ざわめきが響く体育館。観客の声、ボールの弾む音、シューズが床を擦る音。そのすべてが、張り詰めた緊張感を帯びていた。

 春高予選の県大会決勝。レギュラーメンバーが所属しているクラスは、会場に応援に駆けつけていた。学校の体育館とはまるで違う、大きな大会会場の応援席。その一角に座った私は、少しだけ緊張しながら、コートに立つ及川の姿をじっと見つめていた。
 普段は余裕たっぷりに笑い、どんな場面でも軽口を叩く及川だけど、今日はその纏う空気がいつもと違っている気がした。

(…及川、ちょっと怖い顔してる)

 試合中、何度かそう思う場面があった。
 決して表情が険しいわけじゃない。けれど、トスを上げるたび、サーブを打つたび、その動きの端々に焦りのようなものを感じた。

(……なんだろう)

 及川が出場している試合を見たのは、これで数回目。いつもの彼なら、苦しい場面でも軽口を叩きつつ味方を鼓舞しているような様子を見せるが、今日は、そんな言葉すら聞こえてこなかった。

 胸の奥で、ざわりと何かが揺れる。けれど、その違和感を深く掘り下げる間もなく、試合は終わった。
 ──敗北という現実とともに。



「……大丈夫大丈夫。心配しないでって」

 気遣わしげに声をかけてくるチームメイトに、笑って返す。声が上擦りそうになるのを誤魔化すように、いつもの調子を無理やり装った。

「先にバス行ってて。俺は、ちょっとクールダウンしてから行くから」

 そう言って手を振ると、気まずそうに頷いた仲間たちは、それ以上何も言わずにロッカールームを後にした。
 その時、出口の前で立ち止まり、こちらを見つめる三年の先輩たちに気づいた。その赤くなった目に、滲んだものを見た瞬間、込み上げるもので喉が詰まった。
 腰を折り、深くお辞儀をする。

「……ありがとう、ございました」

 声が震えないよう、奥歯を強く噛みしめた。

「今までありがとう、及川」
「みんなをよろしくな」

 頭を下げているせいで表情は見えない。それでも、その固い声に込められているだろう未練や期待が、俺の胸の奥を灼いた。

(本当は、こんな終わりにしたくなかった)

 あの人たちは、今日が青葉城西高校バレー部として大会に出る最後の日になった。

 扉が閉まり、ひとりきりになったロッカールーム。しんと静まり返る空間の中で、涙を堪えていた三年生の顔が脳裏に焼きついて離れない。

(くそっ……!)

 衝動のままに、ロッカールームの壁を殴りつけそうになる拳を、必死で握りしめる。指の関節が白くなるほどの力で。その代わりに、汗で濡れたユニフォームのシャツを乱暴に脱ぎ捨て、床に叩きつける。ぐしゃぐしゃになったそれを睨みつけながら、奥歯を強く噛みしめた。

(あと少し、あと数センチ……何かが、違えば……!)

 どこで間違えた? どの選択がダメだった? 相手の攻撃、味方の動き、自分のトス……何が、足りなかった?
 思考がぐるぐると空回りするだけで、答えなんて見つかるはずもなかった。敗北という結果だけが、重くのしかかってくる。

「……及川」

 不意に肩を軽く叩かれ、びくりと体が強張る。振り向くと、いつの間にかそこに立っていた岩ちゃんが、何も言わずにただじっと、こちらを見ていた。
 叱るでも、慰めるでもない。ただ、その視線に、無言の気遣いと理解が滲んでいた。

 いつも通りの幼馴染の顔。なのに、なぜか今日は真っ直ぐ見ていられなかった。胸の奥が、じわりと痛む。

「今日はもう帰るぞ。……明日から、また考えればいい」
「……分かってる」

 無理やり、口角を引き上げた。乾いた笑みを浮かべて、いつものように手をひらひらと振ってみせる。軽い自分を演じるように。

「俺、切り替え早いんで。もう大丈夫だって」
「はぁ? どこがだよ、そのザマで」
「いやいや、めっちゃ早いっしょ?」
「その顔で言うな、クソ川」

 岩ちゃんの容赦ない言葉が、今は妙に遠くに聞こえた。
 分かってる。大丈夫じゃないことなんて、自分が一番分かってる。早く、このどうしようもない苛立ちを、この胸を焼くような焦燥感を、どうにかしたかった。何かにぶつけて、粉々に砕いてしまいたかった。


 きっと、みんなを待たせている。着替えてチームジャージを羽織り、重い足取りでロッカールームを出た、その瞬間──目の前に、見慣れた姿が立っていた。

(……なんで、いやがるんだよ)

 ナマエだった。俺が今、一番会いたくない相手かもしれない。

 普段なら、目が合うだけで胸が弾んで、どんな言葉をかけて困らせようか、なんて心が躍るはずなのに。今は、真逆の気持ちだ。いつもみたいに明るい声で『ナマエちゃん』なんて呼ぶ余裕は、今の俺にはなかった。

「……何しに来たの、ナマエ」

 自分でも驚くほど、冷たく低い声が出た。
 彼女は、俺が呼び捨てにしたことに気づいたのだろう。僅かに息を呑んだように見えた。その反応を、俺は冷めた目で見下ろす。

「ただ、様子を見に……」

 ナマエは、努めて平静を装っているようだった。いつも通りの落ち着いた声。だが、その冷静さが、無性に神経を逆撫でした。

「見て、どうするわけ?」

 突き放すような俺の言葉に、ナマエの唇がキュッと結ばれる。その反応すら、気に入らなかった。

「お前が見たって、結果は変わらない。何も、変わりやしないのに」

 冷たい言葉を、わざと次々と吐き捨てる。彼女の目が、微かに揺れるのが見えた。きっと、ひどく傷つけている。だけど、喉の奥から逆流してくるように出てくる醜い言葉たちは、止まってくれなかった。

「……俺がどんな気持ちで今ここにいるか、お前に分かる?」

 じわりと、腹の底から黒い感情がせり上がってくる。どうしようもない苛立ち。焦燥。惨めな敗北感。そして、行き場のない衝動。それを、もう抑えることができなかった。
 気づけば、俺はナマエの手首を強く掴んでいた。

「っ……及川?」

 戸惑う声。怯えの滲む瞳。その反応すら、俺の苛立ちを増幅させる材料になる。

「お前は、いつもそうやって、呑気でいいよな」

 ぐっと距離を詰め、彼女の耳元に唇を寄せる。拒絶するように身じろぎする細い体を、無理やりロッカールームの中へ引っ張り、逃がさないように壁際へ追い詰めた。

「きゃっ…」
「俺がどんなに必死になっても、どんなに足掻いても、結局お前にとっては“ああ、負けたんだ”くらいの話なんだろ?」
「……そんなこと──」
「じゃあ、何?」

 ナマエが何か言い返そうとする。けれど、その言葉を聞きたくなくて、背中を壁に強く押し付ける。

「“頑張ったね”って、慰めでも言いに来たわけ?」

 乾いた笑みを唇に浮かべ、首を振って抵抗する彼女の顎を片手で掴んで、無理やり上を向かせる。

 ナマエの瞳が、恐怖と混乱に大きく揺れていた。まるで、捕らえられた小動物のように。その怯え切った表情すら、今の俺には歯痒くてたまらなかった。
 もう、何も考えたくなかった。この苦しさから、一瞬でも逃れたかった。
 だから──衝動のままに、彼女の唇を、力ずくで奪った。

「んんっ!?」

 抵抗する体を壁に押さえつけ、逃げ場を与えないように深く。唇を強く押し当て、拒絶するその隙間をこじ開けるように、舌を割り入れようとする。

「っ……や…っ!」

 あの雨の日にも、重ねた唇。濡れた髪の隙間から覗いた、戸惑いながらも受け入れてくれたように見えた、ナマエの表情。
 確かにあの時触れたものと同じ唇のはずなのに──今、俺が押し当てているのは、まるで別物だった。温もりも、甘さもない。そこにあるのは、怯えと拒絶だけだった。

「っ……んん…!」

 ナマエが、か細い腕で俺の胸を押し返そうとする。だが、そんな非力な抵抗は、今の俺を止める力にはならなかった。
 もっと。もっと強く、もっと深く、彼女に触れて、この惨めな現実を忘れさせてほしかった。

「……っ、ん、や……めて……っ」

 キスの間に漏れた、掠れた、懇願するような声。それが、皮肉にも俺の制御を失わせる引き金になった。

 一度、唇を離す。
 震えながら息を吸ったナマエの顔は、真っ青だった。その頬へ、無言のまま手を伸ばす。

 ずっと、触れたいと思っていた髪だった。陽に透けるたび、綺麗だと──心のどこかで何度も思っていた。
 けれど今、指先に触れたそれは、そんな淡い憧れとは無縁だった。蒼白な肌を両手で挟み込む。そのか細い輪郭ごと、逃がさないように固定するため。
 ナマエの頬へとかかっていた髪が、ぐしゃりと無造作に指に絡んだ。

「お前は、俺の何なんだよ……」

 言葉を吐きながら、ふと視線がぶつかった。
 ナマエは、俺の顔を見ていた。怯えながら、それでもどこか、俺の行動の理由を必死に探すように。そして、大きな瞳が、僅かに見開かれる。
 ──しまった、と思った。

 俺の抑え込んでいたつもりの痛みと惨めさが、きっと滲み出ていたのだろう。見せたくなかった顔を、よりによって彼女に見られた。
 ナマエの唇がかすかに震えた。何かを言おうとしているのだろうか。その口から何を言われるのか、聞きたくなくて、恐怖で身が竦む。

 だから、逃げた。彼女の視線から、自分の弱さから。そのまま手のひらを細い肩に食い込ませて、首筋に顔を埋めた。

「やっ…!」

 白い肌に唇を落として、強く吸い付く。彼女の指が、必死に俺のジャージを掴んだ。けれど、それは縋る手でなく、明確な、拒絶の手だった。

「……や、め……て……お願い……っ」

 その声は、恐怖から震えていて、俺の知っている彼女の声ではない。それでも、俺は止まれなかった。腰に腕を回し、自分の体を強く押し付けるように抱き寄せる。

「……お前が、悪いんだからな」

 八つ当たりでしかない言葉を吐き捨て、熱をぶつけるように、再び唇を重ねた。そのまま内腿へ手を這わせ、その柔らかい皮膚をなぞる。その瞬間、ナマエの体が、今まで以上にびくりと硬直した。そして。

 ──つう、と。
 彼女の白い頬を、一筋の涙が伝うのが見えた。

 その透明な雫が、まるで鈍器のように俺の頭を殴って、全ての動きを止める。

「………さい、てい」

 掠れた、消え入りそうな声で、ナマエが呟いた。心臓を、鷲掴みにされたような衝撃。

(──俺は、今、何をした?)

 目の前の彼女の、震える肩。俺がつけた、首元の鬱血痕。そして、怯えと、軽蔑の色を映した、濡れた瞳。

 ──ずっと、欲しかった存在だった。声を聞くだけで嬉しくて、目が合うだけで幸せで。
 雨の日に触れた唇の感触も、恥ずかしそうに俺の名前を呼ぶ柔らかい声も、修学旅行で繋いだ手のひらの温もりも。すべてが、愛しくて仕方なかったはずだったのに。
 「勝ちたい」と「悔しい」に押し潰されて、自分が一番大事にしたかったものを、壊してしまった。

「……っ」

 ナマエは、壁に背を預けたまま、力が抜けたようにその場にズルズルと音を立ててしゃがみ込む。肩が震えている。その痛々しい姿が、目に焼き付いて離れない。
 取り返しのつかないことをしてしまったのだと、無言で告げてられているようだ。

「……お、れ……」

 声を出そうとした。謝らなければ。そう思うのに、喉がひきつって言葉にならない。息が詰まる。
 目の前のナマエは、ただ静かに涙を流していた。手を伸ばせば、すぐに触れられる距離にいるはずなのに。その距離が、今は絶望的に遠く感じた。

「……ナマエ…」

 かろうじて絞り出した声は、音にならなかったかもしれない。握りしめていた拳から、力が抜けていく。何を言っても、何をしても、もう遅い。

 ナマエは壁に手をついて、ふらつく体を支えながら、ゆっくりと立ち上がった。俯いたまま、涙を流す顔を俺から隠すように。一歩一歩、ゆっくりと距離を置かれる。そのたびに俺の中で何かが軋む音を立てて崩れていった。
 怖がられている。そう確信してしまった瞬間、自業自得の癖に、息をするのも苦しくなる。

「……帰る」

 ひどく弱々しい声が、俺たち二人しかいないロッカールームに、虚しい音となり響いた。いつもなら、引き止めたはずだ。どんな手を使ってでも。
 でも、俺の身体は、石のように動かなかった。

 彼女が立ち去り、小さな足音が遠ざかっていく。その音が完全に聞こえないくなったとき、俺はようやく動くことができた。

 こみ上げてくる後悔と自己嫌悪の重さに耐えきれず、近くにあったロッカーに向かい、ありったけの力を込めてで蹴りを入れる。ガシャン!と耳障りな金属音が、がらんとした空間に虚しく響き渡った。

 ──次の日からの学校は、地獄だった。

 ナマエの姿を見つけるたびに、心臓が凍るような感覚に襲われ、無意識に目を逸らしてしまう。彼女の顔を、まともに見ることができなかった。
 だけど、どんなに姿を認めようとしなくても、同じ教室にいるため、嫌でもナマエの姿が視界に入ってくるし、声が鼓膜を震わせる。そのたびに、昨日の光景が鮮明に蘇った。

 彼女の冷えた肌と震えていた肩。強引に触れた唇の感触。そして、あの怯えた瞳と、涙。

(……最悪だな、俺……)

 自嘲の笑みが漏れる。深く息を吐いて天井を仰いでも、罪悪感と自己嫌悪は少しも軽くならない。
 声をかける? 謝る? そんな資格が、今の俺にあるのか? どの面下げて、彼女の前に立てばいい?

 きっと、彼女は俺のことなんて、もう見たくもないだろう。軽蔑しているに違いない。そう思うと、ますます声をかける勇気なんて湧いてこなかった。

 避けているのは、本当は俺の方なのかもしれない。彼女の瞳に映るであろう、俺への拒絶を見るのが怖くて。

「おい、クソ川」

 部活中、サーブ練習に没頭していると、背後から岩ちゃんの低い声がかかった。ボールを拾うふりをして、無視を決め込む。

「……聞こえてんだろ、ボケ」
「……なぁに、岩ちゃん。俺いま集中してんだけどー?」

 わざとらしく笑顔を貼り付けて振り返る。岩ちゃんは、心底呆れたという顔で俺を見ていた。
 あのロッカールームでナマエを泣かせた日から、三日が経っていた。相変わらず俺は彼女に話しかけられてないし、目も合わせることすら出来てない。

「その顔色でよく言うぜ。お前、ここんとこずっとおかしいだろうが」
「えー? 別に普通ですけど?」
「どこがだ。飯もまともに食わねぇし、夜も寝れてないみてぇだって、お前の母ちゃんから聞いたぞ」
「……へえ、俺って愛されてるね」

 茶化すように言うと、岩ちゃんの眉間の皺がさらに深くなった。

「……ミョウジとのことだろ」

 核心を突かれ、心臓が嫌な音を立てる。動揺を悟られまいと、無理やり口角を上げた。

「は? 何の話?」
「とぼけんじゃねぇよ。お前が何やらかしたか知らねぇが、アイツを避けてんのは見りゃ分かる。そんなんで解決すんのか?」
「……別に、避けてなんかねーし。それに、俺がどうしようと、岩ちゃんには関係ないでしょ」
「……及川」

 突き放すように言うと、岩ちゃんは深いため息をついた。なんだか、俺が駄々をこねてる子供みたいな扱いをされてる気がして不服だ。だけど今日は言い返す気力なんて無かった。

「関係なくはねぇだろ、チームメイトだろうが。それに、ミョウジも…」
「大きなお世話だって」

 少し声を張って、岩ちゃんの口から出てくるナマエの名前を掻き消した。ボールを手に取り、再びサーブの体勢に入る。もう話は終わりだ、と態度で示す。
 岩ちゃんは、しばらく黙って俺を見ていたが、やがて大きなため息を吐くと、諦めたように踵を返した。

(……うるさい)

 分かってる。岩ちゃんの言うことなんて、百も承知だ。それでも、動けない。動くのが、怖い。俺が近付いたら、また彼女を泣かせてしまうのでは、と。
 ただ、ボールを打ち込むことしか、今の俺にはできなかった。



「ねえ、最近さ」

 昼休みの教室。机を合わせた向かいの席に座った友達が、お弁当に入っていた唐揚げを箸でつまみながら、私の顔を覗き込んだ。

「……なに?」
「及川、なんか静かじゃない?」

 どきり、とした。友人の声には、少し探るような色が滲んでいた。気になっていたけど、黙って様子を見ていたという感じだろうか。心臓の音が少しだけ大きくなるのを感じながら、平静を装う。
 及川は、先ほどバレー部に所属しているクラスメイトと教室を出て行ったので、同じ空間にはいない。

「……そう?」
「いや、絶対そうだよ。いつも騒いだしなのにさ、最近ずっと変じゃない? なんか……こう、どんよりしてるっていうか」
「……さあ。知らない」

 興味のないふりをして、お弁当の卵焼きを口に運ぶ。お母さんが作ってくれた、私の大好きなおかずの一つ。なのに今は、どれだけ咀嚼しても、味がよく分からない。

「知らないって……。あんた本当、最近及川のこと避けてるよね」
「っ!」

 思わず動きが止まる。友達は「あ、図星?」と悪戯っぽく笑った。

「……別に、避けてなんかないよ」
「ふーん? でもさ、なんか逆な気もするんだよね」
「…なにが」
「避けてるの、あんたじゃなくて、及川のほうなんじゃないかって話」
「……は?」

 思わず顔を上げると、友達は少し真剣な顔つきになって続けた。

「だってさ、及川って普段、ナマエ見つけるとウザいくらい絡んでくるじゃん? なのに最近、目も合わせようとしてなくない?」
「……」

 言われてみれば、そうかもしれない。
 教室に入ってくるとき、彼がふいと目を逸らしたような気がした。席の近くを通る時も、以前ならわざわざこちらを見てきたのに、今はそんな素振りもない。
 私は、彼を避けているつもりだった。怖くて、顔を見られなくて。でも──。

(……及川が、私を避けてる?)

 もしそうだとしたら、それは、どうしてなのだろう。彼が私にしたことを考えれば、避けるのは私のほうなのに。

(……まるで、「俺に関わるな」って言われてるみたい……)

 そう思った瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。

「なんかあったんでしょ?」

 友達の問いかけに、私は曖昧に首を振ることしかできなかった。

 及川と目を合わせたくなかった。声を聞きたくなかった。だけど、それでも。視界の隅で彼の姿を探してしまう自分がいた。手首を握り締められたときの感触が、まだ消えない。
 怖かった。あんな風に言葉も、抵抗も、全部、力で押さえつけられて。まるで、自分がとても脆くて、簡単に壊れてしまうものみたいで──ただただ、怖かった。

 でもそれ以上に、あの時の及川の顔が忘れられない。
 誰よりも周りを見て、いつも笑っていて、人の中心にいるような人。その彼が、あの時だけは違った。抑えきれない感情を、そのまま私にぶつけてきた。苦しそうで、絶望したような顔だった。
 あんなにも心を揺らしていた彼のことを、分かっているつもりで、何も分かっていなかったのかもしれない。

 そう思った途端、胸の奥がジンと痛んだ。

 放課後になっても、昼休みに友人からかけられた言葉が頭から離れなかった。重い気持ちを引きずったまま教室を出ると、廊下の角で不意に呼び止められる。

「……ミョウジ」

 振り向くと、そこにいたのは岩泉だった。今から部活に行くところだろうか、及川と同じバレー部のチームジャージを身に纏っていた。彼とは、及川といる時に軽く話をする程度で、こうやって私が一人の時に声をかけられたのは初めてだった。何か言いたげな、真剣な目をしている。

「……なに、岩泉」
「ちょっといいか」

 有無を言わさぬ雰囲気に、私は黙って頷いた。及川のことだということは、口に出されなくても分かっていた。肩にかけた通学用の鞄を両手で握り締める。
 人気のない階段の踊り場まで連れて行かれた。授業も終わり、生徒の姿はもう少ない。階段の窓から差し込む西日が、ぼんやりと床に影を落としていた。

 壁に寄りかかった岩泉が、腕を組んで探るような目で見つめてくる。

「……単刀直入に聞くが、及川と何があった?」

 岩泉らしい、ストレートな問いかけ。私はグッと言葉に詰まる。あの日のことを、どう説明すればいいのか。

「……別に、何も」
「嘘つけ。お前らに何かあったってのは、見りゃ分かる」

 岩泉の目は、誤魔化しを許さない色をしていた。

「……アイツ、マジで落ち込んでるぞ」
「…試合で負けたから、でしょ」

 少し、棘のある言い方になってしまったかもしれない。でも、そうでも言わないと、平静を保てそうになかった。

「いや、今回は違う」

 岩泉は、私の言葉をきっぱりと否定した。

「もちろん負けたのはショックだっただろう。俺だってそうだ。でも、アイツのはそれだけじゃねぇよ」
「……」
「アイツ、最近ずっと調子悪かったんだよ。自分のプレーが思うようにいかなくて焦ってて、それでもセッターとしてチームを勝たせなきゃって必死で……その上で、負けた」

 ──“負けた”。
 その言葉の重みが、ずしりと胸に響く。

「負けて落ち込んでるだけなら、まだマシだ。でも今回は、いつも以上に様子がおかしい。飯もまともに食わねぇし、夜も眠れてねぇらしい。そのうちぶっ倒れるんじゃねぇかと思うくらいだ」

 言葉が出なかった。傷つけられたのは、私なのに。それなのに、及川の方が、私よりずっと傷ついてるような言い振りだ。
 ロッカールームでの彼の表情を、また思い出してしまった。

「…及川、そんな顔してた……?」
「してる。少なくとも、俺が知ってる中で一番ひでぇ顔だ」

 岩泉の言葉が、重くのしかかる。そんなに、ひどい顔をしているのだろうか。体が資本である及川にとって、その状況が良くないことであると、岩泉も危惧したのだろう。
 だけど、ひとつの疑問が浮かび、思わず口に出す。

「……岩泉は…なんで、そんなこと、私に言うの?」
「…さあな」

 彼は短く息をついた。

「ただ、見てらんねぇだけだ。アイツも、お前も。痛々しくてな」

 その言葉が、胸に刺さった。

「……でも、怖かったの」

 思わずこぼれた声は、小さく掠れていた。

「試合に負けた直後だったから、気が立ってたのかもしれないけど……でも、目も声も…すごく怖くて。何をされて、何を言われたのか、ちゃんと覚えてないくらい……頭が真っ白になって」

 岩泉は黙っていた。でも、その沈黙は責めるものじゃなかった。ただ、ちゃんと私の言葉を受け止めようとしてくれている静けさだった。

「……そっか」

 岩泉は少しだけ目を伏せ、ため息を吐いた。

「……悪かったな。試合後のアイツのフォローが出来てなくて」
「岩泉のせいじゃない。でも…私、どうしていいかわかんなくて」
「……だよな。及川がやったことは最低だ。…でもな」

 再び顔を上げた岩泉の目は、さっきよりも優しかった。

「アイツ、お前のことをものすごく大事にしてる。……それだけは、間違いない」
「……」
「だからこそ、自分が壊したって、目を背けて逃げてんだと思う。お前との関係も、お前の心も。自分のせいで、全部駄目にしたって」
「……」
「自分を信じられなくなった奴が、立ち直るのは簡単じゃねぇ。お前も、ひどいことされて、関わりたくないって思ってるかもしれねぇけど……でも、もし、お前が何かを伝えてくれるなら…」

 そこで岩泉は一拍置いた。

「──きっと、アイツ、救われると思う」

 私の心を気遣いつつも、迷いのない、静かな口調だった。
 私の中の岩泉は、他人に対して少し不器用で、特に及川が相手となると、優しさを素直に出せない人だという印象だった。だからこそ、そんな岩泉の言葉が心にストンと落ちてきた。誰よりも、義理堅く、情に厚い人。

「……」
「お前がもう何も感じてないなら、それでもいい。だけど、今のお前の目を見てると……そうは思えねぇんだよ」

 岩泉の真っ直ぐな視線が、心の奥を突いてくる。
 きっと、全部見透かされてるのだろう。あんなことがあったのに。傷つけられたのに。それでも、完全には嫌いになれない私がいることを。
 気付きたくなかった気持ちを、彼の言葉が、優しくこじ開けてくるようだった。

「……」

 胸の奥で張り詰めていた糸が、少しずつ解けていく感覚だった。

(そうか、私はまだ、及川との関係を、このまま終わらせたくなかったんだ)

 涙が滲みそうになるのを、ぐっと堪える。

 ──及川を、避けている場合じゃない。
 ようやく、そう思えた。私が彼と向き合わなければ、彼はきっと、このまま壊れてしまう。そして、私も。
 私は岩泉に向き直った。

「……ありがとう、教えてくれて」

 彼は気持ちを固めた様子の私に、驚いたように僅かに目を瞠ったが、すぐに安心したように目を細めて、「おう」と短く頷いた。

すれ違う心



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