9

それどころか、そのせいで脳の働きが停止して、ほとんど何も耳に入ってこなかった。
むしろ、この家畜の言う”痛み”とやらが伝染したかのように、


「…(…わかんねーけど、どっかがいてぇ…し、よけいに苛ついてきた)」


アイツにやられた傷じゃない。
別の部分が、じくじくと変な感覚を起こしていた。


「ぅ、ぁ゛ああ…ッ、くーく、」


ぴく、眉が寄る。
放っとけば、新しい液体で濡れ続けているその唇が、アイツを呼ぶ、ような気がして、


「…っ、うるせえっつってんだろ…っ!!!」


この感覚をどうにか解消したい。
その一心で、ぴーぴーぎゃーぎゃー騒ぎ立てる家畜に向かって腕を振り上げる。

思いきり殴ってやろうと思った。
死ぬ限界まで叩いてやろうと思った。

そうしたら、気分も良くなるだろう。
すっきりして、何事もなかったような気持ちに戻れるだろう。


「…っ!、や」


掴んでいた手に力を入れ、身をこっちに寄せると怯えたような声を漏らした。
拳が、顔面に触れる




直前、






「…――まーくん、みーつけた」




優しく、微笑みまじりの声が…耳に届く。

びりっと電撃が走ったような感覚に。
一瞬で、目が相手の姿を捕らえた。

…見る度、どこかの女によく褒められている黒髪。

整いすぎた顔立ちが、
浴衣から覗く…暗闇のなかでもぼんやりと浮かびあっているように白い肌が、

普段の無表情を更に冷え冷えとさせているから、他の人間にはない不幸を纏っているように見えて、…俺はその顔を見るたびにざまあみろとほくそ笑んでいた。

…しかし、

今は、…違う。

無表情とは、ほど遠い。


”まーくん”


そう呼ぶ対象だけを認識して、瞳に映して、心で感じて、
だから…今の状況なんて、俺が家畜を殴ろうとしている行為なんてこの世に存在していない。

しかも、この緊迫した場面にそぐわない…まるでかくれんぼをしていた子どものような台詞と、唄を口遊んでいるような声音が、そのことを更に実感させた。


自分と”まーくん”以外は、世界に存在していない。


…それを俺に見せつけるみたいに

あまりにもいつもと違う甘ったるい表情で、
ソイツの後ろから腰にふわりと腕を巻き付け、目の前の身体を抱き竦め、て
prev next


[back][TOP]栞を挟む