あの初詣の夜から、私と及川の関係は、静かに、けれど確実に形を変えた。

 冬休みといえど、及川は部活があるため、二人でゆっくり会うタイミングは無かったが、トークアプリのメッセージは毎日のように送られてきた。それこそ、「おはよう」から「おやすみ」までというように、おそらく起床後から部活の合間、そして帰宅後も。

 以前はクラスメイトとしての連絡ツールとしか使われることがなかった彼とのトーク画面に、今ではハートマークがやたらと並んでいるのは気のせいではないだろう。もちろん使っているのは及川だけだけど。
 そして、その及川のメープルシロップみたいにとろけるように甘い言葉を、嬉しいと思っている自分がいることも事実だった。

 彼も私と同じ気持ちでいてくれる──そのことが、こんなにも胸を締め付けるほど嬉しくて幸せなことなのだと、私はようやく知ったのだ。

 冬休みが明け、新学期が始まると、その変化は、私たちの間にだけ留まらず、教室の空気をもほんのりと変えていったように感じる。

 休み時間、自分の席で友達と話していると、不意に頭上から「ねー、ナマエ、これ分かんないんだけど」と声がかかる。顔を上げると、いつの間にか後方に立った及川が、私のノートを覗き込んでいた。

「……自分で考えなよ」
「えー、だってナマエの方が得意じゃん? ね、教えてよ」

 そう言いながら、彼は腰を曲げ、私の肩にこてん、と顎を乗せて甘えてくる。周りの目も気にしない様子に、私のほうが慌ててしまう。

「ちょ、重い……! 離れてよ!」
「やだー。てかナマエあったかーい」
「及川…!」

 私が真っ赤になって彼を押し返そうとしていると、私と及川が付き合い始めたことを知っている友達がニヤニヤしながら「はいはい、ごちそうさまー」「朝からいちゃつかないでくださーい」と茶化してくる。その台詞に、さらに顔が熱くなる。
 以前なら、彼がこんな風に私に絡むと、「またやってるよ」という、からかいと呆れが含んだ視線が多かった気がする。

 でも今は違う。
 クラスメイトたちの視線には、私たちが交際してることに気づいてそれを見守っているような、少しの生温かさが含まれているのが分かる。それがまた、どうしようもなく恥ずかしかった。

 廊下を歩いていてもそうだ。
 私が友達と話しているところに、彼は平然とやってきて、「ナマエ、次の授業なんだっけー?」なんて言いながら、私の肩に腕を回したり、頭をぽんぽんと撫てきたりする。私が「やめてよ!」と睨んでも、「えー、なんで? 俺の彼女でしょ?」と、悪びれもなく言い返す。その度に、周りから冷やかすような声が上がるのだ。

 もちろん、そういうときに刺さる視線の中には、温かいものだけじゃないのは分かっている。彼を好きな子やファンなんて、山のようにいるのだから。

 だけど、今はそんなことを気にする余裕なんてなかった。

 彼が隣にいること、彼が私に触れること、そして、私たちが「そういう関係」だと周りに認識されていること。
 その全てが、くすぐったいような、それでいてどこか、満たされた気持ちにさせてくれた。



 待ち合わせ場所の駅ビルの入り口。
 少し早く着いてしまった私は、コートの襟を合わせ、ショーウィンドウに映る自分をこっそり盗み見た。

 今日は、及川と付き合い始めてからの初めてのデートの日だ。

 今日のために買った淡い色のコート。少しだけ時間をかけて巻いてみた髪。いつも学校ではリップくらいしか付けないけど、今日はほんの少しだけメイクも丁寧にしてみた。
 彼に、可愛いって思ってもらえたらいいな、なんて、そんな健気なことを考えている自分に気づいて、体温が上がった気がした。

「ごめん、待った?」

 ふいに、すぐ近くで優しい声がして、はっと顔を上げる。少しだけ息を弾ませて、及川がそこに立っていた。

 落ち着いた色味のロングコートに、紺色のニットを身にまとっている。首元にはシンプルな生成りのマフラー。

 いつも見慣れた制服やジャージ姿とは全く違う、彼のちゃんとした「私服」姿。
 それがなんだかすごく新鮮で、そして、驚くほど彼に似合っていた。すらりとした長身が、冬の街並みに映えて、思わず見惚れてしまう。

(……うわ、かっこいい……)

 以前から、彼の整った目鼻立ちやそのスタイルの良さは目を引くものだと知っていたけど、付き合い始めてからは、いっそう魅力的に思えてしまう。これが欲目というものなのだろうか。
 私がぽかんと彼を見上げていると、彼はマフラーに顔を埋めながら、嬉しそうに目を細めた。その表情だけで、私の心臓がとくん、と大きく跳ねる。

「ごめん、待ってるの寒かったでしょ?」
「…ううん、私も今来たとこ」

 なんとか平静を装って、そう答えるのが精一杯だった。

「……あれ? なんか今日、雰囲気違うね。いつも可愛いけど、今日はいつもより可愛い」

 及川は私の服装や髪を、ゆっくりと眺めてから、からかうというよりは、心からの言葉のようにそう言った。そして、少しだけ悪戯っぽく、でも温かい声で続ける。

「……もしかして、俺との初デートだから、気合入れてくれた感じ?」
「……っ、べ、別に普通! たまたま!」

 やっぱり見抜かれていて、顔にカッと熱が集まった。朝から鏡の前で格闘したことなんて、絶対に秘密にしようと心に決めた。

「ふーん?」

 彼は私のそんな反応も楽しんでいるように口元を緩める。

「でも、ほんと。すごく可愛い。そのコートも、ナマエにぴったりだよ。本気で、そう思う」

 途中から、真剣な眼差しになって、真っ直ぐに褒められてしまう。その熱のこもった視線に、もう言葉が出てこない。
 真っ赤になって固まる私を見て、及川はくすくす笑うと自然に私の手を取った。

「とりあえず、駅の中入ろ。こんな可愛いナマエ、本当はあんまり人に見せたくないけどね」

 手袋越しに、彼の大きな手のひらに包まれて、指がそっと絡められる。その繋がれた手の温もりが、じんわりと心に広がって、さっきまでの緊張が解けていく。

 及川の顔を見上げると、頬や鼻の先が、ほんの少し赤くなっている。それはきっと、寒さだけではないのだろう。
 もしかしたら、及川も少しだけ、同じようにドキドキしてくれてるのだろうか。

「寒いし、カフェ行こうか」

 彼の明るい声に導かれるまま、私は彼に手を引かれ、二人での初めてのデートへと、足を踏み出した。

 最初に向かったのは、駅のレストラン街にある、温かい雰囲気のカフェ。窓際の席に座ると、外を行き交う人々の厚着が目に入る。

「うわー、外、めっちゃ寒そう。雪降りそうだね」
「ほんとだね」
「俺、ここのホットチョコレート飲みたかったんだよね。ナマエはなににする?」
「私は…アップルパイと紅茶にしようかな」
「お、いいじゃーん」

 しばらくして運ばれてきたのは、湯気の立つアールグレイと、温かなアップルパイ。シナモンの甘い香りがふわりと漂う。
 彼の前には、大きなマグカップにたっぷりのホットチョコレート。彼は「わ、うまそう」と目を細め、すぐに一口味わっては満足そうに「おいしい」と微笑んだ。
 その穏やかな顔を眺めていると、私の心も自然と和んでくる。

「ね、それ、一口もらってもいい?」

 しばらく、学校のことや家のことなど、他愛もない会話をしていると、及川が突然悪戯っぽく微笑みながら、私のアップルパイを指した。
 既に私が半分ほど口をつけているから、もちろん食べかけである。

「……自分で頼めばよかったのに」

 私は小さく呟き、頬を少し膨らませた。
 彼の軽やかさに、まだ素直に乗りきれない自分がいる。

 意地を張っているわけではない。ただ、どう応じるのが正解なのか、少しだけ戸惑ってしまうのだ。

「えー、だめ?」

 少しだけ、及川の声に拗ねた色が混じる。

 別に、一口食べられるのくらい、全然構わない。
 でも、ただあげるのも、なんか癪だなと思ってしまった。彼がいつも私をからかうみたいに、ちょっとだけ、仕返しをしてみたくなって。

「あっ、雪降ってきたね」

 彼が窓の外に目を向けた、ほんの僅かな隙。
 私は、フォークで切り分けていたパイを、そっと彼の口元へと差し出した。

「ん?」

 私の気配に気づき、及川がこちらを振り返る。そして、目の前にあるフォークと、それを持つ私を交互に見て──ぴたり、と動きを止めた。

 大きく見開かれた瞳には、驚きの色が映っている。いつも浮かべている余裕のある表情が消え、全く予想していなかった出来事に遭遇したかのような、素の反応。
 体育大会の時の、おにぎりを差し出した時の顔に似ているな、と思った。

 その珍しい、少しだけ幼くも見える表情に、私の心臓が静かに、でも確かに跳ねた。

「…………いいの?」

 ややあって、彼が微かに掠れた声で尋ねる。その声色に、及川の内心の動揺が伝わってくるようだった。私は、じわりと熱くなる頬を感じながら、黙って小さく頷いた。

 及川は、ゆっくりと、差し出されたパイを口に含む。そして、その味を噛みしめるように味わうと、ふわりと、春の陽だまりのように柔らかく微笑んだ。

「……うん。すごく、美味しい。…ありがとう、ナマエ」

 その静かな、でも心の底からの喜びが伝わる声と、真っ直ぐな感謝の言葉。それが、私の中にじんわりと染み渡っていく。
 彼の、こんな満たされたような表情を引き出せたことが、なんだかとても、特別なことのように感じられた。

「あーんしてくれるなんて、前に体育大会でおにぎりもらったときみたいだね」
「……っ」
「でも、あの時と違って、ナマエの表情から『俺のこと好き』って伝わるから、嬉しい」

 その不意打ちの飾らない言葉に、私はまた言葉に詰まってしまう。

 及川との間に流れる空気が、さっきまでとは明らかに違う。気まずさでも、緊張感でもない。もっと、穏やかで、温かくて、そしてどうしようもなく甘いものになっていくのを感じていた。

 彼が私を見る視線は、もうただ優しいだけじゃない。慈しむような、何かとても大切なものを見るような、深い愛情の色を湛えている。

 彼が目の前にいる。
 ただそれだけで、世界がきらきらと輝き出すような気がした。

冬の静かさに溶ける甘さ



メランコリー