」

「…っ、うん、うん…っ、」



…凄く幸せなのに。

どうして、こんなに怖いんだろう。
何が怖いのか、なんでこんなに恐怖に近い感情が時々こみ上げてくるのか、…その理由が何もわからない。

今までのこと…思いだそうとしても、くーくん以外は全員顔が真っ黒で、…だから、彼以外は判別ができなくて、

…くーくんがいてくれればそんなのどうでもいい、って思っていたはずなのに。それが……今はとてつもなく怖い。

キツく閉じていた瞼を、勇気を振り絞って少しだけ持ち上げてみた。


「…――、」


涙で潤んでいるせいか、世界が微かにぼやけてみえる。
…それでも、さっきみたいに真っ暗な闇でないことに心底安心した。


「…くーくん、」

「ん?」


ぽつりと、今日何度目かわからない名を呼んでみる。

…これ以上心配かけるわけにはいかない。
息を吸って震えをとめる。
ぱっと身体を離して、にへらっとできる限りの笑顔を作ってみた。


「ごめん、ね。なんか、今日の朝みた変な夢…思い出しちゃった」


「もう大丈夫だから。ありがと、くーくん」大好き、と少しだけ恥ずかしさと罪悪感を交えて告白する。それと、「床…汚してごめん、なさい」とただでさえ汚していた畳に嘔吐物まで吐きだしてしまったことを頭を下げて謝る

…と、

「…そんなこと気にしなくていいよ。俺にとっては、まーくんが無事がどうかってことが一番大切だから」と明らかな嘘をついたおれを責めないまま、ただそう言って頬を緩める彼の優しさにまた泣きそうになる。

それを隠すために顔を背けて、「…っ、…でも、今もさっきも、くーくんがあんなに焦ってくれるとは思わなかったなー。いつも何にでも余裕っぽいから、びっくりした」なんてわざと冗談めかした口調で言った。



「…自分でも、ずっと…俺には感情なんてないんだろうって思ってたんだよ」


すると、静かな声が零される。


「…誰のことも好きになれないし、関心も持てない。周りにだってそう言われてきたし、俺も…そうだと思ってた」

「……」

「なのに、まーくんだけは特別なんだ」


目が合うと、…なんでかな。と、少しだけ嬉しそうに、眩しそうに微笑む彼。
そんな表情に身体の深い部分がぎゅうと締め付けられて、苦しくなった。

胸の前でぎゅうと拳を握る。

…と、ふいに瞼を軽く伏せたくーくんがその手首から伸びた鎖を持ち上げた。

ジャリ、と金属の鳴る音。


「…言い忘れてたけど、…これをつけたのには別の理由もあるんだ」

「…な、に…?」


立ち上がった彼は自身の乱れていた浴衣を少しだけ整えてから、おれにも上から羽織るものを用意して後ろから着せてくれる。
あと、「…っ、ん、」性器や手にべたべたついている精液もティッシュで拭いてくれた。

それから、くーくんは障子の方に歩みを進め、そこの窪みに指をかける。


(……?)


……茫然としてその一連の行動をみつめていれば、…カラカラと音がして開かれる扉。


「……へ、」


ふわりと外から入ってくる風が、全身を撫でた。
その開いた扉から見える、外の景色。

それに息を呑む


…と、

こっちを振り返った彼が「まーくん、…おいで」と優しく言葉を零して、おれに手を差しだしてくる。



「前に言ってた”部屋の外に出たい”ってお願い、叶えてあげる」



そうして、優美な笑みを浮かべながら、酷く柔らかい声音でその言葉を囁いた。



―――――――


(少し躊躇って、)

(…その手を、取った。)
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