及川に気持ちを伝えて、及川の弱さを垣間見た夜の次の日。重い足取りで教室の扉を開けると、自分の席に着くより先に、明るくてよく通る柔らかい声が鼓膜を揺らした。
「やっほー、ナマエちゃん。おはよ」
心臓が、大きく跳ねる。
声のした方へ恐る恐る顔を向けると、そこには自分の席の近くで友達と話していたらしい及川が、いつもと変わらない笑顔でこちらに手を振っていた。彼の横には、隣のクラスから遊びに来ていたらしい岩泉もいる。
「……お、はよ」
なんとか絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。
昨日の夜、私に「好きだ」と告げた彼。あの真剣な眼差しが、痛いほどの熱を持って鮮明に脳裏に蘇る。
彼は今、何事もなかったかのように笑っている。そのいつも通りの態度が、私の心を余計に掻き乱した。
ちらり、と隣の岩泉を見ると、彼は私と及川を交互に見て、そして、ふっと肩の力を抜いたように、わずかに安堵の表情を浮かべた。
きっと、心配してくれていたのだろう。表向きはいつもと変わらない様子の私たちに、彼はひとまず安心したのかもしれない。
(どうしよう……)
これから、どんな顔をして及川と話をすればいいんだろう。昨日の告白は、あの時の勢いで言ってしまっただけで、彼の中ではもう終わったことになっているんだろうか。
ぐるぐると巡る思考に、私はただ、固まることしかできなかった。
私の戸惑いをよそに、及川は話を続ける。
「ていうか、今日の英語の小テストの範囲、ちゃんと覚えてる? 俺、昨日全然勉強してないんだけど」
「…え、あ…うん、たぶん大丈夫」
「ほんと? あとでノート見せてくれない?」
悪戯っぽく笑いかける顔は、本当に、いつもの及川だった。その“いつも通り”が、私にはかえって壁のように感じられた。
表面上は、今までと変わらない私たちだったけど、私の中では明確に変わってしまったことがある。及川に声をかけられるたび、あの告白を思い出して、緊張で上手く笑えなくなってしまったのだ。
そして及川も、ほんの僅かな変化だけど、以前よりも私に対して若干距離を測っているような様子が見られた。
おそらく、自分の行動で私の心に傷を負わせたと思っていてるので、怖がらせないための予防線を張っているのだろう。
その気遣いが、寂しく感じてしまうのも事実で。
前みたいに、何も考えずに笑いかけてくれたり冗談を言ってくれることに素直に喜べる出来る日は来るのだろうか。そんなことを思って、胸を痛める日々が続いた。
△
放課後、日直だった私は日誌の記入をするため、少しだけ教室に残っていた。
窓の外では、木々の葉がすっかり落ちて寒々しい枝を広げている。いつのまにか、吐く息が白くなる季節が近づいている。
担任が体育教官室にいるということで、体育館の近くを通りかかった。そこから漏れ聞こえてきた快活な声に、思わず足を止めてしまう。
体育館の入り口で、部活の休憩中らしい及川が、数人の後輩女子たちに囲まれていた。その輪の中心で、彼は楽しそうに笑っている。胸の奥が、小さくざわめいた。
「及川先輩って、いま彼女さんとかいるんですかー?」
輪の中の一人が、積極的な質問を投げかける。私の心臓が、嫌な予感を覚えてぎゅっと縮こまった。聞き耳を立てている自分がいやらしいと思うのに、その場を離れることができない。
「んー? いないけど?」
一拍、妙な間があったような気がした。
でも彼はすぐに、いつも通りの笑顔でそう言ってのけた。
「でも俺、めちゃくちゃモテるからねー」
──いない、けど。
その、軽い響きとは裏腹な言葉の重みが、私の心臓を鷲掴みにした。
頭が、真っ白になる。
なんで? なんで、こんなに胸が痛いの?
ズキズキと、無視できない痛みが心臓のあたりを支配していく。
彼が誰と話そうと、誰に好かれようと、私には関係ないはずなのに。どうして、彼の「彼女」という特別な枠に自分がいないという事実を突きつけられただけで、こんなにもショックなんだろう。
(……まさか……)
この痛みは。この苦しさは。彼が他の女の子と楽しそうにしているだけで、胸がざわついて、息が詰まりそうになるのは。
そこで、私は、気づいてしまったのだ。
ずっと蓋をして、怖いからと見ないふりをしていた、自分の本当の気持ちに。
(……私…及川のこと……好き、なんだ……)
自覚した瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。焦りと不安で、視界の輪郭がぼやけていくようだった。
あの夜、彼は私に「好きだ」と言ってくれた。
私が今、彼のところへ行って、「私も好き」と、ただ返事をすれば、それで全てが解決するのかもしれない。
だけど、ぐるぐると、黒い思考が頭の中を巡る。
(あの時の言葉…もしかしたら、弱っていただけの、ただの気まぐれだったら? あの後、私がすぐに答えなかったから、及川の気持ちはもう、変わってしまったとしたら?)
そんな人じゃないって、わかってる。信じたい。だけど、一度芽生えた不安の波は、いとも簡単にそれをかき消してしまう。
結局、私は、怖いのだ。
拒絶されてしまうこと。彼の“特別”になれないと知ること。
その恐れに、今にも心が押し潰されそうになっている──。
それに、及川は学校中の人気者で、彼の隣に立ちたい女の子なんて山ほどいる。その中には、及川が惹かれるような、及川にとってのバレーのような、確固たるものを持っている魅力的な女の子もいるかもしれない。
きっと私なんて、代わりはいくらでもいるんじゃないか。そんな不安が、じわじわと広がっていった。
私は、その場に立ち尽くすこともできず、込み上げてくる感情から逃げるように踵を返した。彼の声も、後輩たちの楽しそうな笑い声も、もう何も聞こえないふりをして、駆け出した。
△
自分の気持ちをはっきりと自覚してしまってから、彼とどう接すればいいのか、以前よりさらに分からなくなった。
「好き」だと分かった途端、彼の全てが今までよりもずっと大きく見えて、些細な仕草ひとつにも過剰に反応してしまう。まともに顔も見られない。
教室で彼が話しかけてきても、心臓がうるさくて、声が上ずる。
冗談を言われても、前みたいに上手く返せない。明らかに挙動不審な私を、彼は不思議そうな顔で見ている。その視線がまた、苦しかった。
(……きっと、おかしいって思われてる、よね…)
この気持ちを知られたら、受け止めてくれるのだろうか、それとも、「今さら?」と、笑われるのだろうか。
そう思うと怖くて、私はますます彼を避けるようになった。彼から向けられる何気ない視線すら、意識して逸らしてしまう。自分から、透明な分厚い壁を作ってしまった。
「……ナマエちゃんさ、最近なんか冷たくない?」
ある日の休み時間、少しだけ寂しそうな、探るような顔でそう言われた時も、私は「別に。いつも通りだよ」と、心にもないそっけない言葉を返してしまった。
──本当は、そんなつもりじゃないのに。
心の中で悪態をつく。もっと話したい。隣にいたい。
でも、期待して、傷つくのが怖かった。彼にとって、私はもう"特別"じゃないのかもしれないという疑念が、冬の寒さみたいに、じわじわと心を蝕んでいた。
そんなある日の放課後。教室で一人、帰りの準備をしていると、後ろから声をかけられた。
「あの、ミョウジ先輩! ちょっと、今いいですか?」
振り返ると、そこに立っていたのは、先日体育館で及川を囲んでいた、ショートカットの後輩女子だった。少し緊張した面持ちで、私を真っ直ぐに見上げている。
「……なに?」
できるだけ感情を乗せずに、短く答える。心臓が、嫌な音を立てた。
「あ、あの…突然すみません! えっと、及川先輩のことなんですけど……」
やっぱり。彼女の口からその名前が出た瞬間、覚悟を決めるしかなかった。
「先輩って、及川先輩と、仲良いですよね?」
「……別に、普通だと思うけど」
「あ、あのっ、それで……その、もしかして、なんですけど……先輩も、及川先輩のこと、好き、だったりします……か?」
真っ直ぐな瞳。少しだけ不安そうな問いかけ。彼女なりに、勇気を出して探りを入れているのだろう。
ここで「うん、好きだよ」なんて言えるはずもない。告白の返事すらできずに逃げている私に、そんな資格はない。
「……別に。ただのクラスメイト」
できるだけ冷たく、平坦に聞こえるように、そう答えた。自分の声が、まるで他人のもののように聞こえる。
「あ…! そ、そうなんですね! よかった……!」
彼女は、あからさまにほっとしたように表情を緩めた。その無邪気な安堵の表情が、私の胸をナイフのように抉る。
「あの、それで、もう一つだけ…!」
彼女は少しだけ身を乗り出すようにして、期待の色を瞳に浮かべて続ける。
「及川先輩、この前『彼女いない』って言ってたんですけど、それって本当ですよね…? 先輩なら、何かご存知かなって思って……」
その後輩の純粋な、そして、今の私にはあまりにも残酷な問いかけが、深く、深く胸に突き刺さる。
『好きだ』と、あんなに真剣な顔で伝えてくれた彼が、他の女の子に、あっさりと『彼女はいない』と答えている。
その事実が、まるで、私たちの間に確かにあったはずの特別な時間──あの雨の日の、不意打ちのキスも。体育大会での、独占欲を滲ませたあの囁きも。修学旅行で繋いだ手の温もりも。そして何より、あの体育館の前での、彼の告白の言葉も──彼の中ではもう遠い記憶なのかもしれない。そう思えてしまった。
私が、まだちゃんと答えていないから? 本当に、それだけ?
それとも、もう、他の女の子からの告白を待っている段階なのだろうか。私がいつまでも返事をしないから、呆れられてしまって。
(……もしかして、及川はもう、こんな私じゃなくて、この子みたいに真っ直ぐな子の方がいいの……?)
ぐるぐると、暗い考えが渦を巻く。
付き合ってもいない。返事もしていない。
それなのに、この子に向けた嫉妬が、どうしようもなく胸を占めていく。
そんな自分が、嫌でたまらなかった。
「……さあ? 本人に、直接聞いてみればいいんじゃない?」
感情を押し殺し、冷たく突き放すように言うのが精一杯だった。これ以上、彼のことで心をかき乱されたくない。それが、今の私にできる、唯一の防御だった。
「あ、あの、先輩……!」
後ろで私を呼ぶ彼女の声が聞こえたけれど、振り返らずに教室を出た。
(……私が、ちゃんと答えないから……)
わかってる。自分がちゃんと向き合っていないからだって。
でも、それでも苦しい。彼のことも、自分の弱さも、全部が怖くて、私はまた心に鍵をかけた。