手放せない



―――――嗚呼、嫌だ。


どろり、…何かが心臓に溜る。
溜って、溜って…真っ黒になった心臓から溢れ出した膿が、…今度は内側から外に向かって侵食を始めた。


「……、」


【犬】達が新調したらしい蝶の柄と鮮やかな黒で彩られた着物を身に纏い、屋敷を歩く。

木の板を踏みしめて歩みを進めている俺の視界の隅には、…確かに縁側の庭の景色が映っているはずなのに…何の実感も湧かない。

セカイが、モノクロだった。

それどころか、汚染されている。


「蒼様、本日のご予定は…」

「…あ、あの、…っ、このような素敵なお屋敷にお招きいただき誠に…」

「吉原家の者とはお会いになったと聞いたもので、…是非、次は私の娘と一度会っていただけ」

「昨日はどうも…娘が良くしていただいたようで大変喜んでおり…」


通りすがりざまに数えきれないほどの人数に声をかけられ、引き留められ…まるで何か得体のしれない物に掴まれているように足が重くなる。

”交渉を有利に進めるためだ。お前なら、どうすれば良いかわかるだろう…?”



「…っ、」



鬱血した倦怠が広がる。

さっきの部屋で嫌というほど感じたものと同じ。
……触れた部分から、不快感を遥に超える感覚が墨のように広がっていった。

全身の血液に異物が紛れ込んだような嫌な気持ちがする。

…消えない。消えない。気持ち悪い。消えない。

血の滲むほど強く身体を洗ったばかりなのに、…それは残ったまま…今も俺の身体に跡を刻み続けている。

身を震わせて厭うほどおぞましい。
どろどろとした愛情、揶揄、執着、嫉妬…他にも表現するのも不愉快なものをぶつけられた。

逃げ場のない迷路に、絶望に引きずり込まれる。


…でも、


「…(…あと、少しの我慢だから、…)」


鉛のような足で進み、…他の部屋とはかなり離れた場所まで来た。

…先程までの頭が痛くなるような騒音と穢れがまるで夢だったみたいに、そこは空気が澄んで、シンと静まり返っている。

息を吐く微かな音さえ、ここでは聞こえた。

取り出した鍵で扉にかけていた錠を開け、カラカラ…と障子を開ける。


…と、



「…ぁ、蒼…えっと…おかえ、り…?」

「…っ、」


(…嗚呼、やっと…会えた…)

ぱっとこっちを見たまーくんのその綺麗な瞳が、俺を映す。
昨日俺が仕立てた着物を着て、出ていく前に遊び道具にと置いていった猫のぬいぐるみを抱き、ちょこんとそこに座ったまま…俺を見上げている。

そして、あどけなく頬を緩め、やわらかく微笑ん、で…


「……」

「蒼…?どうしたの…?」


その心配そうな声に、答えられなかった。
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