26
――あの後、
おれは、知らないふりをした。
すべてを。
…覚えてないふりをした。
せんせいのこと。
澪のこと。
確かに見覚えがあった男の人のこと。
…くーくんに、『ほかに好きな人ができた』って言われたこと。
何のこと?と、今すぐに声を上げて泣きたくて、死にそうなほど痛い感情を隠して首を傾げれば、「…そっか、」と複雑そうな面持ちで微笑んだくーくんはそれ以上追及してこなかった。
…お風呂も、ただ、普通に入って…何もしなかった。
あの約束も、全部なかったことになった。
「良い匂いがする」
「え、野菜ってそんなに匂いよかった…?」
後ろからぎゅってされたままドキドキしながら作業を続行していると…ぽつりと零された言葉に、はて?と疑問を投げれば、
「まーくん…、凄く良い香り」
「…っ、ぁひゃああああ…っ!!?」
首筋に顔を埋められ、囁かれた低めボイス。
まさか自分の匂いだとは思わず、しかもゾクゾクするほど男の人って感じの声で言われたから色んなとこが反応してしまって、一メートルくらい跳ね上がる勢いでジャンプして離れる。
…否。離れようとしたけど、楽しそうに笑みを零したくーくんにわざと力をいれられてぎゅってされたまま動けない。く、くそう!
「く、く、くーくんもお風呂一緒に入ったんだから匂い同じだし、っていうか、くーくんの方が凄くいい匂いで、だし、あばばば、おれをおとそうとするの禁止!」
もうおちてるから禁止!とこれ以上の進入禁止令を出す。
後ろからでも絶対に真っ赤になってるのがばれてる気がするから余計に恥ずかしい。
「…ほんと、怪我してばっかりだな。まーくんは」
「で、でも、ちゃんと料理には血、まざってないから大丈夫!」
ふふん、そこはちゃんと気を付けてるから任せなさい。と胸を張れば「何言ってんの」と呆れられた。…ちょっとへこむ。
さっきから何度も野菜の皮をむいたり切ったりしているときにピーラーや包丁でいたるところを削ってしまった手。
腰に回っている腕の力が少し緩む。
右手の下から重ねるように手が添えられた。
振り向けば、…困ったように眉尻を下げたくーくんと目が合う。
「そうじゃなくて、これ以上傷が増えることが心配なんだけど」
「…っ、う、あ、」
ごきゅ、と唾を変に飲み込んだことで喉が痛む。
心配、してくれてたのか。と申し訳なさ2割嬉しさ7割その他1割な気持ちで言葉にならない声が漏れた。
「不器用にも程がある」
「…ぶきよう、じゃない…」
「否定するんだ?」
ふ、と不意に可笑しそうに苦笑したくーくんの笑顔に、つい見惚れてしまう。
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