9



――――――――――――――――


その後、

奥様は穏やかな口調でひとりひとりの使用人とお話をされていたが、……先ほどの言葉を冗談だというつもりは毛頭ないらしい。

勿論誰も蒼様に手をだそうだなんて思っていたやつはいないだろうが、わざわざあんな風に言うことかとも思う。


用事があるらしい奥様が席を外し、好きにお菓子を食べて休んでいていいとのことで、一時の休息時間となる。
皆自由に話をしていいとのことだったが誰一人として口を開くものはいない。

机の前に座ったまま静かにしていると、鹿脅し?という名称だったか、庭の方でカコン、と時折鳴り、池の水が流れるような音が聞こえていた。


「…っ、あおいさま、」


うっとりと色を含み、弾んだ女性の声が音量以上のものになって廊下に響く。


今日耳にしたばかりの女性、奥様の声だ。
当然、本日より雇用されるはずの使用人にそのような関係性に至っている人物がいるはずないので、そう呼べるであろう女性は一人しか該当しないのだが。

さっきまで蒼と呼び捨てにしていたのに、何故今は『様』づけなのかと不思議に思いながらも、執事長の指示で全員立ち上がり廊下へと向かう。


……敷居の溝を越え、先ほどの声の方向を見ると、


奥様が廊下の端にいた。

三千里ぐらい離れていたのかと目を疑うほど、待ち焦がれた恋人に巡り合えたという眼差しで恋い慕うように見上げて、ほう…っと見惚れている横顔が映る。

僕らの存在すら忘れてるんじゃないだろうか。

その目線の先にいるだろう相手への熱視線が普通ではない。
放っておけば好きです愛してますキスしてくださいと、周りを憚らずに抱きついて懇願しそうな勢いだ。

頬を薔薇色に変えながら、魅入られ、なんでもするとでもいった顔は心酔というよりむしろ崇拝に近いものがある。

とろりとした表情で傾倒し、心を奪われている。

(……そんなに好きなのか)

先ほどの皆への牽制もそうだ。
恋人に対してどれほどの濃い想いをもっていたら、あそこまでの強い敵意を持つことができるのだろう。

今まで出会ってきたカップルや夫婦でここまで熱を上げているのは見たことがない。
prev next


[back][TOP]栞を挟む