校門に寄りかかって、空に向かって白い息を吐く。あたりはすっかり暗くなって、冬の澄んだ空気の中、頭上では満天の星が瞬いていた。
 図書館や教室で、開放時間ギリギリまで勉強をし、及川から部活が終わったと連絡が届いたのを確認して校門で待つ。
 それが、私と及川の付き合ってからの放課後のルーティンになっていた。

「お待たせ」

 やがて、チームジャージを身にまとった姿の及川が、少し弾んだ息で前に立つ。そして私の首に巻かれたマフラーにためらいなく、そっと手を伸ばした。

「…ん。マフラー少し捩れてるよ」

 直してくれる手つきは、あまりにも優しく手慣れていた。その距離の近さに、やっぱりまだ少しだけ心臓が跳ねる。

「あ、ありがと」
「どーいたしまして。まったく、ナマエは俺がいないとダメなんだからー」

 悪戯っぽく笑う彼に「別にそんなことない」とそっけなく返してしまう。けれど、そんな強がりとは裏腹に、彼の、その当たり前のような気遣いが、冷えた身体にじんわりと灯りをともすようだった。

「おーおー、やってるねぇ、お二人さん」

 不意に投げられたからかいの声に振り向けば、口の端を意地悪く持ち上げた花巻と、その後ろで静かに佇む松川がいた。二人とも、及川と同じジャージ姿だ。

「どこの少女漫画だよ、マフラー直しって」
「少女漫画の主人公は、もうちょっとマシな男を選ぶと思うけどな」

 飄々と笑う花巻に、松川がポーカーフェイスのまま淡々と続ける。

「は!? ちょっとまっつん、それどーいう意味!?」

 案の定むくれる及川に、「言葉通りの意味ですが?」と松川がさらりと返答する。

「ひどい! ナマエからもなんか言ってやってよ!」

 私に同意を求めるように、及川が肩に腕を回してくる。不意打ちに近づいたこちらを見つめる整った顔に、身体がこわばってしまう。

「え、えっと……」

 言葉に詰まった私を助けたのは、地を這うような低い声だった。

「…てめぇら、いつまで校門でイチャついてんだ。さっさと帰んぞ」

 呆れ果てたような、岩泉の声。ポケットに手を突っ込み、顎をしゃくる姿には、少し威圧感がある。でも、そのぶっきらぼうな言葉の裏に、不器用な優しさが隠れていることを、私はよく知っている。

「ねえ、岩ちゃん聞いてよ、この二人、俺たちの愛の語らいを邪魔すんだよ?」
「知らねぇよ。お前らが道塞いでて邪魔なんだよ」

 岩泉は及川を一瞥すると、はぁ、と深いため息をついた。そして、矛先が私に向く。

「ミョウジも、こんなめんどくせぇ男のどこがいいんだか……。まあ、なんかあったら言えよ。こいつがアホなことしたら、俺が締めとくから」

 その真っ直ぐな言葉に、どきりとする。しかしその声には、彼なりの気遣いが含まれているように感じて、小さく頷いた。

「ちょ、岩ちゃん! 俺の彼女に変なこと吹き込まないでくれる!?」

 及川が慌てて割って入る。その口から当たり前のように飛び出した「俺の彼女」という甘い響きに、また耳が熱くなるのを感じた。

「事実だろーが」
「事実じゃありませーん!」

 いつもの応酬が始まる。長引くやり取りになるのを察した花巻が「ほら、帰るなら一緒に帰ろうぜ」とパン、と手を叩いて皆を促した。

 街灯の光だけがやんわりと灯っている歩道を、五人で並んで歩き出す。私の隣は、当たり前のように及川の定位置だ。「寒くない?」「荷物持とうか?」と何度も尋ねてくる彼の分かりやすい優しさが、今はただ素直に嬉しい。
 花巻や松川は、そんな私たちを時折からかいながらも、普通に学校の話やプライベートの話を私にも振ってくれる。岩泉は、相変わらず及川には厳しいけれど、私が話すと、相槌を打つ声が、ほんの少しだけ柔らかくなる気がした。

 彼らの中に、及川の「彼女」として自分がいる。その事実に、まだ少し戸惑いながらも、じんわりと温かい気持ちが広がっていくのを感じていた。

「じゃ、俺らこっちだから」

 交差点で、三人が手を振る。

「はーい、また明日ねー」
「ナマエちゃん、及川がチャラチャラしてたら教えてねー。俺も岩泉と一緒に及川締めるの手伝うからねー」

 最後まで楽しそうに及川をからかう花巻の声に、及川が「誰がチャラチャラだ! 心配ご無用でーす!」と大声で応戦している。その背中を見送ると、さっきまでの賑わいが嘘のように、ふっと辺りに静寂が下りた。街灯の白い光と、ひんやりと澄んだ冬の空気だけが、私たちを包む。

「……なんか、ごめんね、みんな騒がしくて」

 及川が、少しだけバツが悪そうに言った。

「ううん、大丈夫。本当仲良いよね」
「…まあね。でも、ほんと、あいつらの言うこと真に受けないでよ? 俺は、ナマエ一筋だから。絶対に」

 不意に真顔になり、念を押すように告げられる。その真剣な声に、また顔が熱くなった。

「……知ってるよ」

 そう小さく呟くと、彼は嬉しそうに目を細め、私の手をポケットから出した彼自身の大きな手でそっと包み込んだ。

「帰ろっか」
「うん」

 手袋越しでも、繋がれた手から伝わる、確かな温もり。隣を歩く彼の、大きな存在。周りのみんなにも認められた、この新しい関係。そのすべてが、私の心を芯からじんわりと温めてくれるようだった。
 しばらく二人で他愛ない話をしながら夜道を歩く。不意に、繋がれた手にきゅっと力がこもった。見上げると、私の視線に気づいたらしい及川が足を止める。その瞳は、何かを探るようにじっと私を見据えている。

「ねえ、ナマエ」
「ん?」
「俺さ、今日、ちょっと面白いもの見ちゃったんだよね」

 あまりに唐突な言葉に、思わず首を傾げる。いつもの悪戯っぽい笑顔はない。真剣で、どこか探るような、知らない光が彼の瞳の奥に揺れていた。

「……え? なに、急に」
「昼休み、呼び出されてどっかの誰かさんに熱烈な告白されてたでしょ。大変だったんじゃない? しつこくなかった?」

 問いかけられた内容に心臓が跳ねた。その言葉の端々には、あからさまな棘が潜んでいる。

「……べ、別に、しつこくなんて…」

 驚きと気まずさで言葉が詰まる。
 確かに、今日の昼休み、違うクラスの男子に空き教室に呼び出されて告白を受けた。まさか、あのやり取りを及川に見られていたなんて。

「……で? なんて言って断ったの? 俺っていうパーフェクトな彼氏がいるのに、言い寄ってくるなんて、よっぽど度胸があるやつみたいだけど」

 口調は淡々としていたが、その声には焼けつくような嫉妬が隠れていた。

 今日の昼休みの出来事が、頭の中でゆっくりと再生される。
 相手は、同じ保健委員会に所属している男子。普段から挨拶を交わす程度だったけれど、誰にでも分け隔てなく優しい印象のある人だった。
 まさか、そんな風に見られていたなんて思いもしなかったし、彼の声が少しだけ震えていたことを思い出すと、今でも少し胸の奥がひりつく。もちろん、彼のことは異性とか、そういう目で見たことは一度もなかった。

 そして、彼はどうやら、私が及川と付き合っていることを知らなかったらしい。

「……『ごめんなさい、彼氏がいるから』って……ちゃんと、そう言ったよ」

 そう伝えた瞬間のことを思い出す。彼はほんの一瞬だけ目を見開いて、それから静かに苦笑していた。
 驚きと、それなら仕方ないなと飲み込むような表情に、申し訳なさが込み上げて、私は小さく頭を下げることしかできなかった。

「ふーん。まあ、当然だよね」

 及川は私の返答を聞くと、わずかに強張っていた表情を緩め、私の頭を「よくできました」とでも言うように、ぽんぽん、と撫でた。その上から目線な態度に少し悔しくなって、口を尖らせる。

「……妬いたなら素直に言えば良いのに」

 私の言葉に、及川は「は?」と、一瞬だけ素で虚をつかれたような顔をして、それからすぐに面白がるような、挑戦的な笑顔に戻る。

「なんで俺が妬く必要あんの? ナマエが俺以外を選ぶわけないって、俺が一番よく分かってるし」

 そう言って笑う彼の瞳が、ほんの一瞬だけ、わずかに揺れた気がした。

「それともなに、俺の知らないところで心が揺らいだりしちゃったわけ?」

 自信満々な笑顔の奥で、私の答えを待つ真剣な瞳が光る。強がりの鎧の下に隠されているそれに気づいてしまったら、もう彼をからかうことなんてできない。

「……そんなわけ、ないでしょ」
「じゃあ、証明してよ」

 端正な顔が間近でこちらを覗き込んでくる。マフラーの隙間から、吐く息が白いモヤになって空へ上がる。彼の筋の通った高いところにある鼻の先が、少し赤くなっていた。

「俺が、安心できるみたいにさ」

 命令するような強い口調の最後に、ふと付け加えられた本音。

 恥ずかしさと、意地を張りたい気持ちが胸の中でせめぎ合う。でも、彼の瞳の奥に渦巻く、隠しきれない独占欲と、ほんのわずかな脆さを見つけてしまったら、もう降参するしかなかった。
 普段誰よりも自尊心が高い彼の、こういう弱さが垣間見える瞬間に、私はめっぽう弱い。

「…………及川より好きになれる人なんて、いないよ」

 いまの気持ちを正直に白状すると、彼は一瞬きょとんとした後、すぐに「でしょ!」とばかりに、ようやく安心したように笑った。機嫌を直した彼の横顔を見て、なんだか愛おしくなって、私はくすりと微笑む。

「及川って、意外と心配性だよね」

 からかうように言うと、及川はぎろりとこちらを睨む。でも、その目にはさっきまでの険しさはなく、拗ねた子供のような色が浮かんでいた。

「……別に。普通でしょ、これくらい」
「…そうかなあ?」
「そうだって。大体、ナマエが無防備すぎるのが悪い」
「ええ? 別に無防備じゃないんだけど」
「ていうかさ、俺っていう彼氏がいるのに、他の男に告白される隙を与えないでくれる? …こっちの心臓に悪いんだけど」

 最後は、ぼそりと呟くような、少しだけ弱気の混じった声だった。その可愛らしい拗ね方に、私はさらに言葉を重ねた。

「でも、及川の方が私なんかよりずっとモテるじゃない」

 すると彼は、むっとした顔のまま、繋いだ私の手をぐっと自分の方へ引き寄せた。

「……それとこれとは話が別なの。俺がモテる話は今してないでしょ」
「え、なにそれ。ずるくない?」
「いい? たとえ俺がどれだけモテたって、俺はナマエしか見てないわけ。分かるでしょ?」

 ぐっと顔を近づけられ、彼の瞳が私を射抜く。

「だからナマエも、俺だけ見てなきゃ、許さないからね?」

 子供じみた独占欲の末に出たその言葉は、あまりにも甘くて、そして有無を言わさない、命令みたいな言葉だった。
 その真っ直ぐな台詞に、もう何も言い返せない。心臓がうるさいくらいに鳴っている。敵わないな、と心の中で白旗を上げた。

「……及川しか、見えないよ」

 やっとのことで絞り出した私の答えに、及川は満足そうに微笑んだ。夜道で薄暗いのをいいことに、彼は私の腕をさらに強く引き寄せ、こめかみに触れるだけのキスをする。

「ふふ、ほんとかわいい」

 柔らかい声が、蕩けるような甘さを含みながら耳に届いて肌が粟立つ。真っ赤になって俯く私に、すっかり機嫌を直したらしい及川が、ふんふんと鼻歌を歌いながら手を繋いだまま歩き出した。

 冬の夜道の空気はまだ肌を刺すように冷たいけれど、私の心は、彼の不器用な愛情で、陽だまりの中にいるみたいに温かかった。

白い息と、熱い本音



メランコリー