秋の終わりの夜の空気は、冬を迎える準備をしているように冷たく、私の頬を容赦なく刺してきた、体育館の出口横の影に身を潜め、私はじっと待っていた。
 中ではボールの弾む音が響いていて、それが止むのを合図のように聞いていた。

 やがて、ギィと、重たい音を立てて扉が開く。すると、体育館出口の無機質な灯りの下に、及川が一人、汗を滲ませた姿で現れた。
 顔を伏せたまま、ゆっくりと足を踏み出す。その背中は、ひどく疲れていて、それでも誰にも頼らないと決め込んでいるように見えた。

 その姿を見てからも、すぐには声をかけられなかった。心臓がどくどくとうるさくて、息を吸うのにも勇気が要った。けれど、逃げたくなかった。ここで逃げたら、もう戻れない気がしていたから。

「……及川」

 意を決して呼びかけた声に、彼の肩がぴくりと動いてこちらを振り返る。けれどその目が私を捉えたのは、ほんの一瞬だけだった。
 すぐに気まずそうに視線を逸らされる。まるで、私という存在を認識したくないかのように。そのあからさまな拒絶の態度に、胸がちくりと痛んだ。

「……なに」

 低く、硬く、分厚い壁を作るような声だった。予想していた反応。でも、ここで引き下がるわけにはいかない。

 岩泉の言葉が、私の背中をそっと押ししてくれていた。

「話を、しにきたの」

 努めて冷静に、そう告げる。彼は何も言わず、立ち尽くしたまま動かない。その横顔は、ひどく疲れて見えた。

「聞きたいことがあるの。あの時、及川が何にそんなに苦しんでたのか、教えてほしい」

 責めるつもりはなかった。ただ、知りたかった。彼をあそこまで追い詰めたものは何だったのか。
 私の問いかけに、及川はぎゅっと唇を結んだ。

「……話したって、どうにもならないだろ」

 ぼそりと呟かれた言葉は、拒絶というより、深い諦めに近い響きだった。

「……教えてほしいの」

 俯いたまま、震える指先をぎゅっと握る。

「何が、そんなに苦しかったのか。あの時、何をひとりで抱えてたのか……私、ちゃんと知らなかったから」

 食い下がる私に、及川は困ったように眉を寄せ、深く、重い息をついた。そして、まるで錆び付いた重い扉をゆっくりと開けるかのように、ぽつり、ぽつりと、その胸の内を話し始める。
 自分のプレーへの拭いきれない不満、先輩たちの最後の大会だという焦り、次期主将としての計り知れない重圧、チームを絶対に勝たせなければならないというプレッシャー、そして、そのすべてが砕け散った、どうしようもない敗北感。

 彼の言葉を一つ一つ聞きながら、胸が締め付けられるようだった。
 彼がそんなにも藻掻き苦しんでいたなんて、私は全く気づけていなかった。彼のバレーを応援しているつもりで、何も分かっていなかった自分が情けなくて、涙が出そうになるのを必死で堪えた。

「……でも、及川はすごく頑張ってたじゃない」

 ひとしきり話し終えた彼に、私は思わずそう言っていた。声が、少し震えていたかもしれない。

「及川がどれだけ努力してたか、必死だったか、部外者の私にだって伝わってたよ。そんなに、自分を責めなくてもいいんじゃないの?」

 私の言葉に、彼は虚ろな目でこちらを一瞥し、そして力なく笑った。

「努力、ね」

 その言葉には、痛々しいほどの自嘲の色が滲んでいた。

「負けたんだから、そんなの結局、何の意味もなかったけどな」
「っ、そんなことない!」

 思わず否定の言葉を口にする。普段、声を荒げることがないため、自分でも驚くほど強い声が出た。及川が、少しだけ目を見開く。

「……そんなふうに言わないで」

 必死に言葉を探しながら、私は彼を見つめた。

「全部は分からない。私が見てたのは、ほんの一部だけかもしれない。でも、それでも……」

 胸の奥にずっと溜め込んでいたものが、堰を切ったように溢れ出す。こんなことを言えば、私がいつも彼のことを目で追っていたと白状するようなものだ。普段なら絶対に知られたくない。それでも、今、伝えなければならないと、心が叫んでいた。

「及川の努力が意味のないものだったなんて、絶対に思えない…。思いたくない」

 体育館で見た、彼の孤独な練習風景。教室で見た、バレー雑誌を読む真剣な横顔。放課後の校門で語ってくれた、バレーへの熱い想い。その一つ一つが、鮮明に脳裏をよぎる。
 今度は及川が息を詰まらせる番だった。彼は私を見て、それから苦しげに目を細め、逃げるように視線を彷徨わせた。

「……お前、ほんとにバカだよ」
「……なんで」
「怖かったくせに。俺のこと、あんなに真っ青な顔して見てたくせに」
「……」
「なんで、俺にまだ話しかけてきて…おかしいだろ」
「そうだよ。おかしいよ」

 グッと拳を握る。今でも思い出す。あの日の及川の冷え切った視線や乱暴な手。怖くなかったわけがない。でも、それと同じくらい、分かり合えないまま離れてしまう未来が怖かったのだ。

「怖かったよ。あんなことされて。…でも、それでも」

 言葉を切って、真っ直ぐに彼の目を見つめ返す。

「許せないけど、ちゃんと話をできないままも怖かったの」
「……」
「…ねえ、試合に勝てなかったからって……それで、及川の価値がなくなるわけじゃないよ」

 少し声が震える。けれど、伝えなければと、伝えたいと思ったのだ。孤独に、ひとりで背負いこんでプレッシャーと重圧に押し潰されそうな彼の背中が、少しでも軽くなるように。

「勝ち負けでしか、自分をはかれないの? そんなの…悲しいよ」

 問い詰めるつもりじゃなかった。でも、言葉にしないと駄目だと必死だった。

「……自分を責めるのは、仕方ないのかもしれない。でも、私にぶつけるより、もっとチームで、ちゃんと話し合うべきだったんじゃないの?」
「……はは。ほんと、ずるいねナマエ」

 及川が、息を漏らすように笑った。それは、ひどく弱々しい笑みだった。

「……え?」
「そんなこと言われたら……余計に、自分が惨めになるじゃん」

 そう呟いた彼の顔には、深い後悔の色が浮かんでいる。

「……俺は、ナマエにだけは見られたくなかったんだ。あんな情けない姿」
「……」
「負けて、何もできなくて、焦って……そんな時に、ナマエだけが、何も変わらずそこにいるのが、たまらなく羨ましくて、腹が立って……それで……」

 彼の瞳が、痛々しく揺れていた。いつも自信に満ちている彼が隠していた、弱い部分。
 それを、一番見られたくなかったという私に、一番醜い形でさらけ出してしまった。その事実に、彼自身が深く、深く傷ついているのだと分かった。

「…だからって、私にあんなことしていい理由には、絶対にならないよ」

 私の静かな、でもきっぱりとした声に、彼はこくりと頷く。
 私の言葉を、彼は否定しない。それが、彼が自分の過ちから目を逸らしていない証拠のように思えた。

「……分かってる。言い訳なんて、出来ない。絶対にしちゃいけないことをしたって、思ってる。……後悔すればするほど、怖くて、お前の顔が見れなくなった」
「……」
「お前が俺を嫌いになって、軽蔑するのは、覚悟してた。でも……お前が、俺のせいで泣いたのを思い出すのが……それが、一番きつかった。近付いたら、また泣かせるんじゃないかと思ったら、目を合わすことも出来なかった」

 その言葉に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。あの日以降の彼の態度。その裏にあったのは、私を傷つけたことへの、痛いほどの罪悪感だったのだ。
 だからこそ、ここで区切りをつけなければいけないと思った。

「…じゃあ」

 私は意を決して、一呼吸置いて続ける。ひどいことを言うのかもしれない。だけど、曖昧で、ぼんやりしたままの終わり方だと、お互いにきっと納得ができなかったから。

「ちゃんと、謝ってよ」

 私の言葉に、彼ははっとしたように顔を上げた。そして、迷うように視線を一度床に落とし、それから、真っ直ぐに私を見つめ、深く、深く頭を下げた。

「……本当に、ごめん」

 掠れた、けれど、心の底からの謝罪だと分かる声。私たち以外誰もいない空間に、その声が静かに響いた。その声を聞いて、私の心の中でずっと張り詰めていた何かが、ふっと音を立てて緩むのを感じた。

 許せるか、と聞かれたら、まだ分からない。
 壁に押しつけられた時の恐怖も、強引に奪われた唇の感触も、まだ生々しく体に残っている。簡単に「もう大丈夫だよ」なんて言えるはずがない。

(でも……)

 目の前で、深く頭を下げ、苦しそうに顔を歪めている彼を見ていると、胸の奥が痛んだ。彼の後悔も、苦しみも、全部本物だと分かってしまったから。私が彼の努力を知っているように、彼のこの痛みも、嘘じゃないのだと、知ってしまった。
 許せない気持ちと、それでも彼を完全に突き放せない気持ちが、ぐちゃぐちゃになって、涙が溢れそうになる。

「……多分、すぐには許せない」

 迷った末に、絞り出したのはそんな正直な言葉だった。
 小さく言うと、及川はゆっくりと顔を上げた。彼の目に、ほんの少しだけ、弱々しくも、救いを求めるような光があった。

「でも……」

 私は続ける。

「及川が、ちゃんと前を向こうとしてるなら…私は、見てるから。……逃げないで、ちゃんと、及川のバレーを見続けるから」

 その言葉が、少しでも彼に届くことを願って、私は真っ直ぐに彼の瞳を見つめ返した。今はまだ、「友達」とか「恋人」とか、そういう枠にはめられない、複雑な関係の私たち。
 それでも、彼という人間から、目を逸らしたくはないと思った。絶望の中にいる彼に、まだ見ている人間がいるのだと、伝わればいいと思ったのだ。

「だから…及川も、逃げないで」

 バレーからも。私からも。そんな気持ちも込めて見つめる。
 しばらくの沈黙の後、及川がふっと息を吐く。

「……ほんと、お前ってさ」
「……?」
「そうやって、最後には俺を…引き戻すんだな」

 かすかに笑って、及川は目を伏せた。その横顔は、どこか寂しげで、でも、ほんの少しだけ、自分を取り戻し始めたように見えた。

「……じゃあ、いつもの及川に戻ってよ」

 ぽつりとこぼした私の言葉に、及川が目を丸くする。

「いつもの?」
「うん。誰よりも一生懸命、誰よりもがむしゃらに、必死にバレーをやってる。それが、いつもの及川でしょ」
「……」

 私の言葉に、及川がゆっくりと息を吐き、目を伏せたまま、小さく笑った。その笑みは、まだ弱々しかったけれど、さっきまでの疲労や後悔の色は薄れているように感じる。
 すると、ゆっくり顔を上げた及川が、ジッとこちらを見つめた。その瞳の中に、先程とは別の意味が含まれているがして、胸が締め付けられた。

「…やっぱり、俺、ナマエのこと好き」
「………………は?」

 突然の言葉に、瞬きを繰り返す。静かな空気が一変するような、あまりにも唐突な告白。さっきまで、自分の過ちを悔いて、涙ぐみそうにすらなっていた彼の口から、あまりにも不釣り合いな言葉が飛び出してきた。
 文脈が、頭の中で全く繋がらない。何が起きているのか、脳が理解を拒否している。
 あの雨の日にも同じように伝えられた言葉だけど、あの時とは想いの深さが違うということが、口にされなくても分かった。

「な、なに、なんで、今…からかってるの?」
「違うよ」

 及川の声は低く、固かった。冗談を言っている響きは微塵もない。
 思わず息を呑む。

「今の俺が、もう一度言いたかっただけ」
「……」

 彼の真剣な眼差しに見つめられ、言葉が出ない。心臓の鼓動が、やけに大きく、そして速く聞こえた。

「今さら、こんな状況で……ずるいよな、俺」

 ふっと自嘲するように笑う彼の目が、苦しみを抱えたまま、それでもまっすぐで──視線を逸らすことができなかった。

「……バカじゃないの、こんなタイミングで」

 小さく呟いた私の言葉は、夜の冷たい空気に吸い込まれていくようだった。
 及川は、その一言に満足したかのように柔らかく笑った。

「うん、俺もそう思う。もう、バカでいいや」

 肩をすくめて、いつもの調子を取り戻そうとするかのように、軽く言い放つ。その言葉は、少し強がりにも聞こえた。

 本当はまだ、何もかもに納得できていないのかもしれない。試合のことも、自分の未熟さも、私とのことだって。
 それでも彼は、前を向こうとしている。それが、やっぱり及川らしいと思った。

「……帰る?」

 夜も更けてきた。そう切り出すと、及川は少しだけ迷うように視線を彷徨わせ、それからふっと悪戯っぽく笑った。

「送ってくれる?」
「いやいや、なんで私が送らなきゃいけないの」
「いや、なんか……このまま一人で帰るのも、ちょっと寂しいっていうか? ダメ?」

 本気で甘えるような言葉に、一瞬驚く。不安げな、小さい子どものようだ。少し考えて、私はくるりと彼に背を向け、校門の方へと無言で歩き出した。

「……ついてくれば?」

 振り返らずにそう告げると、背後で慌てたような足音が二、三歩、こちらに近づいてくる。

「あ、ちょっと待って!」

 呼び止められて、仕方なく足を止める。振り返ると、彼は少し焦ったような、でも私が立ち止まったことに心底安堵したような顔をしていた。

「部室に荷物、置いてきてるんだよね。すぐ取ってきて、体育館の鍵返してくるから、そこで待ってて!」

 そう言うなり、急いで部室棟の方へ駆けていった。その慌てた後ろ姿は、さっきまで体育館にいた孤独な影とはもう違って見えた。

(……良かった)

 そっと息を吐きながら、肩にかけた通学バックの持ち手を握り締める。少し、手が震えていた。

 拒絶されたら、という恐怖があった。だけど、いま伝えなければ、及川が壊れてしまうかもしれない、というほうがずっと怖かった。
 私の気持ちを伝えることが出来た。及川の気持ちを知ることが出来た。好きだと言われたことは、今は自分の気持ちが分からなくて返事は出来ないけど──。

 二度目の告白。彼の言葉に、ちゃんと私が向き合わなければいけない時が、来ているのだろうか。

 やがて、肩にエナメルバッグをかけた及川が、少し息を切らしながら戻ってくる。

「お待たせ。なんか、こんな暗い時間に二人きりってドキドキするね」
「…いやいや、誰のせいでこんな時間になってると思ってるの」

 呆れたように言いながらも、隣に並んだ彼と一緒に、ゆっくりと夜道を歩き出す。夜風が少し冷たい。肩が触れ合いそうになる距離。
 何も言わないまま、しばらく歩いた。気まずいような、でも、さっきまでの張り詰めた空気とは違う、少しだけ穏やかな沈黙が下りる。
 そして、ふと、及川がぽつりと呟いた。

「今日、話してくれて、ありがとう。……俺、ナマエちゃんが来てくれなかったら、多分、ずっとダメなままだった」

 真剣な声だった。その瞳の奥に浮かぶ後悔と、私へのまっすぐな感謝が、まるで胸の奥を撫でるように響く。
 私はしばらく黙って、その顔を見つめた。いつも自信満々な顔をしている及川。けれど今の彼は、私の前でだけ、本当の顔を見せている気がして──そんな姿を見ているうちに、どうしてだろう、胸の奥が少し痛くなった。

「……別に」

 素直じゃない返事しかできない自分がもどかしい。もっと気の利いたことを言える性格なら良かったのに。

「……でも」

 私は少し間を置いてから、静かに続けた。吐いた息が白くほどけて、夜の冷たい空気に溶けていく。

「私、及川がどんな姿を見せても、放っておけないんだと思う」

 自分でも無意識に口をついて出たその言葉にハッとなる。そして、及川が隣で立ち止まる気配がした。
 私も足を止め、彼の方を振り返る。街灯の光の中で、彼の表情が戸惑いに揺れているのが見えた。

「…ナマエ」
「……なに」

 及川の声は、どこか慎重に私の真意を探っているようで、でも隠しきれない期待が滲んでいた。だけど、きっと、それ以上は踏み込んでこない。いつもなら「じゃあ俺のこと好きってこと?」とか冗談めかして聞いてくるような場面だけど、いまの彼は──まるで、私の及川への気持ちの戸惑いや迷いに気付いていて、それも含めて飲み込もうとしているみたいだった。

「……ううん、なんでもない」

 予想通り、彼はそれ以上、何も言わなかった。

 本当は、もっと聞きたかったはずなのに。私の口から、はっきりとした言葉が欲しかったはずなのに。
 それでも彼は、私の気持ちを無理にこじ開けようとはしなかった。

 自分のためじゃなく、きっと、私のために。その優しさが、今は少しだけ、苦しかった。

 別れ道に差し掛かり、「じゃあ、また明日」と言って、彼が私の返事を待たずに背を向けた。まるで、これ以上ここにいると、私を困らせてしまうと分かっているかのように。

 あっさりと遠ざかっていく背中を見送りながら、私はその場に立ち尽くす。

(放っておけない、ってなに?)

 自分で言った言葉なのに、その意味が分からなかった。

 あんなに酷いことをされて、怖かったはずなのに。彼の弱さも、ずるさも、全部見てしまったのに。それでも、彼のそばから離れようとしない自分。
 これは、同情? それとも、ただの意地?

(もしかして、私──)

 そこまで考えて、思考がぷつりと途切れる。

 分からない。自分の気持ちが、ぐちゃぐちゃで、何も分からない。及川からの告白に、どう答えるべきなのか。答えなんて、あるのか。

 確かなのは、彼と向き合ったことで、私たちの間には前よりもっと複雑で、名前のつけられない感情が生まれてしまったということだけだった。

名前の無い感情



メランコリー