二月の空気はまだ肌寒く、校門に寄りかかる私の唇から漏れた息が目に見える白い靄となって空へ登る。
部活が終わったという及川からのメッセージを受信したスマホを手にしていると、私の目の前に影が差した。
「ナマエ、お待たせ。ごめんね。ミーティング、思ったより長引いちゃった」
顔を上げると、整いすぎた顔立ちが、首をこてんと傾げて私をを見下ろしていた。
「ううん、おつかれさま」
「ん、ありがと。帰ろっか」
そう言って差し出された手を取ると、及川は満足げに目を細めた。
私と及川が付き合い始めて、約一ヶ月になる。
相変わらず意地悪く笑ってからかってくる時が多いけれど、ふとした瞬間に向けられる眼差しや、名前を呼ぶ声には、付き合う前にはなかった甘さが滲んでいた。
私が人目を気にして距離を取ろうとすると、「えー、なんで?」と子供のように駄々をこねるくせに、決して本気で困らせることはしない。自己中心的に見える彼の、そんな気遣いを見えるところも愛おしいと思ってしまう。
毎日、彼への好きが自分の中から、止めどなく溢れていくようだった。
「今日の練習試合さー」
隣で楽しそうに話す及川の声を聞きながら、私たちは並んで、家路についていた。
その時だった。
少し先の公園の入り口に、同じ学校の制服を着た集団がいる。立ち止まってお喋りに花を咲かせていたらしい女子グループが、私たちに気づいてぴたりと会話を止める。
彼女たちの視線が、まず及川に注がれ、きらきらとした憧憬の色を帯びている。そして、その視線はスライドするように私の元へやってきて、温度を失った。
まるで値踏みでもするかのような、無遠慮なそれに変わる。
すれ違いざま、私にだけ聞こえる声量で伝えられた言葉が耳に届く。
「……なんであの人が?」
心臓が、小さく軋む。そのあとに続く言葉も、よく理解している。
──なんであの人が及川さんの彼女なの?
聞こえないふりをして、俯きかけた私の手を、及川がぎゅっと握り直した。
「ナマエ? どうかした?」
彼は私の些細な変化を気にかけてくれる。その優しさが嬉しくて、同時に胸を締め付けた。いまの言葉は、及川には聞こえてなかったらしい。本当に良かった。
「ううん、なんでもないよ」
笑顔で首を横に振る。彼にこんな些細なことで心配をかけたくなかった。彼のバレーの邪魔になるような、そんな存在にだけはなりたくない。
──最近、こんな風に棘のある言葉や眼差しを受けることが増えたと感じている。
元々、体育大会や修学旅行など、及川が私へのアプローチを周りの目も気にせず続けていたこともあり、クラスだけでなく他のクラスや学年にも、私たちが付き合い始めたことが広まるのは早かった。
そのおかげで、友人たちは祝福の声をかけてくれるし、及川も嬉しそうな顔でいつもそれに応えていた。
けれど、強い光が濃い影を作るように、好意的な声援の裏側では、及川に好意を寄せる女の子たちからの嫉妬の視線が、常に私に突き刺さっていることを段々と実感するようになった。
隣で無邪気に笑う彼の横顔を見上げる。この笑顔を守れるなら、私がすべて飲み込んでしまえばいい。
これくらい、覚悟してる。人気者の及川と付き合うということは、こういう視線も、噂も、全部引き受けるということだ。そう自分に強く言い聞かせる。
そう、固く決意したはずだった。この時、私はまだ知らなかったのだ。
うっすらと漂い始めた仄暗い霧が、すぐそこまで濃く、深く、立ち込めてきていることを。
△
私の決意は、想像よりもずっと早く、そして脆くも崩れ去ることになる。変化は、静かに、だが確実な悪意を持って訪れた。
始まりは、一通の手紙だった。放課後、自分の下駄箱を開けると、ひらりと見慣れない白い紙が落ちた。ノートの切れ端のような、雑に切られた紙切れを拾い上げる。そこに綴られていたのは、簡素な、けれど冷たい文字だった。
──『別れろ』。
たった一行。それだけなのに、心臓を直接氷で撫でられたような衝撃が走った。震える手で紙を鞄の奥に押し込む。ぐしゃりと、軽い音が握った手の中から聞こえた。
先程の文字が示唆する内容はただひとつ。
"及川と別れろ"。こういうことだろう。
(誰が? いつ? どうして?)
ぐるぐると疑問が渦巻くが、答えなど私のなかにあるはずもない。それからだった。身の回りで、小さな棘のような嫌がらせが始まったのは。
廊下を歩いていると、突然背中をドンと押されて、前につんのめる。驚いて振り返っても、人通りが多くて誰がやったのかはわからなかった。他の学年もよく利用する場所にある女子トイレに行けば、すれ違いざまに舌打ちをされることもある。
そしてある日の体育の後、女子更衣室で着替えようとした時、制服のリボンがないことに気づいた。体育の授業を受けている間に、他のクラスの誰かがこっそり持ち去ったのだろう──そんな確信めいた直感が胸をよぎる。
「どうしたの?」と心配そうに声をかけてくれる友達に、「大丈夫」と笑ってなんでもないような顔を作る。
だけど、胸の奥が、じんわりと冷えていくのを感じていた。
少しずつ、及川と二人でいることを苦しく思う自分がいた。彼の隣は、本来なら何よりも安心できる場所のはずなのに。今はまるで、自分がそこにいることが「罪」であるかのように感じてしまう。
(私が隣にいるせいで、及川まで悪く言われるかもしれない……)
私が、彼の輝きを曇らせてしまうかもしれない。その思いは澱みとなって私の心の奥の奥を汚していく。
私は自然と、彼を避けるようになっていた。
朝は委員会の役割があるからと登校時間をずらし、休み時間に入ればすぐに教室を出ていく。彼からの「一緒に帰ろう」という誘いも、「しばらく家の用事があるから」と嘘をついて断るようになってしまった。
もちろん、誰よりも目敏い及川がその変化に気づかないはずがない。けれど、私が頑なに「なんでもないよ」と繰り返すうち、彼は少し困ったような、寂しそうな顔をするだけで、それ以上は踏み込んでこなかった。嘘をついている罪悪感が、ますます私を追い詰めていく。
本当は、彼の胸に飛び込んで泣いてしまいたいのに。
そんなことが一週間程度続いた、ある日の放課後のことだった。
体育館の出口で、私は壁に寄りかかりながら、練習を終えた及川が出てくるのを待っていた。
誰にも見られませんように、と願いながら、マフラーに顔を埋め、足元を見つめる。
本当は今日も断るつもりだったのに、「今日こそ一緒に帰りたい。お願いだから待ってて」と、有無を言わさぬ強い口調で言われてしまったのだ。
やがて、及川が岩泉と一緒にこちらへやってくるのが見えた。
「ナマエ!」
遠くから私を見つけ、パッと顔を輝かせる及川。私は、力なく笑い返すことしかできない。その、私の一瞬の表情の翳りを見逃さない、鋭い目がすぐ近くにあった。
「着替えてくるから! そこで待ってて!」
及川が部室へ向かって走り出した後、岩泉が私の前で足を止めた。
「……お前、及川のこと嫌いになったのか?」
唐突な問いに、弾かれたように顔を上げる。頭を過ったこともないその言葉に、咄嗟に何度も首を振る。
「そ、そんな…こと、ない…」
喉の奥からようやく絞り出した言葉は、息にまぎれて消えそうだった。
「そっか。なんか最近暗い顔してっからよ。及川も、心配してたぞ」
岩泉の声はまっすぐで、変に気を遣ったところがない。その率直さが、かえって胸に沁みる。私はふっと目を伏せて、小さく息を吐いた。
「……大丈夫だよ。ありがとう」
口元だけで笑ったつもりだったけれど、ちゃんと笑えていたかはわからない。
「無理に聞くつもりはねぇ。けど、前にも言ったけどな、及川はお前を誰よりも大切にしてる。だから、お前はアイツを信頼してもっと頼ってもいいんだからな」
(岩泉……)
私のことを、気にしてくれる人がいる。それだけでここ数日のつらい出来事から救われるような気がした。
けれど、今ここで私の悩みを岩泉に伝えたら、優しい彼はきっとすごく怒って、そして私の今の状況を及川にも伝えるだろう。それだけは避けたかった。
私がしばらく耐えて、見えない相手が私に関わることに飽きてくれたら、そっちのほうがずっと良かった。
誰かに頼るということが、こんなに怖いなんて、私は知らなかった。
「……」
ここまで言われても口を割らない私を責めたり詰めることをしない岩泉は、気まずい空気を切り替えるようにゆっくり息を吐いた。
「まあとにかく、無理すんなよ」
「……ありがとう、岩泉」
ようやく、自分の気持ちをちゃんと声にできた気がした。
「ああ」
彼はそれ以上何も言わず、静かに頷く。
「ちょっと岩ちゃん! 二人っきりで何の話!?」
拗ねたような声が部室棟の入口から響いてくる。振り返れば、及川がこちらに駆け寄ってきていた。よっぽど急いで出てきたのか、いつも隙なく整えられている彼にしては珍しく、髪はまだ汗で少し濡れていて、制服の第一ボタンが外れたままだ。
「うっせぇな。及川ウゼェって話だよ」
ぶっきらぼうにそう返しながら、岩泉はさっさと背を向ける。その背中が、妙に頼もしく見えた。
「絶対違うよね!?」
及川はふくれっ面で私と岩泉を交互に見つめ、わざとらしく肩をすくめてみせる。その仕草に、思わず少しだけ、口元がゆるんだ。
及川と並んで歩く帰り道。こうやって二人で帰るのはたった数日ぶりなのに、まるで何年も離れていたような気持ちになる。
すっかり夜の帳が下りた通学路は、吐く息の白さだけが目立って、空気がやけに静かだった。
「岩ちゃんと、何話してたの?」
横から投げかけられた声は、軽くて、いつも通りの調子。でも、ほんの少しだけ——ほんの少しだけ、慎重に私の答えを探るような声に聞こえた。
「…いや、たいしたことじゃないよ」
いつものように笑って返す。つもりだった。
でも声が少し遅れて出てしまって、自分でも動揺を誤魔化しきれてないのがわかった。
「……そっか」
それっきり、及川は何も聞いてこなかった。気にしていないふりをして、前を向いたまま歩き続けている。その沈黙が、妙に気まずくて、私はマフラーの端を指でいじりながら、俯いたまま歩き続ける。
本当は、今こそ話すべきなんだって、わかってる。でも、言葉にしてしまったら、きっと及川は苦しむ。自分へ好意を持っている人間が、彼女である私を傷つけていると知ったら、悲しむだろう。彼にそんな思いをさせるくらいなら、私が耐えたほうがいい。
「……寒くない?」
ふいに、及川がそう言って、自分のポケットの中に入れていた手を差し出してきた。
本当は、寒さなんかより、泣きつきたい。抱きしめてほしい。そんな弱音の代わりに、返事をした。
「寒い…」
小さく頷いて、そっと自分の手を重ねる。彼は、繋いだその手にそっと力をこめながら、それ以上何も言わなかった。
無言のまま、ただ帰路を歩く。だけど、彼の歩幅が少しだけ私に合わせてくれているのが分かった。
沈黙の中で、心だけがそっと寄り添っているような気がした。