古都の風情が残る街並みを、クラスごとに班別行動で散策する。高校生活の大イベントのひとつである修学旅行。今年の行先は関西方面ということで、今日と明日の行程は京都探索となっている。
石畳の道、軒を連ねる土産物屋、遠くに見える紅葉した山々。見える景色すべてが宮城とは違っていてどれも新鮮で、非日常的な空気が心を浮き立たせる。
「うわ、見て、あれ可愛い!」
「ねえねえ、こっちのお団子、美味しそう!」
友達と左右のお店に気を取られながら歩いていた、その時。人混みで少し道が狭くなった瞬間、隣から伸びてきた手が私の手首をそっと掴んだ。
「!?」
驚いて隣を見ると、及川が「はぐれちゃうでしょ」なんて言いながら、悪びれもなく笑っている。
彼とは今回、偶然にも同じ班になっており、こうして一緒に行動することになっていた。彼の手のひらが私の手をすっぽり包み込み、体温がゆっくりと伝わってくる。周りの喧騒や友達の声が、一瞬潮が引くように遠のいた気がする。
「ちょ、ちょっと、及川……!」
「だって危ないじゃーん、この人混み」
しれっとした顔で言う彼に、反論の言葉が喉の奥で絡まる。確かに人は多いけれど、手を繋ぐほどでは──そう思って、慌てて周りを見回した。班の他のメンバーは、少し先のお店に夢中で、こちらには気づいていないようだ。
手を振りほどこうとした。でも、出来なかった。
先日の体育大会の時にも触れた、私の手よりもずっと大きくて、優しく包み込まれているように感じる及川の手。いつもは数センチ、いや数ミリのズレすら許されない世界で、ボールひとつに全神経を注いでいるはずのその手が、今は私の手を迷いなく掴んでいる。
その確かな温もりに、息が詰まった。胸の奥がきゅっと鳴る。
「ほら、行くよ」
私の戸惑いを見透かしたように、及川は少しだけ指に力を込め、引く。そのわずかな動きに導かれるように、私は彼の隣を歩き出した。繋がれた手から伝わる体温が、じわじわと腕を伝い、胸の奥まで滲み込んでいく。
ここに来るまでのバスでの移動中もそうだった。何故か隣の席になった彼は、窓の外の景色を見るふりをして、私の耳元に顔を寄せ、「あの雲、なんか面白い形してない?」なんて囁いてくる。
内容は他愛ないのに、その距離の近さと、すぐそばで聞こえる彼のいつもより低く掠れた声に、いちいち心臓が跳ねてしまっていた。
体育大会の後から、いや、あの雨の日から確実に、及川の距離感が変わった。前よりもずっと大胆で、遠慮がない。まるで、私の反応を試すように、楽しむように。
そして、そんな彼を、私が拒みきれなくなっていることにも、もう気づかないふりはできなかった。
△
夕食と入浴を済ませ、部屋で友達とテレビ番組を見ながら笑い合っていた時、内線電話が鳴った。
「明日の確認事項があるから、保健委員はロビーに来て」
先生からの連絡に、私は「ちょっと行ってくるね」と友達に声をかけ、部屋を後にした。
艶やかに磨き上げられた床を、館内用スリッパでペタペタと音を立てながら一人で歩く。壁には、墨で勢いよく書かれたような達筆な掛け軸がかかっていて、廊下の間接照明の光に照らされて静かに存在感を放っていた。窓の外からは、虫の声と川のせせらぎが聞こえてくる。
ロビーでの簡単な打ち合わせは、すぐに終わった。部屋に戻ろうとした、その時。視界の隅に、大きなガラスの向こうに広がる光景が映った。
ライトアップされた、美しい日本庭園。滅多に見ることがない、その幻想的な雰囲気に、私は思わず足を止めた。
(もっと近くで見れるかな…)
私は部屋に戻る道とは少し違う、人通りの少ない廊下へと自然に足を踏み入れていた。
その廊下の突き当たり、自販機の淡い光の中に、見慣れた後ろ姿があった。彼はジュースを選んでいるわけではなく、ただ静かに、窓の外に広がる庭園を眺めているようだった。
Tシャツにスウェットという、リラックスした格好の及川。いつもの見慣れた制服姿でさえ、寸分の隙もなく整えられている彼が、今は無防備な姿でそこに立っていた。
自販機の数歩手前で立ち尽くしていると、彼はふと私の気配に気づいたように、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。
「お、ナマエちゃん」
彼の髪は、お風呂上がりだからなのか、いつもみたいにワックスで固められていなくて、さらさらと額にかかっていた。でも、一部だけぴょんと可愛らしく跳ねていて、くせっ毛なのかな、とぼんやり思う。
「どうしたのー? こんなとこで」
「…保健委員の連絡事項があってロビーに来てたの。その帰りに、庭が綺麗だなって思って、つい…」
私の言葉に、及川は少し目を見開く。そして「うん」と頷き、再び庭園に視線を戻した。
「俺も、そう思ってた」
その横顔は、昼間の彼とは少し違う、穏やかな表情をしていた。いつもは人の輪のなかの中心でキラキラと輝いている姿ばかりを見ているが、いま隣で美しい日本庭園を見つめるその顔は、近寄りがたく感じるほどに、穏やかで落ち着いていた。
及川は片手に持っていたペットボトルのキャップをカチッと回し、無造作に口元へ運んだ。喉が上下に動き、ごくり、ごくりと音を立てて中身が減っていく。
廊下のライトに照らされた横顔が妙に絵になっていて、視線を外すことが出来なかった。
キャップを閉めながら、彼はふとこちらを見やる。そして、躊躇いなくペットボトルを差し出してきた。
「…飲む?」
差し出されたスポーツドリンク。もちろん、数秒前まで彼が口をつけていたものである
──間接キス。
自分の視線がペットボトルの飲み口に釘付けになっているのがわかる。さっきまで、そこに彼の唇が触れていたという事実に頭がいっぱいになる。
「い、いや、大丈夫…!」
慌てて首を横に振り、少しだけ彼から視線を逸らす。その私の変化に、彼は気付いたのだろうか。
ふ、と息を漏らすような、楽しそうな笑い声が聞こえた。驚いて顔を上げると、及川が悪戯が成功した子供のような、意地の悪い笑顔で私を見ていた。
「そっか」
その返答にまで楽しそうな響きが滲んでいて、私の心臓は、また大きく跳ねた。その時、及川が「ねぇ」と、ふいに真面目な声色で言った。
「ちょっとだけ外、歩かない?」
「え? 勝手に外出ちゃ、まずいでしょ」
「大丈夫。そこの渡り廊下から、宿泊者は自由に庭園を散策できるみたい。…なんか、ちょっとだけ外の空気吸いたくてさ」
そう言って、彼は先に少し先の渡り廊下へと続く扉へ歩き出してしまう。私は仕方なく思いつつ、でもどこか期待している自分を感じながら、その後ろ姿を追った。
渡り廊下へ繋がる扉の近くには、庭園散策用のサンダルがきちんと並べられていた。私たち以外には誰もいない、二人だけの空間。少し重いガラスの扉を開けると、ひんやりとした夜風が頬を撫で、優しく冷ましていく。
ライトアップされた庭園は、息を呑むほど美しかった。巧みに配置された庭石の間を小さな小川が流れ、さらさらと心地よい水音を立てていた。
手入れの行き届いた松や苔が、照明に照らされて幻想的な空気を作り出し、石灯籠の淡い光が、足元を照らしていた。
しばらく、他愛ない話をしながら並んで歩く。今日行ったお寺のこと、おやつで食べたどこかの喫茶店の、きな粉がたっぷりかかったお団子のこと、班の男子がやらかした面白い話。昼間の喧騒の中とは違う、静かで穏やかな時間が流れる。
いつの間にか、彼の隣を歩くことに、もう何の違和感も感じなくなっている自分に気づいた。
池のほとりで、不意に、及川が立ち止まった。水面に映る、丸い月を静かに見つめている。その整った顔を横目で見つめていると、彼が、ぽつりと言った。
「……なんかさ」
夜の空気に溶けるような、静かな声だった。
「こうしてると、俺たち付き合ってるみたいじゃない?」
「……え」
心臓が、どくん、と大きく跳ねた。彼がゆっくりとこちらに向き直る。冗談めかした口調とは裏腹に、その瞳は笑っていなかった。
(つき、あってる……?)
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
彼は本気なのか、それともただ、からかっているだけなのか。確かめたいのに、怖かった。そして私自身、目の前の彼のことを、一体どう思っているのか。自分のことなのに、自分がわからない。
「……な、何言って…」
やっと出た声は、情けないほどに震えていた。
「…私たち、別に、そういうんじゃない……でしょ」
かろうじて絞り出した言葉は、自分でも驚くほど弱々しい。
及川は、そんな私を見て、ふっと息を吐くように笑った。その笑みは柔らかく穏やかで、いつもの彼そのものなのに、どこか遠くを見ているようだった。
諦めにも似た静けさと、何かを悟ったような影が入り混じって、胸の奥に、チクリと痛みが走る。──見てはいけないものを、見てしまったような感覚だった。
「……なんてね。冗談だって」
彼はそう言って、くるりと背を向けて、また歩き出した。
いつも通りの軽薄な空気を纏っているはずなのに、手の届かない場所へ、ふいに行ってしまいそうな気がした。繋いでもいない手を、離されたような気がして、足が動かない。
冗談だ、と彼は言った。
自分で突き放したくせに、胸の奥にチクリと何かが刺さる。鈍い痛みは、重く、甘く、私の心の、一番深い場所にゆっくりと沈んでいった。
△
次の日の班ごとの自由行動時間。事前に決めたルートに従って、昨日とはまた違う有名な寺社や観光スポットを巡る。もちろん、及川も同じ班なので、一緒に行動をしている。
昨日の夜の気まずさを感じていた私とは違い、及川は拍子抜けするほど、いつも通りだった。いや、いつも通りにしてくれてるのかもしれない。
だけど、それを問いただすほどの勇気はない。だから私は、及川のその優しさに甘える。結局、逃げているのだ。及川からも、自分からも。
午前中は順調だった。地図を見ながら、時には迷いながらも、賑やかな観光地を歩き回る。
けれど、昼食後、大きなお寺の境内を散策している時だった。少し広い場所に出て、それぞれがおみくじを引いたり、写真を撮ったりしているうちに、気づけば、私と及川は他のメンバーとはぐれてしまっていた。
「あれ? みんなどこ行ったんだろ?」
及川が辺りを見回しながら言う。私は参道に連なっているお店を指差しながら答えた。
「さっきまで、あそこのお茶屋さん見てたみたいだけど……」
「あー、あいつら、食い気に走ったな。まあ、後で連絡取ればいっか」
彼はあっさりとそう言って、私の手を取った。
「せっかくだからさ、俺たちだけでちょっと見て回ろうよ」
「え、でも……」
戸惑う私をよそに、彼はもう歩き出している。また、この強引さだ。でも、今はもう、それを振りほどく気にはなれなかった。
二人で、広い境内をゆっくりと歩く。さっきまでの賑やかさとは違う、静かで落ち着いた時間。木々の間を吹き抜ける風が、心地良い。
本堂へ続く道の脇に、小さなお土産物屋さんを見つけた。色とりどりの和小物や、可愛らしいお守りが並んでいる。カラフルな色合いに、吸い寄せられるように近づきお店を覗いてみる。
「あ、見て。これ可愛くない?」
同じように品物を見ていた及川が指差したのは、小さなちりめん細工で作られたキーホルダーだった。桜モチーフのような、可愛らしい花の形。ペアになっているらしく、片方は紅葉の柄、もう片方は銀杏の柄で、秋らしいデザインだ。
「……ほんとだ、可愛いね」
「でしょ? なんか、俺たちみたいじゃない?」
「は? どこがよ」
「えー、この二つでひとつって感じとか?」
意味不明なことを言いながら、彼はそのストラップを手に取った。ニコッとこちらに笑いかける。
「ね、これ、お揃いで買わない? 修学旅行の記念」
「…え、お揃い……?」
予想外の提案に、さすがにそれは、と躊躇する。友達ならまだしも、及川と、お揃いのものを買うなんて。
まるで、恋人同士みたいだと思ってしまった。
「…だめ?」
私が戸惑っているのを察したのか、小首を傾げて、少しだけ寂しそうな顔をする。この男は、自分の表情が相手の心をどう揺らすのか、効果的な方法を知っているのだろう。
ずるい。そんな顔をされたら、断ることなんてできない。
「……別に、いいけど」
小さく頷くと、彼は「やった!」と子供みたいに笑って、すぐにレジへ支払いに行く。
(別に…お土産くらい…うん……)
心の中で言い訳のような言葉を並べながら、レジのほうを気にしないふりをして他の商品を眺める。しばらくして会計を終えて戻ってきた及川が、銀杏の柄のストラップを私に差し出す。
「はい、ナマエちゃんはこっちね。俺は紅葉の方もらうから」
差し出されたキーホルダーを受け取るとき、彼の指先が、かすかに私の指に触れた。その一瞬だけで、胸の奥が跳ねる。
「あ、お金──」
「いいの。俺がお揃いにしたかっただけだから」
笑いながらそう言う彼の表情は、いつものように人をからかうものでも、軽やかな余裕を漂わせるものでもなかった。そこにあったのは、飾り気のない、少年のような屈託のない笑顔だった。
手のひらに残る小さな黄色が、彼の指のぬくもりといっしょに、心の奥に染み込んでいく。私はそれを、壊さないように、そっと包み込んだ。
お店を出て、再び歩き出す。彼は何も言わずに、また私の手を自然に握った。今度は、さっきよりもっと、当たり前のように。
石畳の道を、並んで歩いた。繋がれた手の温かさが、心地良かった。時折、指が軽く絡み合う。そのたびに心の奥がやわらかく波立った。
こんなふうに歩いているところを誰かに見られたら、きっと誤解される。そう思うのに、不思議と手を離す気になれなかった。
彼の手のぬくもりが心地よくて、ただ、それだけを確かめるように歩いた。この気持ちが何なのかはまだ分からない。けれど──今だけは、もう少しこのままでいたいと思った。
そろそろ班のみんなと合流する時間が近い。戻らなきゃいけないと分かっているのに、足が思うように動かない。名残惜しくて、彼の手を振りほどく勇気が出ない。けれど、これ以上は──そう思って、繋いでいた手にそっと力を込め、離そうとした、その瞬間。
「ん?」
彼が手を解かず、逆に指を絡める。軽く引き寄せられて、思わず息が止まった。
「……もしかして、離したくない?」
口元に浮かんだ笑みはいつものいたずらっぽいものなのに、その瞳の奥に、何か探るような光が宿っていた。
「……っ、ちが、そんなんじゃ……!」
頬に熱がのぼっていくのが自分でも分かる。慌てて手を引こうとするけれど、彼は楽しそうに目を細め、逃がしてくれなかった。
「ふーん? でも、さっきナマエちゃんからギュッてしてくれたよね?」
「そんなこと……!」
否定の言葉が喉の奥で絡まって、うまく出てこない。絡められた指先から伝わる体温から、鼓動の速さが伝わってしまわないだろうかと不安になる。
言葉に詰まる私を見て、及川はふっと目を細めた。ほんの一瞬、何かを思案するように視線を落とし、それから口元をゆるめる。
その表情は、これまで見たことのないものだった。優しくて、どこか切なげで──心の奥を静かに覗き込むような目。
「……まあ、俺も」
ほんの少しの間。彼の視線が、私の反応を確かめるように揺れる。その間が、どうしようもなく長く感じられた。
「離したくないんだけどね」
息を呑む。彼の本気とも冗談ともつかない言葉と、その表情に、心臓がぎゅっと掴まれたみたいに苦しくなった。
(ああ、もう、ダメだ……)
赤くなった顔を隠すように視線を落とすと、指先が目に入る。彼の大きな手が、私の手を包み込んでいた。軽く込められた力、その向こうから伝わる熱。
嬉しいと思った。彼の隣にいることが。その手に自分が包まれていることが。そんなふうに特別に扱われるのが、どうしようもなく嬉しかった。
.でも同時に、どうしようもなく不安だった。この気持ちを認めてしまったら、何かが変わってしまう気がして。
昨日の夜からずっと、胸の奥に刺さっていた小さな棘。
彼の気持ちが本物なのか、まだ分からない。信じていいのか怖くて、でも、それでも、もう引き返せそうになかった。
今はただ、この手を、離したくない。ただ、それだけだった。