カフェでゆっくり過ごした後は、特に目的もなく駅ビルの中のショップを覗いた。及川が「これ、似合いそう」と、ふわふわの白いニットを私に当ててみたり、「このマフラーの色、いいね」と、私とお揃いになりそうな色を選ぼうとしたり。
 結局何も買わなかったけれど、ただ一緒に見て回るだけで、時間はあっという間に過ぎていった。

 歩くときは、及川はずっと私の手を引いてくれていた。「寒いから」というのを言い訳みたいにして、自分のコートのポケットに私の手を一緒に入れてくれる。手袋越しだけど、ポケットの中は、彼の体温で驚くほど温かかった。

 日が暮れて暗くなって、イルミネーションで照らされた駅前の並木道を歩く。肌を突き刺すような冷気に、身体が縮こませた及川は眉間に皺を寄せて、マフラーに口元を埋めた。

「うわっ、やっぱ外寒いね」
「うん。でも、イルミネーション綺麗」

 冬の澄んだ夜空に広がる、幾何学模様の光が綺麗で、目に焼き付けるように見つめる。すると突然、隣からシャッター音が聴こえた。
 驚いて及川を見ると、彼は「ふふ」と、スマホの画面を見ながら、悪戯っぽく笑っただけだった。そこには、並木道を見上げている私の横顔が、しっかりと記録されている。

「可愛い〜。待ち受けにしよ」
「ちょっと! 撮るなら言ってよ! めっちゃ間抜けな顔してるじゃん」
「んー? ナマエの顔はどれも可愛いよ? プリントして部屋に飾ろうかなー」
「は!? 絶対やめてよ!? 本当にしそうで怖いんだけど!」

 慌てて詰め寄ると、及川は声を上げて笑った。その笑顔がひどく眩しくて。
 一日中、ずっと感じていた。カフェで一緒にいる時も、街を歩いている時も、写真を撮られている時も。彼が私に向ける、甘くて、優しい眼差し。

(……幸せ、だな……)

 素直に、そう思った。

 付き合う前の、不安で、苦しくて、自分の気持ちにさえ蓋をしていた日々が、遠い昔のことのように感じる。
 今はただ、及川の隣にいられること。及川が私を、こんなにも大切に想ってくれていることが伝わってくるだけで、胸がいっぱいになる。

 その時、駅の時計台の鐘が鳴った。時刻は午後七時。家に帰らなければいけない時間だ。

「……そろそろ、帰る?」

 彼が、名残惜しそうに、でも優しく尋ねる。ポケットの中で、私の手をもう一度、きゅっと握りしめた。

「……うん」

 頷きながら、私もそっとその手を握り返した。今日の出来事が一気に頭の中を駆け巡る。
 楽しかった。すごく、すごく、楽しかった。

「家まで送ってくよ」

 改札の前でそう言った彼に、一度は「駅降りたらすぐそこだから大丈夫」と断る。でも、「俺が送りたいの」と少し拗ねたように言われてしまったら、もう頷く以外の選択肢はなかった。

 通行人が増えてきて、急に恥ずかしくなってしまい、彼のポケットの中から手をそっと抜こうとした。すると、及川が分かりやすく不満気に「えー…」と小さく呟いたので、思わず笑ってしまって、今度はポケットの外でちゃんと手を繋ぎ直した。
 やってきた電車に乗って、私の家の最寄り駅で降りる。二人並んで夜の住宅街を歩いた。
 街灯がぽつりぽつりと道を照らすだけの静かな空間。私たちの足音と、衣擦れの音だけが響いている。

 繋がれたままの右手は、指先までじんわりと温かくて、このまま時間が止まってしまえばいいのに、なんて叶わないことを願ってしまう。

 そして、今日のデートを反芻するうち、ふと、ずっと気になっていたことが頭に浮かんだ。今なら、聞けるかもしれない。

 心臓が、少しだけ大きく鳴る。私は繋がれた手に意識を集中させながら、隣を歩く彼の横顔を見上げた。

「ねえ、及川」
「んー?」

 私の声が少しだけ震えたのに、彼は気づいただろうか。

「ずっと気になってたんだけど……及川は、いつから私のこと、好きになってくれたの?」

 言ってしまってから、あまりにもストレートな質問だったかもしれないと、急に恥ずかしくなる。でも、彼は私の言葉を馬鹿にしたりせず、少し驚いたように瞬きをすると、ふっと歩みを緩めた。

「……きっかけ、かぁ」

 彼は夜空を見上げるように少し視線を彷徨わせて、それから、慈しむような優しい眼差しで私を見つめた。

「はっきり『好きだ』って自覚したのは、文化祭の時かな」
「文化祭…?」
「そう。覚えてる? 二人で休憩してた時」

 もちろん、覚えている。忘れられるはずがない。私の心臓が、あの日みたいに大きく跳ねた。

「あの時さ、俺、ナマエに聞いたでしょ。『俺って、そんなにチャラく見える?』って」
「……うん、言ってたね」
「そしたらナマエ、間髪入れずに『事実でしょ』って言うんだもん。結構マジでへこんだんだからね、あれ」

 拗ねたように唇を尖らせる彼に、私は思わずくすっと笑ってしまった。

「でも、そのあと、『軽いだけじゃないって知ってる』って言ってくれたよね」

 彼の声のトーンが、少しだけ変わる。

「『バレーしてる時は真剣』『周りのことちゃんと見てる』って。しまいには、俺が一人で残って練習してたところも見てた、なんて言うから」

 彼の、いつもの軽薄さが、少しだけ剥がれ落ちていく。
 及川は、あの時私が伝えた言葉を全部覚えていてくれたらしい。それが恥ずかしくて、だけど嬉しくて、胸のあたりがむず痒くなっていく。

「……あの時、本当にびっくりしたんだ。俺が一人で練習してることなんて、チームメイト以外、誰も知らないと思ってたから。一番見られたくない、泥臭いとこだからね。でも、ナマエは見てた。見て、知ってて、それを当たり前みたいに言ってくれた」

 彼の瞳が、真剣な色を帯びていく。

「……嬉しかった、ていうか……なんか、調子狂ったんだよね。他の誰でもない、ナマエにそれ言われたのが、すげえ、グッときて」

 繋がれた手に、力がこもる。

「それで、つい舞い上がってさ。口が滑ったって真っ赤になってるのが可愛くて。そんなナマエを見てたら、俺までわけわかんなくなって……気づいたら、言ってた」
「……!」
「『本気なんだと思う』って。思わず漏れちゃって。……今思うと、最高にダサいよね、あの時の俺」

 彼は自嘲するように笑った。でも、私には分かった。あの日の彼の、ぎこちない笑顔の理由が。混乱していたのは、私だけじゃなかった。彼も、溢れ出した自分の気持ちに、戸惑っていたんだ。
 あの日の謎が、今、するすると解けていく。点と点が線で結ばれるように、彼の本当の気持ちが、私の心に流れ込んでくる。

「これが、俺の答え。好きなの自覚したのは、ナマエが俺の知らないところで、俺の一番隠したい部分も、頑張りも、全部見ててくれたって知った瞬間」

 彼は少し照れくさそうに笑いながら「なんか思い出すと恥ずかしいねー」といつもの調子を取り戻すように言う。
 私はといえば、胸がいっぱいで、何も言えなかった。

「……で、ナマエちゃんは? 俺のこと、いつから好きでいてくれたの?」

 今度は私が聞かれる番だった。まさか自分も答える立場になるなんて思ってなかったので、動揺で声が上擦る。

「わ、私?」
「なにー? 聞き逃げはなしでしょ」

 悪戯っ子のように目を細めて顔を覗き込んでくる。こういう時の及川は、絶対折れない。私は観念して俯きながら小さな声で答える。

「……えっと、好きだって自覚したのは、本当にこの前なの。大晦日のときにも言ったけど、怖くて、及川の気持ちから逃げてたから……考えないようにしてたんだと思う」

 我ながら、なんて情けない答えだろう。

 でも、彼の穏やかな眼差しに見守られていると、もう少しだけ、正直な気持ちを伝えたくなった。心の奥底にしまっていた、本当の始まりを。

「でも……気になったのは、もっとずっと前から、かもしれない。クラス替えで、初めて及川をちゃんと見た時、すごいなって、思ったの」
「…なにが?」
「……指が」
「は? 指?」

 きょとんとした声に、私の心臓が跳ねる。やっぱり変なことを言ったかもしれない。でも、もう止まれなかった。

「指が、綺麗だなって……。細くて長いけど、骨張ってて、爪の形も綺麗で。でも、ただ綺麗なだけじゃなくて……。その指が、ずっと、バレーボールに触れてきた指なんだって、一目で分かったの」

 及川が、歩みを止める。手を繋いでいる私も、必然的にその場に立ち止まるかたちになる。
 恥ずかしさで及川の顔が見れなくて。すると、視界に二人の重ねた手のひらが入ってきた。
 どうしようもなく惹かれたこの指が、今は私だけに触れている。

「すごいなって思った。何かひとつのことに、自分の人生をかけて打ち込めることが。私には、そういうものが無かったから、キラキラして見えた。……だから、私の及川への本当の意味での第一印象は、それかな。その頃から、気にしないようにはしてたけど、多分ずっと心の奥で気になってたんだと思う」

 自分でも何を言っているんだろう。熱に浮かされたみたいに、ずっと胸の内に秘めていた想いが、言葉になって溢れていく。

「…………」
「…………」

 長い沈黙が落ちる。

 ああ、やっぱり引かれたかもしれない。気持ち悪いって思われたかも。不安に押しつぶされそうになった時、不意に彼が、繋いでいる私の手を、きゅっと握りしめる。
 恐る恐る顔を上げると、及川は何かに動揺したように瞳を揺らしていた。ややあって、長いため息とともに、いつもよりトーンの低い声が聞こえてきた。

「……はあ〜……最悪」
「え……?」

 最悪? 何が?
 私の頭は疑問符でいっぱいになって首を傾げる。

 及川の顔には、いつもの余裕のある笑みも、からかうような悪戯な光もなかった。ただ、溢れる感情を映した瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。

「え……あの、及川……?」
「……無理。我慢すんの、ほんと無理」

 戸惑う私に、彼は絡めていた指を解くと、私の腕をぐっと引き寄せた。
 あっという間に、彼の胸の中に閉じ込められる。すぐ目の前には、彼のコートのボタン。そして、彼の心臓の音が、どく、どく、と大きく響いているのが聞こえた。

「……ナマエ、ほんと、ずるいよ」

 耳元で、絞り出すような彼の声がする。

「え?」
「……俺、ずっと余裕ぶってたの。ドキドキしてるのバレないように。……なのに、さ」

 何が、と問い返す暇もなかった。
 一拍置いて、彼が少しだけ身体を離す。そして、私の頬に手を添えて、真正面から見つめてきた。その瞳は、どうしようもなく揺れている。

「あんなこと言われたら、耐えられないよ」

 そして、迷うことなく、その唇を重ねてきた。

「んっ」

 突然のことに、頭が真っ白になる。

 雨の日に戸惑いながら受け入れたキスとも、ロッカールームで無理やり奪われたキスとも違う。
 ただ触れるだけの、優しい口付け。でも、そこからは、言葉以上に「大切にされている」ことが伝わってきて、胸の奥がきゅう、と締め付けられる。

 唇から、彼の体温がじんわりと伝わってくる。その温かさに安心して、強張っていた肩の力が、ふっと抜けた。

「……ん…」

 思わず漏れた小さな声は、冬の空気に溶けて消えた。
 触れ合う唇の熱が、冷えた体を芯から温めていく。一日中、隣で感じていた彼の温度が、今、最高潮に達したような気がした。
 ゆっくりと唇が離れていく。名残惜しくて、すぐに目を開けられないでいると、ふわりと、額に優しい感触がした。

 瞼を上げて、潤んだ瞳で彼を見つめることしかできない私に、及川は、まるで熱に浮かされたみたいに、とろりとした甘い声で言った。

「……ごめん。でも、ナマエが可愛すぎるのが悪い」

 彼の額が、こつん、と私の額に合わさる。
 至近距離で、彼の熱っぽい瞳が私を射抜く。

「……はー……。やっちゃったな、俺」

 彼は深いため息をつくと、観念したように笑った。

「あんなの反則だよ。俺のこと、見てくれてたとか……そんなの言われたら、そりゃ、触れたくなるに決まってるじゃん」

 それは、全部、私のせいだと言わんばかりの、甘い甘い、言い訳。
 でも、そのどうしようもなく自分勝手な言葉が、彼の本心なのだと分かってしまって、私の心臓は、もうはち切れそうなくらいに鳴り響いていた。

「……ねえ、ナマエ」

 とろりとした、甘い声が耳に届く。

「今日デートして、俺のこと、もっと好きになった?」
「……バカ」

 やっとのことで絞り出した声は、恥ずかしさで掠れて震えていた。

「はいはい、バカで結構です」

 彼は私の意地を張った態度に心底満足そうに笑うと、そっと大きな手のひらで私の頬を撫でる。

「あはは、ナマエ、顔、真っ赤」
「……誰のせいだと、思ってんの…」

 やっとのことでそう言い返すのが精一杯で、私は俯いてしまう。もう、彼の顔をまともに見ることができなかった。
 そんな私を見て、及川はくすくすと楽しそうに笑うと、もう一度、優しく私の手を握った。

「…じゃあ、また明日、学校で」
「……うん。送ってくれて、ありがとう」
「どういたしまして」

 家の明かりが見える。そろそろ本当に離れなければいけない。ほんの数メートルの距離が、今はすごく遠くに感じる。

 離れたくないと思ってしまった。もっと彼のそばにいたいと。こんなに自分が及川を好きだなんて。

 彼と触れている手のひらの温度は、私の思考を蕩かすほどの熱を、絶え間なく与え続けていた。

繋いだ手から伝わる



メランコリー