体育大会は後半戦に入った。真上に登っている太陽が容赦なくグラウンドを照らしつけ、じりじりと焼けた地面の熱がスニーカーの底から伝わってくる。生徒たちの割れんばかりの歓声が空気を震わせ、色とりどりのクラスTシャツが揺れる応援席からは、ひっきりなしに声援が飛んでいた。

「『メガネをかけている美人な先生』ー! どこですかー!」
「俺と同じ『6月1日生まれ』の人、いませんかー!」

 ──"借り物競争"。ルールは単純で、くじに書かれた人物や物を探して、障害物を越え、一緒に手を繋いでゴールへ向かうというだけ……のはずなのに、選ばれるお題ひとつで空気がざわめき、場が盛り上がる。

「次の走者、位置についてくださーい!」

 係の生徒の声に促され、私はスタートラインに立った。緊張で心臓が少し速くなる。前の組の様子を見ていると、お題によってはカップルが成立したように妙に盛り上がっているペアもいれば、該当者が見つからず困り顔で右往左往してい生徒もいる。
 さっきは「好きな人が同じ人」なんていう、悪魔みたいなお題もあった。

(お願いだから、変なお題、来ませんように……)

 ピストルの音が鳴って、軽い障害物を超えた先にあるテーブルに辿り着く。小さく息を吸い、その上に置いてある箱に手を入れる。紙の端に指が触れた。ざらっとした手触り。そのまま静かに引き抜いて、そっと開く。

 ──『一番最初に目が合った人』

(……は?)

 目を疑った。しかし、何度見ても書いてある言葉に変化は無かった。
 探すのではない。見つけに行くのでもない。“目が合ってしまった”人。しかも、“一番に”。

(……逆に、難易度が高すぎる)

 気をつけないと、誰とでも目が合いかねない。流石に全く知らない人と手を繋いで走るのは避けたいので、クラステントの近くへ行こうと視線を落としながら走り出す。余計な視線を拾わないよう、足元ばかりを見ていたけれど、周囲の喧騒と熱気が、容赦なく意識を掻き乱した。

「おーい! ツインテールの女子はここにもいるぞー!」
「頑張れー!」
「今日誕生日の人ー!?」

 他の走者の声や声援がグラウンドに響いている。もうペアを見つけ始めた生徒もいるらしい。いつまでも下を向いているわけにもいかない。そろそろクラスメイトが並んでるテントの近くに来たのではないかと思う。意を決して、顔を上げた、
 その瞬間。目が、合ってしまった。トラックの向こう側、クラスの応援席の端に立つ、及川と。

 彼は一瞬、きょとんとしたように目を見開いた。そして、次の瞬間には、何か面白いことでも見つけたかのように、唇の端をにやりと歪めた。

(うそ……)

 心臓が、文字通り飛び跳ねた。それは驚きのせいだけじゃない。明らかに、違う理由で。
 私が息を詰めたのと同時に、及川が楽しそうに、応援席から飛び出すように駆け出していた。グラウンドに、割れんばかりの黄色い歓声が響き渡る。女子たちの視線が一斉にこちらへ突き刺さるのが分かった。

 私は困惑したまま後ずさろうとするも、あっという間に目の前に影が差す。息ひとつ乱さず、まるで最初から私のパートナーだと決まっていたかのような涼しい顔で、及川が立っていた。

「やっほー。で、お題なーに?」

 楽しそうに首を傾げる。思わずお題の紙を持った腕を後ろに回して首を振る。

「な、なんでもないから!」
「へぇ? まあ、どっちでもいいけど。はい、行こっか」

 そして彼は、何の躊躇もなく、私の手を掴んだ。

「……!!」

 手のひらに、彼の熱がじかに伝わる。抵抗する間もなく、指がするりと絡め取られる。意識するな、という方が無理な話だ。手のひらから伝わる彼の体温が、じわじわと指先から腕へ、そして全身へと広がっていく気がする。

「ちょっと、待ってよ……! まだ、及川って決まってない!」
「えー? けど、もう俺がこうして来たんだからさー」
「それは、あんたが勝手に……!」
「お題が何であれ、ナマエちゃんが俺を選んだってことでいいじゃん」
「違うって言ってるでしょ!」

 全力で否定するのに、及川は楽しそうに肩をすくめるだけ。

「ふーん? じゃあ、言うこと聞かない悪い子には、お姫様抱っこでゴールまで連行しちゃうけど、いい?」
「はぁ!? なにバカなこと言って……きゃっ!」

 言い終える前に、彼はすでに走り出していた。
 繋いだ手を引かれて、足がもつれる。必死で腕を振っても、彼のストライドには到底追いつかない。まるで、制御不能な大きな犬に引きずられる飼い主みたいな構図だ。

 転びそうになった瞬間、彼がぐっと腕を引き、一瞬、強く体ごと引き寄せられる。至近距離で、彼の熱を帯びた呼吸が、ほんの少しだけ頬を掠めた。

「……危ないよ」

 低く、嗜めるような短い声。いつもの軽薄さがない、真剣な響き。誰のせいだと睨みつけるけど、彼はすぐにまた余裕たっぷりに微笑んで、何事も無かったかのように前を向いてゴールを目指す。

 きっと及川は本来の実力の数分の一も出していなかったのだろう。それでも、まだお題の人を探して右往左往している他のペアを横目に、私たちは用意されていたハードルや風船割りなどの障害物をあっという間に越え、ゴールテープへと向かっていた。
 最後の一組を追い抜き、ゴールが見えてくる。

「ゴール!!」

 パンッ、と乾いた破裂音とともに、白いテープが二人の腰に巻き付く。その瞬間、応援席から、わあっという大きな歓声と拍手が湧き上がった。
   
 いくつもの声が飛び交う中、私はようやく足を止め、肩を揺らしぜえぜえと息を切らした。その場に崩れそうになるのを必死に堪える。全力疾走したせいで、肺が焼けるように熱い。なのに。
 視線を横にやると、及川はまるで軽いジョギングでも終えたかのように、息ひとつ乱していなかった。流れる汗を手の甲で拭い、乱れた前髪を軽くかき上げながら、余裕綽々な顔で笑っている。

「はぁー……」

 余計に腹が立ってきた。まだ肩で息をしながらも、少し呼吸が整ってきたので、私はお題の確認係の生徒のところへと歩き出す。
 その途中、まだ握られていた手を振り払おうとすると、彼の指が抵抗するように一瞬だけ強く絡み、そして名残惜しげにするりと解けた。その指が離れる間際に、ぽつりと、呟く声が聞こえた。

「……俺以外と一緒にゴールするところ、見たくなかったんだよね」
「え……?」

 それは、周りの喧騒にかき消されそうなほど、小さな声だった。まるで独り言みたいな、静かな響き。でも、それが逆に私の耳の奥に、じんと痺れたように響いた。
 心臓が、ドクン、と妙に大きく音を立てる。喉の奥がひくついて、うまく返事ができない。

「……ん? どうかした? 顔赤いけど」

 ふっと、いつもの軽い調子に戻った及川が、不思議そうに首を傾げる。何事もなかったみたいな顔しているけど、そんなわけ、ない。聞き間違いなんかじゃない。いまの言葉は、確かに──。

 そのとき、マイクを持った確認係の女子生徒が声を上げた。

「はい、ただいまゴールした、こちらのペアのお題を発表しまーす!」

 思わず顔を上げて、慌てて手元に持っていた紙を彼女に渡す。女子生徒は折り曲げられた紙を広げ、書いてある言葉を読み上げた。

「お題は……『一番に、目が合った人』でしたー! まさに運命ですねー!」

 その言葉がグラウンド全体にスピーカーを通して響き渡った瞬間、空気が一瞬止まり、次の瞬間、わあっという今日一番の歓声と、囃し立てる声があちこちから湧き上がった。

「やっぱりお前ら付き合ってんのー?」
「運命だって〜! 良かったね及川〜!」

 自分の顔に、ぶわっと熱が集まるのが分かった。
 どうやら最近、及川がやたら一人の女子に絡んでいるということは、校内でもそれなりに噂になっていたらしい。その「絡まれてる相手」が私だと、こうして公に知られてしまった。元々注目されるのには慣れてない性分なので、こんな大勢の前で名前も知らない人にまで注目されるのは、できれば勘弁してほしい。穴があったら入りたいくらいだ。

 及川は発表されたお題に一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに満面の笑顔を作り、大歓声の応援席に向かって「イェーイ」なんて言いながら手を振ってみせる。そのスター性に、呆れるよりも感心してしまう自分がいる。
 そして、彼は私に向き直ると、隠しきれないほどの喜びを含んだ声で言った。

「いやー、俺、今日ツイてるわー」
「え?」
「だって、ずっと見てた甲斐があったじゃん。ナマエちゃんのこと」

 マイクには拾われない、私にだけ聞こえる声で、彼はそう囁いた。その瞳は真剣で、いまの言葉が冗談ではないと告げていた。

「……っ」

 心臓が、またひときわ大きく跳ねた。

(……ずっと、見てた? いつから?)

 問い詰めたくなる。でも、周囲の冷やかしの声と、耳の奥で鳴り響く心臓の音に飲み込まれて、言葉にならなかった。

「はい、次の走者は準備してくださーい! ゴールしたペアは速やかにトラックから出てくださーい!」

 係の声に促され、私たちは歓声の渦から逃げるようにグラウンドの端へ向かう。それでも、好奇の視線は背中に突き刺さるようで、視線を落としたくなる。なのに、隣を歩く彼はまるで何でもないような顔をして、むしろ少し楽しげにすら見えるのが、どうしようもなく腹立たしい。
 クラスのテントが見えてきた、そのときだった。

「……あー、疲れた」

 不意に、すぐ隣からそんな声が聞こえたかと思うと、ずしり、と私の右肩に重みがかかった。見ると、及川が私の肩にこてん、と顎を乗せて寄りかかってきている。
 その声は、どこか甘えるような、わざとらしいような響きがあった。

「……ちょ、重いんだけど」
「んー、だって頑張って走ったんだもーん。ちょっと休憩させてよ」
「いや、走ったのは私もだし! ていうか、及川は絶対全然疲れてないでしょ!」

 さっきまで息ひとつ乱していなかったくせに。
 私の肩に、180センチを超える男子の体重が、じわじわとのしかかってくる。必死に踏ん張って支えようにも、体格差がありすぎるのだ。

「いやいや、無理だって! 重い、ほんとに!」
「えー、ケチー。いいじゃん、ちょっとだけ。頑張ったご褒美ちょうだいよ」
「ご褒美って……! 誰のせいでこんな……っ」

 抗議しながらも、肩にかかる確かな重みに耐える。これ以上体重を預けられたら、本気で私ごと崩れ落ちそうだ。周りからはまだ「おいおい、及川たちがまたイチャついてんぞー!」なんて声も飛んできて、ますます顔が熱くなる。

「ちょっと! 見られてるって!」
「えー? 別に良いじゃん、見せつけとけば。ねー、もうちょい、このままいさせて?」
「……」

 その声の調子が、やっぱり妙に甘ったるい。抵抗しようにも、彼の体温が、すぐ隣の熱気が、私の動きを鈍らせる。肩に伝わる彼の感触も、すぐ近くで聞こえる呼吸の音も、普段なら絶対に気にしないはずなのに、やけに五感を刺激してくる。
 言い返そうとしたけど、ここで何か言えば、こっちの動揺を彼に悟られてしまう気がして、ぐっと言葉を飲み込んだ。

「……もう、いいでしょ。重い」
「んー?」
「だから、そろそろ離れてって言ってんの」
「やーだ」
「……は?」
「やーだもーん」

 しれっとした、子供みたいな声に、呆れて思わず顔を向けてしまう。

 そして、見てしまった。
 彼の額から流れ落ちる、ひとすじの汗。それが彼の喉元を滑り、クラスTシャツの襟元に消えていく。

 あの雨の日を、また、思い出してしまった。濡れた髪、張り付いたシャツの間を滑り落ちる雫、そして──触れた唇の、熱い感触。自然と、自分の視線が彼の唇へと向いてしまう。
 あの日の、彼の真剣な眼差しと、切実な声が、鮮明に蘇る。

(……なんで、よりによって今)

 まるで高熱に浮かされたみたいに、全身の血液がどくどくと逆流するような感覚。思わず顔を背ける。けれど、それだけでは足りなくて、手のひらで口元を覆った。すると不意に、肩に乗っていた重みが、ふっと消える。

「はいはい、分かりましたー。ケチだなー、ナマエちゃんは」

 どこか楽しそうな、いつもの声。でも、その声とは裏腹に、及川の視線が、じっとこちらを射抜くように見ているのを、肌で感じた。

 もしかして、あの雨の日を思い出していると悟られたのだろうか。いや、そんなわけない。平然としていないと、またからかわれてしまう。そう自身に強く言い聞かせる。でも、指先が微かに震えているのを、自分では止められない。
 
「…ねえ」

 低く、静かな声が、すぐ耳元をくすぐった。さっきよりも、じんわりと鼓膜を刺激するような甘さが滲んだ声音。

「……ドキドキしてる?」
「………は?」

 反射的に聞き返す。でも、自分の声が思った以上に震えていて、動揺を隠せてないのが丸分かりだ。こんなに分かりやすい声を出したら、何もかもバレてしまうのに。

「……もしかして、何か思い出した?」

 彼の声は、からかっているようでいて、どこか確信を帯びている。

「……この前の、雨が降ってた日のこと、とか?」
「っ……!」

 心臓が、喉から飛び出しそうなくらい大きく跳ねる。

「……な、なんで」
「だって」

 及川は、私が言い終える前に、ふっと息を漏らすように笑った。その顔は、悪戯が成功した子どものように得意気で満足そうだった。

「顔、真っ赤だよ?」
「!!」

 咄嗟に両手で頬を覆う。でも、もう遅い。彼はすぐ目の前で、心底面白そうに私を見ている。

「……ほんと、可愛い」

 ぽつりと、どこか慈しむように、それでいて独り言のように呟かれた声。及川の指が、頬を隠す私の手に触れ、そして、そのままそっと額に張り付いた髪を払うような仕草をする。
 熱を持った指先が肌に触れた瞬間──思考が、一瞬、真っ白に飛んだ。

「……意識してくれてるよね?」

 そう囁かれた瞬間、心臓が跳ねる。ドクン、と強く鳴った音が、及川にも聞こえてないか不安になる。目を逸らしたくても、彼の視線に釘付けにされて動けない。

 目の奥が熱い。呼吸が浅くなる。耳の奥で、自分の鼓動がうるさいほど鳴っている。何か言い返そうとした唇は、ただ震えるだけで、言葉にならない。

「……っ」
「俺のこと、ちゃんと男として見てくれるまで……もうちょいってとこかな?」
「……ぜんっぜん、違う…っ!」

 必死に否定する。でも、彼の余裕たっぷりの表情と、確信に満ちた声が、私の心をこれでもかと掻き乱した。

 もう、ただのクラスメイトだなんて、思えなくなってきたのかもしれない。その事実を認めるのが怖くて、私はただ、赤くなった顔を隠すように俯くことしかできなかった。

体育大会の攻防:逃げられない引力



メランコリー