教室の扉が開く音がする。
その瞬間、俺は無意識に息を止めていた。視線の先には、ナマエの姿がある。重そうな足取りで入ってきた彼女の顔は、ひどく強張っているように見えた。
(……挨拶、返してくれるかな)
心の中で、神様にでも祈るような気持ちで呟く。
昨日の夜。俺の最悪で、最も情けない部分を全部見た上で、それでも彼女は俺を突き放さなかった。「放っておけない」と言ってくれた。あの言葉が、俺を救ってくれたのだ。
縋るような気持ちで、もう一度「好きだ」と伝えた。彼女は答えてくれなかったけど、逃げもしなかった。それだけで、十分すぎるほどだった。
「やっほー、ナマエちゃん。おはよ」
心臓がうるさいのを隠して、できるだけいつも通りに微笑みかける。実際は、ここ数日は声を掛けることすら出来ていなかったので、上手く笑えてるか少し不安だ。
空元気でもいい、いつもの「及川徹」を演じなければ、と、逸る胸を抑える。下手に意識すれば、彼女をまた怖がらせてしまうかもしれない。
「……お、はよ」
聞こえるか聞こえないかくらいの、か細い声。でも、返してくれた。その事実に、全身の力が抜けそうになるのを必死で堪える。
(──良かった)
隣で、岩ちゃんが俺とナマエを交互に見て、少しだけ息を吐いたのが分かった。心配かけたな、と、なんだかんだ面倒見のいい幼馴染みに申し訳ない気持ちになった。ナマエは、戸惑った顔で固まっている。どう見ても、俺との接し方に困り果てている顔だ。
(そりゃ、そうなるよな……)
俺が、あんな酷いことをしたんだから。ちゃんと向き合って話をしたからといっても、急に「好きだ」なんて言われて、すぐに「はい、そうですか」なんてなるわけがない。
分かってる。分かってるから、俺は待つしかない。彼女の心が、少しでも俺の方へ向いてくれるのを。
だから、今はとにかく普通に。友達として、クラスメイトとして。
「ていうか、今日の英語の小テストの範囲、ちゃんと覚えてる? 俺、昨日全然勉強してないんだけど」
必死で、当たり障りのない話題を探す。本当はテスト範囲なんてどうでもいい。ただ、彼女との会話を、繋がりを、失いたくなかった。
「…え、あ…うん、たぶん大丈夫」
「ほんと? あとでノート見せてくれない?」
悪戯っぽく笑いかける。貼り付けた笑顔の下で、彼女の怯えたような瞳に胸が痛んだ。
俺の“いつも通り”が、分厚い壁みたいに、彼女を遠ざけているのが分かった。
△
それからの日々は、薄氷の上を歩くようだった。
俺は彼女を怖がらせないように、今までより少しだけ距離を置いて、当たり障りのない態度を続けた。彼女は彼女で、俺と目を合わせるたびに顔を強張らせているのは気の所為じゃないだろう。
(……焦るな。時間をかけるしかないんだ)
自分にそう言い聞かせる一方で、彼女のその態度が、日に日に俺の心を蝕んでいくのも事実だった。
そんなある日、部活の休憩中。後輩の女子数人に囲まれて、適当な愛想笑いを浮かべていた時だった。
「及川先輩って、いま彼女さんとかいるんですかー?」
脳天を殴られたような衝撃。よりにもよって、今、その質問かよ、と悪態をつきたくなる。頭に浮かぶのは、当然、ナマエの顔だった。でも、彼女はまだ、俺の告白に頷いてくれてはいない。むしろ、最近は避けられ続けている。
俺は、彼女の「彼氏」じゃない。その事実が、ずしりと重い。
「んー? いないけど?」
一瞬の逡巡の後、俺はいつもの軽い調子で答えていた。
「でも俺、めちゃくちゃモテるからねー」
道化を演じるのは得意だ。そうやって、本心を隠してきた。
でも、自分で言った「いない」という言葉が、自分で思っていた以上に、心を抉る。
まるで、彼女との間に芽生えかけていた特別な空気を、俺自身が否定してしまったみたいで。
その時、体育館の入り口の影に、見慣れた姿が一瞬見えた気がした。
(まさか、ね)
練習再開の声がかかる。俺はいつもの調子で手を振り、笑顔のままコートへと戻る。けれど、胸の奥で何かがざわついていた。嫌な予感は、消えないままだった。
──俺の気のせいじゃ、なかったのかもしれない。
あの日を境に、ナマエの態度は、明らかに「戸惑い」から「拒絶」に変わった。
俺が話しかけても、まともに目を合わせない。声はいつも上ずっていて、すぐに会話を切り上げようとする。前みたいに、軽口を叩き合う空気なんてどこにもない。
「……ナマエちゃんさ、最近なんか冷たくない?」
耐えきれずにそう聞けば、「別に。いつも通りだよ」と、刃物みたいに冷たい声が返ってくる。その目に、俺は映っていなかった。
(……ああ、もう、ダメなのかもな)
俺のしたことは、やっぱり許されることじゃなかった。彼女がくれた猶予期間を、俺は活かせなかった。嫌われたんだ。そう思うと、心臓が凍るようだった。バレーで負けるのとは、全く違う種類の絶望で。
どうすればいい? もう一度、押してみるか? いや、余計に嫌われるだけだ。
じゃあ、引いてみればいいのか?
そうだ、いっそ、俺も彼女を突き放すような態度を取ってみれば、何か、変わるんだろうか。俺が離れていくと感じたら、少しは気にしてくれるんだろうか。
そんなガキみたいな、くだらない作戦しか、もう思いつかなかった。女の子の扱いなんて、慣れてるはずなのに。本気で好きになった子に対しては、こんなに不器用で空回りしてしまうなんて、思いもしなかった。
△
吐く息が白く染まる、大晦日の夜。
岩ちゃんたちに無理やり連れ出された神社の境内は、新年を祝うための浮かれた空気で満ちていた。隣で岩ちゃんとまっつんとマッキーがくだらないことで笑っている。普段なら俺もその輪の中心にいるはずなのに、今は人の熱気も屋台の匂いも、どこか遠い世界のことのようだった。
(……今頃なにしてんのかな)
考えるのは、ナマエのことばかりだった。
結局、俺が仕掛けたくだらない作戦は、見事に裏目に出ただけだった。俺は敢えて用事にある時だけ声をかけるように努めていたか、彼女は少しも気にするどころか、日に日に心を閉ざしてしまっただけだった。そのまま、冬休み入ってしまい、俺はもう、どうすることもできずにいた。
スマホアプリのトーク画面を何度開いては閉じたか分からない。たった一言「元気?」と送る勇気すら、今の俺にはなかった。
「あ、及川先輩!」
「……あ、やっほー」
岩ちゃんたちが甘酒を買いに行って、俺は人混みの中、ひとりになる。
その時、不意に声をかけてきたのは、よく部活も見に来ていた後輩の女の子だった。彼女からはこの前告白をされたのだが、「好きな子がいるから」とはっきり断ったはずだ。諦めが悪いのか、それともただファンとして声をかけてきたのか、邪険にも出来ず、笑顔を貼り付けて適当に相槌を打つ。
そして、ふと視線を感じて横目で後方を見た瞬間、まるでそちらに引き寄せられるように振り返る。
友達と並んで、こちらを見つめている、人物。見間違えるはずがない。ずっと目で追ってきた、そして求めていた、その姿。
ナマエ──。
心臓が、大きく跳ねた。名前を呼びたい衝動と、何と声をかけたらいいか分からない困惑が、胸の中でせめぎ合う。
黒山の人だかりの中、時間が止まったみたいに、はっきりと目が合った。その瞳が、俺と、俺の隣にいる後輩の姿を捉えた瞬間、彼女は、顔を歪め、くるりと踵を返した。人混みの中に、逃げるように消えていく。
「──っ、ごめん! ちょっと用事思い出した!」
後輩の女の子が何か言うのを遮り、俺は走り出していた。思考よりも先に、体が動いていた。
あんな顔をさせて、逃がして、それで終わりになんて、できるわけない。ここで逃したら、俺は、きっと一生後悔するだろう。
人波を強引にかき分け、細い脇道に逃げ込んだ彼女の背中を見つけ、その腕を強く掴んだ。
「──おい!」
息が切れて、肩が大きく上下する。
「……なに?」
俯いたままの、か細い声。掴んだ腕が、痛々しいほど華奢に思えた。
「なに、じゃない。なんで逃げるんだよ」
苛立ちと、振り払われなかったことに対する安堵と、どうしようもない焦りがごちゃ混ぜになって、語気が強くなる。こんな強い言い方をしたら余計に怖がらせると分かっていても、抑えきれなかった。
「……俺のこと、避けてたよね。ずっと」
問い詰める声が、自分でも冷たいと分かる。でも、いまこのチャンスを逃したら、きっと彼女は心を閉ざしてしまう。
「俺のこと、嫌いになった?」
一番聞くのが怖かった質問。でも、これしか思いつかなかった。彼女の口から「違う」と言ってほしくて、必死だった。だけど、彼女は答えない。その沈黙が、ナイフみたいに俺の心を抉る。
「……なんで、あの子と一緒にいたの?」
ようやく絞り出された彼女の声は、震えていた。責めるような、嫉妬の色を隠せない声。
その響きに、俺は一瞬、面食らう。
「……は?」
「さっき…楽しそうに、してたじゃん……」
「……まさか…それで、あんな顔して逃げたの? あの子と俺が、なんかあると思って?」
「だって…っ、私、分かんないんだもんっ、及川の気持ち……!」
悲痛な叫びだった。そして、その後に続いた言葉が、俺の心を完全に凍りつかせた。
「…及川…この前、女の子たちに『彼女いない』って、言ってたから…っ」
ああ、そうか。やっぱり、聞いてたのか。
あの日からだ。ナマエが俺から完全に目を逸らすようになったのは。
「もう、ダメなのかなって…私が、ちゃんと答えないからっ……もう、気持ち、変わっちゃったのかなって…。他の子に、告白されるの…待ってるのかなって……」
──気持ち、変わっちゃったのかなって。
その言葉が、俺の頭の中で、何度も木霊した。
彼女が逃げた理由は、きっと後輩へのやきもちで。嫌われていたわけじゃなかったと、むしろ嫉妬をしてくれたという事実。それは俺に対して無関心ではなく、その逆だと言われてる事と同義で、喜びで昂揚してもいいことなのだろうけど。
全身の血が、急速に冷えていく感覚がした。
俺が、どんな想いで、あの言葉を伝えたと思ってるんだ。試合に負けて、何もかもどうでもよくなって、嫌われてもおかしくない最悪な態度を取って、それでもお前が来てくれたから、もう一度前を向こうって思えて。あの体育館の前で、格好悪いのも全部承知で、もう一度「好きだ」と言ったのに。
グッと目蓋を閉じ、深く、長く息を吐いた。平静を装うための、精一杯の呼吸だった。
彼女には、俺の気持ちが、その程度のものに見えていたのか、と。返事がもらえないくらいで、簡単に心変わりするような、薄っぺらい男に。
「…………へぇ……?」
唇から、自分でも驚くほど、低くて、感情のない声が漏れた。
「ナマエは、俺のこと、ずっと、そんな風にしか見てなかったんだ。告白をしても、相手から返事をもらえなかったら、平気で気が変わるような男だって」
掴んだ肩に、静かに力がこもる。怒り、というより、それはもっと深い、絶望に近い感情だった。
信じてもらえていなかった。俺の覚悟も、想いも、何一つ、届いていなかった。
「俺があの時……どんな想いで、お前に……」
言いかけて、言葉を飲み込む。今、それを言っても、彼女には言い訳にしか聞こえないだろう。ふっ、と自嘲の笑みが漏れる。
「……いや、やめた。俺の行動も悪かったんだろうし」
そう。結局、俺のせいだ。俺が、ナマエを振り回して、安心させてやれなかったから。
でも、これだけは、言わせてほしかった。
「……一応、言っとくけど」
一音一音、噛みしめるように、静かに告げる。
「本気じゃなきゃ、言わないよ。あんな、格好悪いところまで見せて、もう一回告白なんてするわけないだろ」
俺の言葉に、彼女がはっと息を呑む。
「『彼女いない』? ……ああ、言ったかもね。後輩に聞かれて、適当に」
「……」
「……で? お前が、俺の告白に『はい』とも『いいえ』とも言わないで俺を避けてる間に、俺にどうしろって言うわけ? 周りに『実は俺、ナマエのこと本気で好きなんですけど、まだフラれてもいないし付き合ってもいないんです』って説明して回れとでも?」
静かな声に乗せたつもりだった。けれど、心の奥底で張り詰めていた感情が、言葉の端々から漏れ出してしまう。信じてもらえなかったことが、どうしようもなく苦しかった。
「…っ……ごめ…なさ……」
彼女の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。しゃくりあげて、言葉にならない声で、謝罪を繰り返す。その涙を見た瞬間、俺の心の氷が、音を立てて砕け散った。
(……ああ、クソ……また、泣かせた……)
怒りや悲しみなんて、一瞬で消え失せた。残ったのは、自己嫌悪と、目の前の愛おしい存在を傷つけてしまったという、深い後悔だけだった。
「……信じられ、なくて……ごめん…。怖くて…私……っ」
彼女の震えた声に、胸が締め付けられる。
そうだ、ナマエはずっと、怖かったんだ。俺が、それを分かってやれなかった。
ふぅ、と長く息を吐き、俺はゆっくりと彼女に手を伸ばす。
「ごめん、言い過ぎた…。俺なりに、本気でナマエに好きになってもらいたいって思ってたから、信じてもらえてなかったの悔しくて……」
指の腹で、流れた涙で冷たくなった頬をなぞる。
「……でも、ナマエも悪いとこあるからね」
そう言って、彼女の後頭部に手を回して、たまらず胸に抱き寄せた。腕の中に感じるぬくもりに、体温が上がる。
「なんでそんなに、一人で勝手に決めつけて、勝手に苦しんでんの。俺の気持ちは、俺に聞いてよ。お前が逃げたら、届くもんも届かないじゃん」
「……怖いって言ったら、受け止めてくれるの……?」
「当たり前でしょ。好きな子が泣いてたら、ほっとけないもん」
頬を両手で包み、顔を上げさせる。やっと、彼女と目が合った。頬は濡れていて、睫毛も涙に滲んでいた。その顔を見るだけで、胸の奥がじんと痛んだ。ここまで追い詰めたのは、他でもない、自分だ。
「俺の気持ちは、変わらない。ずっと、ナマエだけだよ。……だから、今度こそ、ちゃんと聞かせて?」
もう勘違いも遠回りもしたくない。だから、彼女の口から聞きたかった。
「──俺のこと、好き?」
冬の夜空の下。ナマエの大きな瞳が、星みたいに揺れていた。彼女の唇が、わずかに開く。
「……す、き…です……」
その、掠れた声が鼓膜に届いた瞬間。
世界から、音が消えた。張り詰めていた体中の糸が、ぷつりと切れる。安堵、という一言では到底足りない、凄まじいほどの感情が、全身を駆け巡った。
少しでも格好つけたかったのに、こぼれ出す想いはもう抑えきれなかった。
「ん、嬉しい。俺も好きだよ」
緩んだ笑みを隠せないまま口を開く。自分の声が、こんなにも優しくなるなんて、知らなかった。耳まで赤くする彼女が愛おしくて仕方ない。
「……!」
「ナマエの口から、好きって聞けて良かった」
心からの言葉だった。ああ、本当に、よかった。
彼女の手を取り、包み込む。その温かさが、夢じゃないと教えてくれる。
どこかの寺から耳に届いた除夜の鐘が、まるで俺たちの新しい門出を祝ってくれているようだった。
後輩とのことを弁解すると、彼女は小さく頷いてくれた。俺のくだらない作戦のことも白状すると、少しだけ驚いた顔をした。バツが悪くてたまらなかったけど、想いが繋がったことが嬉しくて。俺は、やっと、堂々とした気持ちでナマエに触れられるんだ。
「おい、クソ川ァ!」
岩ちゃんの声で、二人だけの世界から、現実へと引き戻される。でも、もういい。
「あー、ごめんごめん! ちょっと、俺の彼女と大事な話してた!」
焦る彼女の手を、さらに強く握る。友人たちの呆れた視線も、今は心地いいくらいだ。見せつけてやりたい。これが、俺の、たった一人の、大切な女の子だと。
「ちょ、ちょっと、及川…!」
赤くなる彼女が、可愛くてたまらない。
耳元に、そっと唇を寄せる。
「やっと捕まえた。……もう、離さないから」
もう二度と、この手は離さない。
繋いだ手の温もりを確かめながら、俺は新しい年の光の中を、今度こそ、彼女と共に歩き始めた。