澄んだ秋空の下、グラウンドには体育大会の熱気が立ち込めていた。空はどこまでも高くて青く、乾いた風が旗を揺らすたびに、季節の移ろいを肌で感じる。
 応援の声や笛の音、笑い声が重なって、まるで学校全体がひとつの熱を持っているみたいだった。

 種目の合間に、短い休憩時間が訪れた。すると、クラスの女子たちがざわめきながら動き出す。手にしているのは、小さな包みやドリンクボトル、中には冷えたゼリーなんかも混ざっていた。
 朝、家庭科室に集まって、それぞれ思い思いの差し入れを用意していたけれど、それは「気になる誰か」のためのちょっとしたアピールタイムのためだったらしい。

 私はというと、ただ流れに乗って一口サイズのおにぎりを何個か作っただけで、誰に渡すかなんて考えていなかった。友達と分け合ったり、自分でつまんだりしていたけれど、どうやら少し作りすぎてしまったらしい。
 タッパーの中で余った数個のおにぎりを見つめながら、さてどうしようか、と考え込んでいた、その時──。

「ねー、俺にも差し入れ、ちょーだいよ」

 すぐそばから、爽やかなのにどこか甘さを含んだ声が降ってきた。
 顔を上げると、及川がすぐそこに立っていた。隣には岩泉がいる。彼とこうやって正面から向き合うのは初めてで、目が合った瞬間、お互いほんの僅かに表情が強ばったのが分かった。

 及川は、さっきまでリレーか何かで走り回っていたはずなのに、なぜかその汗さえもキラキラと眩しく見える。額に張りついた前髪の先と、少し上気した肌が、秋の陽射しをやわらかく弾いていた。
 息も乱れていないし、疲れた様子なんてどこにもない。ただ、いつもの人懐っこい笑顔だけが、こちらに向けられていた。

「……いいけど…余り物で良ければ」
「余り物とか言わないでよー。ナマエちゃんのが食べたいって思って来たんだからさ」
「……他にも、渡したい子いっぱいいるでしょ。及川に」
「うん、いるっぽいね。でも、俺はナマエちゃんのがいいの」

 にこっと笑いながら、まるで当たり前のことみたいに言う。彼の視線はずっと、私だけを見ていて、思わず視線を逸らしたくなるほど、真っ直ぐで、ずるい。
 その眼差しを受け止めるたびに、自分の中の何かがじわりと熱を帯びていく。

 ──あの雨の日の告白から、数日が経っていた。

 あのあと、乾燥機が気まずい沈黙を切り裂くように終了の合図を告げて、私は逃げるように脱衣所に行き、乾いた制服を取って及川に渡した。いつもの制服姿。だけど、それを着る前の彼を知ってしまった今では、同じはずの姿がどこか違って見えた。

 及川は平然とした顔で「ありがと。じゃあ、また明日ね」なんて言って帰って行ったけれど、私は、この胸の奥に渦巻く熱をどうすればいいのか分からなかった。

 次の日に顔を合わせた時も、私はどうしても視線を合わせられなかったのに、及川は何事もなかったかのようにいつも通りで。
 気まぐれだったのか、それともあの告白は本気だったのか。ずっと答えが出ないまま、私は体育大会の準備に追われていた。

 ──そんな曖昧な日々の延長線上で、今また、目の前の彼は余裕綽々の笑顔を浮かべている。

 戸惑いながらも、タッパーの蓋を開ける。中には、私が握ったシャケとおかかのおにぎりが数個ずつ。及川はじっとタッパーの中を覗き込み、少し考えるふりをして、小首を傾げる。

「わ、どっちも美味しそう。これ、中身なぁに?」
「こっちがシャケで、こっちがおかかだけど……」
「へぇ〜、どっちも捨てがたいなぁ。んー、選べない!」

 わざとらしく悩むふりをしながら、ちらりとこちらの顔を盗み見るような、悪戯っぽい視線。そして、その目がふっと細まり、彼はとびきりの笑顔で言った。

「じゃあさ、ナマエちゃんが食べさせてよ。『あーん』って」
「……は?」

 また始まった。及川の、この手の冗談。どうせ私が慌てふためくのを見て、面白がりたいだけなのだろう。いつものパターンだ。ここで動揺したら、彼の思うツボだというのは、嫌というほど経験している。だったら、こっちもその手に乗ってやろうじゃないか、と腹を括る。

「はい、どうぞ。おかかの方ね」

 私は表情を変えずに、小さなおにぎりの一つをそっと指で摘まみ、彼の口元へと差し出した。
 その瞬間、及川の動きがぴたりと止まった。ほんの一瞬、彼の瞳が驚いたように見開かれる。冗談めいた空気が霧散し、思ってもみなかった展開に素の反応がこぼれた、そんな顔に見えた。
 すぐ隣から、岩泉が「さっさと食えよ」と呆れたように低い声を飛ばす。けれど、及川はその声も聞こえていないかのように、私を見つめたまま、ゆっくりと目を細めた。唇の端が、じわりと弧を描く。その顔を見た瞬間「あ、違う」と思った。これは、いつもの冗談の顔じゃない。
 ふざけた笑みの奥に、ほんの少しだけ、獲物を見つけたような、悪戯っぽい光が宿っている。

(……間違えた、かも)

 そう思った次の瞬間──。

 ぱくっ。

 まるでじゃれつく子犬みたいに、彼はおにぎりを咥えた。それも、私の指先ごと。

「っ……!」

 指先に触れる、驚くほど柔らかい唇の感触。湿った熱。軽く触れた歯の硬さ。ぞくりとするような感覚が、腕を駆け上がった。

 あの日と同じ唇。脳裏に、雨の日のキスが鮮やかに蘇る。
 わざとだ。分かってる。こんなの、絶対に、彼の計算だ。慌てて手を引こうとしたけれど、それより先に、彼はゆっくりと顔を上げた。そしておにぎりを咀嚼し、満足げに微笑む。

「んー、おいひぃ〜。さすがナマエちゃん」

 軽く舌先で自分の唇をぺろりとなぞる仕草まで、計算され尽くされているみたいだ。なんだかもう、腹が立つやら、心臓がうるさいやらで、何が理由で顔が赤くなっているのかが自分でも分からない。

(……完全に、やられた)

 何か言い返してやろうと口を開きかけた瞬間、彼はさらに追い打ちをかけるように、パチンと片目を閉じてウインクまでしてみせた。

「ご馳走様〜」

 語尾にハートマークでも付いていそうな、完璧なアイドルスマイル。直後、どこからともなく甲高い悲鳴が響き渡る。

「きぃやぁあああああああ!!!!」
「ちょ、ちょちょ、ちょっとナマエ!? どういうこと!?」

 友達に肩を揺さぶられる。そんなの私が聞きたい、と言い返したいのに、困惑と恥ずかしさで固まってしまい、目の前で憎らしく微笑む男から目が逸らせなかった。

「ちょ、待って、今の見た!? やばいやばい!!!」
「指! 指ごと食べてたよね!? え、何あれ!?」

 周囲の女子たちもざわつきはじめ、視線が一斉にこちらに集まる。ひそひそと囁き合う声が、ざわめきのように広がっていった。

「……おい、クソ川。てめぇ、何してんだ」

 呆れと苛立ちの入り混じった、岩泉の低い声が、その喧騒の中に沈むように響いた。

「えー? 何って、美味しいおにぎりご馳走になってただけだけど? もしかして岩ちゃんも食べたいの?」
「いるか!」

 しれっと答える及川を、岩泉は心底うんざりした顔で睨みつけ、短く息をついた。

「バカやってねえで、とっとと戻るぞ。休憩終わりだ」
「はーい、了解でーす」

 及川は軽く手を振ると、岩泉に促されるまま歩き出すかと思いきや、くるりと私の方に向き直り、にっと笑う。そして、周りには聞こえないくらいの声で、私の耳元に低く囁いた。

「指まで食べちゃってごめんね? …でも、甘くて美味しかったよ」

 呆然としたまま、じんわりと熱を持ち始めた指先を、私は反対の手でぎゅっと握りしめる。彼の最後の囁きと、指先に残る生々しい感触。完全に、彼のペースに飲まれてしまった。

 及川の背中を見送りながら、まだドキドキと鳴りやまない心臓と、熱いままの指先を持て余していた。

体育大会の攻防:甘い罠



メランコリー