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それどころか、そのせいで脳の働きが停止して、ほとんど何も耳に入ってこなかった。
むしろ、この家畜の言う”痛み”とやらが伝染したかのように、
「…(…わかんねーけど、どっかがいてぇ…し、よけいに苛ついてきた)」
アイツにやられた傷じゃない。
別の部分が、じくじくと変な感覚を起こしていた。
「ぅ、ぁ゛ああ…ッ、くーく、」
ぴく、眉が寄る。
放っとけば、新しい液体で濡れ続けているその唇が、アイツを呼ぶ、ような気がして、
「…っ、うるせえっつってんだろ…っ!!!」
この感覚をどうにか解消したい。
その一心で、ぴーぴーぎゃーぎゃー騒ぎ立てる家畜に向かって腕を振り上げる。
思いきり殴ってやろうと思った。
死ぬ限界まで叩いてやろうと思った。
そうしたら、気分も良くなるだろう。
すっきりして、何事もなかったような気持ちに戻れるだろう。
「…っ!、や」
掴んでいた手に力を入れ、身をこっちに寄せると怯えたような声を漏らした。
拳が、顔面に触れる
直前、
「…――まーくん、みーつけた」
優しく、微笑みまじりの声が…耳に届く。
びりっと電撃が走ったような感覚に。
一瞬で、目が相手の姿を捕らえた。
…見る度、どこかの女によく褒められている黒髪。
整いすぎた顔立ちが、
浴衣から覗く…暗闇のなかでもぼんやりと浮かびあっているように白い肌が、
普段の無表情を更に冷え冷えとさせているから、他の人間にはない不幸を纏っているように見えて、…俺はその顔を見るたびにざまあみろとほくそ笑んでいた。
…しかし、
今は、…違う。
無表情とは、ほど遠い。
”まーくん”
そう呼ぶ対象だけを認識して、瞳に映して、心で感じて、
だから…今の状況なんて、俺が家畜を殴ろうとしている行為なんてこの世に存在していない。
しかも、この緊迫した場面にそぐわない…まるでかくれんぼをしていた子どものような台詞と、唄を口遊んでいるような声音が、そのことを更に実感させた。
自分と”まーくん”以外は、世界に存在していない。
…それを俺に見せつけるみたいに
あまりにもいつもと違う甘ったるい表情で、
ソイツの後ろから腰にふわりと腕を巻き付け、目の前の身体を抱き竦め、て
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