吐く息も凍りそうな、大晦日の夜。私は友達と連れ立って、地元の大きな神社に来ていた。
新しい年の始まりを祝おうとする人々で、境内はごった返している。厚手のコートに身を包んだ参拝客。屋台から漂う甘酒や食べ物の匂い。賑やかな喧騒。
けれど、私の心は、この夜空のように冷え切っていた。
人混みを掻き分け、本殿への長い列に並んでいた、その時だった。
少し離れた場所に、見慣れた後ろ姿を見つけた。人いきれの中でも一際目立つ長身、少し癖のある髪。そこにいるだけで、周りの空気を華やいだものに変えてしまうオーラ。
(及川……)
そして、彼の隣には──あの子がいた。この前教室で話した、後輩の女の子。楽しそうに笑いながら、寄り添うように立っている。二人は他の友達も交えず、二人きりのようだった。
彼女が何か話しかけ、及川がそれに笑って頷いている。その親密そうな雰囲気が、冷たい刃物のように私の胸を突き刺した。
(あ……やっぱり、そうなんだ……)
あの子が私を訪ねてきてからは、彼とはほとんど顔を合わせていなかった。及川も、段々と用事がある時しか私に声をかけてこなくなって、そのまま冬休みに入ってしまった。
クラスも学年も違うあの子と、わざわざ二人で初詣に来ている。もう、答えは明白だった。私があんなそっけない態度をとったから、彼はあっさり他の子に移ったんだ。
分かっていたはずなのに。覚悟していたはずなのに。冷たい空気の中で、胸の奥がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。息が苦しい。涙が滲んできそうになる。
私の視線に気づいたのか、及川が、ふとこちらを振り返る。黒山の人だかりの中、はっきりと目が合ってしまった。
「……っ」
怖い。二人を見ていたくない。
「ごめん、ちょっと気分悪くなっちゃったかも。先に少し外に出てるね」
友達にそう小声で伝えると、返事も待たずに、私は人混みから逃れるように、足早に列を離れた。本殿とは逆方向の、参拝客もまばらな、古い灯篭が並ぶ少し薄暗い脇道へと。
ふぅ、と溜め込んだ息を吐き切った、その時。
「——おい!」
冷たい空気を切り裂くような声が聞こえて、後ろから腕を強く掴まれた。驚いて振り向くと、そこには、息を切らした及川が、心配をしているような、そして少し怒ったような顔で立っていた。
さっきまでの、後輩の女の子と話していた柔らかな表情はどこにもない。
「……なに?」
掴まれた腕が痛い。でも、それ以上に、彼の眼差しの強さに射抜かれて、胸が軋む。
「なに、じゃない。なんで逃げるんだよ」
「……別に…」
俯いたまま、そう答えるのが精一杯だった。彼の隣にいた、あの子の笑顔がちらつく。
彼は私の肩を掴み、体ごと無理やり顔を合わせようとする。
「…本当に?」
低く、押さえつけるような声に、胸の奥がきゅっと縮こまる。言葉が出てこない。
「…俺のこと、避けてたよね。ずっと」
その咎めるような目には、誤魔化しなんてきかないだろうと思った。全部見透かされているようで、私は思わず視線を逸らした。でも、彼は逃さなかった。私の肩をしっかりと掴んだまま、もう一度、問いかけてくる。
「もう、俺のこと、嫌いになった?」
縋るような声音に、胸の奥に押し込めていた後悔が、じわりと染み出す。喉まで出かかった「そんなわけない」という言葉を、ぐっと飲み込む。答えたいのに、答えられない。自分の中で膨らみすぎた不安が、喉に引っかかって、声にならなかった。
「……なんで、あの子と一緒にいたの?」
ようやく絞り出せた言葉は、責めるような声になっていた。言いたくなかったのに。嫉妬が滲むのが、嫌だったのに。
「……は?」
彼は、まるで意図が分からないという顔で、眉を顰める。
「さっき…楽しそうに、してたじゃん……」
「……まさか…それで、あんな顔して逃げたの? あの子と俺が、なんかあると思って?」
「だって…っ、私、分かんないんだもんっ、及川の気持ち……!」
冷たい夜の空気で、余計に胸が苦しい。一度出てしまえば、もう止められなかった。ダムが決壊したように、心の奥に溜め込んでいた黒い感情が、言葉になって溢れ出す。
私は震える声で、ずっと胸の中で渦巻いていた疑念を、彼にぶつけていた。
「…及川…この前、女の子たちに『彼女いない』って、言ってたから…っ」
「……!」
「もう、ダメなのかなって…私が、ちゃんと答えないからっ……もう、気持ち、変わっちゃったのかなって…。他の子に、告白されるの…待ってるのかなって……」
言った後で、後悔が押し寄せる。こんなことを言いたかったわけじゃないのに。
涙で視界が滲む。
私の、あまりにも自己中心的で、情けない、彼を信じきれていない言葉。それを聞いた及川は、一瞬、ぴたりと動きを止めた。そして、何かを抑え込むように目蓋を閉じ、ふーっと長く深く息を吐いて目を開けた。
そこに浮かんでいたのは、予想していたような激しい怒りではなかった。 むしろ、驚くほど静かで、温度のない、まるで能面のような無表情だった。それが、かえって私の心臓を冷たく締め付ける。
「…………へぇ……?」
彼の唇から漏れたのは、低く、感情の読めない、平坦な声。その響きだけで、彼が私の放った言葉に傷ついてることが分かってしまった。
「ナマエは、俺のこと、ずっと、そんな風にしか見てなかったんだ。告白をしても、相手から返事をもらえなかったら、気が変わるような男だって」
私の肩を掴む手に静かな力がこもる。及川の瞳は、何の光も宿していないようでいて、その奥底には、冷たい炎のような、静かな怒りが揺らめいているように見えた。
「俺があの時……どんな想いで、お前に……」
何か言いかけて、彼はぐっと言葉を飲み込む。そして、ふっと、自嘲するような、乾いた笑みを浮かべた。
「……いや、やめた。俺の行動も悪かったんだろうし」
その言葉が、酷く胸に突き刺さる。
「……一応、言っとくけど」
及川は、一音一音に重みを乗せるように、静かに、だが有無を言わせぬ響きで続ける。
「本気じゃなきゃ、言わないよ。あんな、格好悪いところまで見せて、もう一回告白なんてするわけないだろ」
その言葉には、疑いようのない真実があった。プライドの高い彼が、剥き出しの感情を露わにしている。それだけで、このぶつけられた想いが本物だと分かった。
「『彼女いない』? ……ああ、言ったかもね。後輩に聞かれて、適当に」
彼は、まるで他人事のように、肩をすくめてみせる。
「……で? お前が、俺の告白に『はい』とも『いいえ』とも言わないで俺を避けてる間に、俺にどうしろって言うわけ? 周りに『実は俺、ナマエのこと本気で好きなんですけど、まだフラれてもいないし付き合ってもいないんです』って説明して回れとでも?」
その声はあくまで静かだったけれど、その言葉の端々には、抑えきれない苛立ちと、深い悲しみがはっきりと滲んでいた。私が彼を信じなかったこと、向き合わなかったことに対する、静かで、重たい怒り。
及川の言葉の一つ一つが、鋭い刃になって、私の胸に突き刺さる。そうだ、私が、怖がって、逃げて、彼を信じなかったから、その事実が、ずしりと重くのしかかってくる。
「…っ……ごめ…なさ……」
私が、素直に気持ちを伝えれば良かっただけなのに。
張り詰めていた心がふっと緩んだ瞬間、目の奥から熱いものがじわりと滲み出た。彼を疑っていたことへの罪悪感と、彼をこんな風に傷つけてしまった後悔で、喉がひくついた。
「……信じられ、なくて……ごめん…。怖くて…私……っ」
しゃくりあげる私を、彼はしばらく無言で見下ろしていた。その表情はまだ硬い。けれど、私の涙が止まらないのを見て、彼の纏う空気が、ほんの少しだけ揺らいだ気がした。
彼は、ふぅ、と深く、長い息を吐き出した。そして、ゆっくりと私の頬に手を伸ばす。
「ごめん、言い過ぎた…。俺なりに、本気でナマエに好きになってもらいたいって思ってたから、信じてもらえてなかったの悔しくて……」
その声は、もう怒りの色を失い、どこか後悔にも似た響きを帯びていた。
大きな手のひらが、涙で冷えた頬を優しく拭う。その温かさが、凍っていた心をゆっくりと溶かしていく。
「……でも、ナマエも悪いとこあるからね」
ぽつりとそう言うと、彼は私の頭を自分の胸へ抱き寄せた。
「なんでそんなに、一人で勝手に決めつけて、勝手に苦しんでんの。俺の気持ちは、俺に聞いてよ。お前が逃げたら、届くもんも届かないじゃん」
温かい胸元に、顔をうずめる。ようやく触れられた温もりに、さらに涙が止まらなくなる。
「……怖いって言ったら、受け止めてくれるの……?」
「当たり前でしょ。好きな子が泣いてたら、ほっとけないもん」
頬を優しく両手で包まれて、目を合わせる。見上げた先にある及川の顔は、優しく微笑んでいて、心の底から私を慈しんでくれていることが伝わった。
「俺の気持ちは、変わらない。ずっと、ナマエだけだよ。……だから、今度こそ、ちゃんと聞かせて?」
彼の瞳が、真っ直ぐ私を射抜く。
「──俺のこと、好き?」
視線が、絡まる。心臓が、うるさいくらいに鳴り続けている。遠くで聞こえる喧騒も、肌を刺す冬の空気も、全てが意識の外に追いやられていく。世界が、私と、目の前で答えを待つ彼だけになっているようで。
冬の夜空の下で、彼の瞳だけが、少しだけ潤んでいて、星みたいに、揺るぎない光で輝いて見えた。もう、誤魔化せない。逃げられない。私の、本当の気持ちから。
「……す、き…です……」
言ってしまった。
ずっと、心の奥に閉まっていた気持ちを。ようやく、彼に向けて口に出すことが出来た。
言葉にしたそばから、また鼻の奥がツンとして、視界が滲みそうになる。だけど、今度は、苦しさからではない。
そんな私を見て、及川はふっと目を細めた。そして、愛おしくてたまらないというように、蕩けるように甘い声で優しく囁いた。
「ん、嬉しい。俺も好きだよ」
「……!」
「ナマエの口から、ちゃんと聞けて良かった」
そう言って、及川が今度は私の両手を手に取り、そっと包んでくれた。彼の大きな手は、驚くほど温かかった。
その時──私たちのいる神社からそう遠くない場所にある寺から、除夜の鐘の音が、ゴーン、と厳かに響き始めた。古い年が終わり、新しい年が始まる音。
それはまるで、今までの曖昧で、もどかしかった私たちの関係が終わりを告げ、新しい何かが始まる合図のようにも聞こえた。
繋がれた手の温かさを感じながら、私はまだ少し涙の残る目で、彼の顔を見上げた。さっきまでの不安や疑念が、彼の言葉や仕草で、少しずつ溶けていくのを感じる。
けれど、心のどこかに、さっき見た光景──彼と後輩の女の子の姿が、小さな棘のように引っかかっていた。
そんな私の視線の意図に気づいたのか、及川は少しだけ困ったように眉を下げる。
「……あのさ、もしかして、さっきの後輩とのこと、まだ気にしてる?」
「え……」
「あの子には、確かに告白されたけど、ちゃんとそのときに『好きな子がいるから』って、はっきり言って断ってる。だから、心配しないで」
「!」
「今日は本当にたまたま会っただけで……岩ちゃんたちが買い物行ってる間に、ちょっと話してただけだから。……信じて、くれる?」
真剣な眼差しで、私の様子を伺うように言った。普段の自信に満ちた彼からは想像もできないほど、その目はどこか不安げだった。
「……うん」
小さく頷くと、彼は心の底からほっとしたように息をついた。
「……良かった。ナマエが急に冷たくなったの、正直めちゃくちゃ堪えたからさ……」
彼は少し困ったように視線を逸らし、ぼそっと付け加える。
「だから、ちょっと……押してダメなら引いてみろ、的な? ……ナマエの反応見ようと思って、意地悪な作戦、使ってみたんだけど……」
「……え、じゃあ、あの冬休み前のそっけない態度って……わざと?」
「うん…まあ、その、俺の自業自得だけど、あの夜に話してからも、ナマエとどう接すれば分からなくて……。そしたら、あんなぎこちない態度取られるし、いきなり冷たくなるし、もう嫌われたのかなって思って……しつこく絡まれるのも嫌かなと思ったし。……俺も怖かったんだよね……」
言葉を探すように一瞬黙った彼は、冷たい空気を飲み込むように小さく息を吸った。
「……でも、完全に裏目に出た。お前があの子との仲を誤解してるとか思ってなかったし、あんな傷ついた顔して逃げてくの見て、マジで血の気が引いたし……」
彼はバツが悪そうに頭を掻きながら、もう一度私に向き直る。
「ほんと、ごめん。泣かせるつもりなんて、全然なかったんだよ」
バレーボールを触り続けて少し固くなった親指の皮膚が、涙で濡れた私の目の下を拭う。その壊れやすいガラス細工に触れるような手付きに、及川の優しさと気遣いが込められてるようで。
「…私も、学校で拒絶するような態度ばっかり取ってごめんなさい。好きだって気づいたら、今更どんな態度取ればいいか分からなくなって…ごめん……。あのタイミングなら嫌われたって思うよね…」
「……あーもう! やめよやめよ! 謝りだしたらキリないよね! もう今は、ナマエと俺が同じ気持ちだったってことが分かっただけで十分だから!」
「ね?」とこちらを覗き込んで困ったように笑う及川に、躊躇いつつも頷き返す。そうだ、せっかく想いが通じたのだから、謝罪や懺悔を繰り返すよりも、これからのことを考えていきたい。
その時だった。
「おい、クソ川ァ! こんな隅っこで何してやがんだ!」
聞き慣れた、怒声に近い声。少し離れた場所から、岩泉が呆れた顔でこちらに向かってきていた。その後ろには、一緒に初詣に来ていたらしい松川と花巻も、やれやれといった表情で続いている。どうやら三人は、はぐれた及川を探していたらしい。
「げっ、岩ちゃんたち!? なんで!?」
及川がわざとらしく、大げさに驚いた声を上げる。
「てめぇを探し回ってたんだろうが! 人が甘酒取りに行ってやってる間にどっか行きやがって! さっさと戻るぞ! 日付変わったんだから早く本殿行かねえと……って、ん?」
岩泉の鋭い視線が、私たちに向けられる。そして、及川が私の手を握っていることに気づき、眉間の皺がみるみる深くなった。
あんな大勢の人間でごった返す中で必死に探してやってる間に何やってたんだと言いたげな表情だ。
松川と花巻も、状況を察したのか、ニヤニヤと面白そうなものを見つけた顔で私たちを見ていた。
どうしよう、なんて言ったら──と私が焦った瞬間、及川が私の手をぎゅっと握り直し、一歩前に出た。そして悪びれもなく、三人に向かって言い放つ。
「あー、ごめんごめん! ちょっと、俺の彼女と大事な話してた!」
「はぁぁぁ!?!?!?」
「…まじで? 良かったな〜及川」
「お前ら、やっとか」
岩泉の驚愕の声が、静かな境内に響き渡った。花巻は一瞬目を見開いたものの、すぐに口元を緩め、いたずらを見つけた子どものようににやりと笑う。一方の松川は、驚くどころかまるで予想通りだったとでも言うように、淡々とした調子で肩をすくめた。
「話してた、じゃねーわ! てか、『彼女』!? おいクソ川、どういうことだよ説明しろ!」
岩泉くんが鬼の形相で詰め寄る。
「えー? だから、言葉の通りだけど? ナマエちゃん、俺の彼女になったの。めでたく、ついさっきね!」
及川は満面の笑みでそう宣言し、三人に余裕のピースまでして見せる。
「……はぁ……マジかよ、新年早々……」
「うわー、なんかもう、ごちそうさまですー」
「はいはい、惚気は後で聞くから。置いてくぞー、このリア充どもめー」
岩泉くんは深いため息と共に頭を抱え、松川くんは感情のこもらない声で言い、花巻くんは茶化しながらも、三者三様に、心底「うぜぇ」と言いたげな反応を見せた。
「ちょ、ちょっと、及川…!」
周りの反応と及川の唐突な行動に、恥ずかしさで半ばパニックになって彼を見上げると、彼は友人たちの呆れた視線などまるで気にする様子もなく、私だけに聞こえるように、そっと耳元に唇を寄せる。
「やっと捕まえた。……もう、離さないから」
満ち足りた声音に、ほんの少し熱の籠った独占欲が滲む。
その台詞に、また胸がギュッとなって、顔が一気に熱くなった。
そんな私の速くなった鼓動なんておかまいなしに、及川は私の手を引いて友人たちの背を追った。優しく包まれる手のひらから伝わる熱に、幸せを感じながら、終始こちらへ柔らかく微笑みかけてくれる及川の隣を歩いた。