あの二人で久しぶりに一緒に帰った日以来、及川は、私への態度こそ変えなかったが、その視線には常に心配の色が混じるようになった。
 だけど、嫌がらせは、いつも彼の見ていない場所で、巧妙に行われた。大騒ぎするほどではない。けれど確実に心を削るような小さな悪意の積み重ね。
 そして何より、私が及川に相談できない性格だと見透かした上でのやり方だった。それがまた、余計に私を苦しめる。及川を避けるような行動は、やめることは出来なかった。

 そんなある日、登校して下駄箱に靴を入れようとした時、小さな紙切れが入っていたことに気づいた。嫌な予感は当たるもので、そこには以前と同じノートの端を破ったような紙に、手書きで一言書かれていた。

 ──『放課後、西棟の空き教室に』。

 断るという選択肢は、なぜか思い浮かばなかった。ここで逃げたら、私は本当に及川の隣にいる資格を失ってしまうような気がしたのだ。

 約束の場所へ向かうと、教室には三年の先輩と、その取り巻きらしき数人が、私を待ち構えていた。中心に立つ先輩は、綺麗に整えられた髪を指先に巻き付けながら、品定めするような目つきで私を一瞥した。
 及川の、元カノだと言われている人だった。

「わざわざ呼び出してごめんね。でも、どうしても言っておきたくて」

 ね、と彼女が周りに同意を求めると、取り巻きたちがクスクスと笑う。

(この人たちが……)

 ここ数日、激しくなった嫌がらせも、制服のリボンを隠したのも、下駄箱に手紙を入れたのも、この人たちなのだと一瞬で悟った。

「単刀直入に言うけど、徹と別れてくれないかな。あなたじゃ、あの子の隣は務まらないよ」
「……」
「徹って、次から次へと新しいものが好きになるけど、結局は使い慣れたものが一番落ち着くタイプなの」

 侮辱と、憐れみが混じった言葉。彼女は、自分が及川にとっての「一番」であり「特別」なのだと、その言動の端々で誇示してくる。

「それにね、私が彼の“初めて”だったの。全部。その意味、あなたでも分かるよね?」
「………っ」

 その、過去を武器にした言葉が、私の心を抉っていく。

(分かっていた、のに)

 及川が私と付き合う前に彼女がいることなんて、周知の事実だ。私だって、及川が全部初めてなわけではない。それでも、及川が私の目の前の人を好いていた時があるということに、醜い嫉妬をしてしまうのも本当で。
 俯いて、ただ拳を握りしめるしかできない。

 黙りこくる私に対して、先輩が苛ついたように腕を組んで見下ろしてくる。

「ちなみにあの子のことは私が振ってあげたの。恋人よりも部活優先なんて、子供みたいな男に付き合ってあげるほど、暇じゃないから」

(酷い…)

 この言葉を、目の前の人は及川に浴びせたのだろうか。彼女の声は少しも震えていない。この人は、本気でそう思っているのだ。
 いつか、及川と一緒に帰った放課後に、彼がぽつりとこぼした言葉を思い出す。

『何人か付き合ったことはあるけど──大体、最後は振られるんだよねえ』

 本気で誰かと向き合うのが、少し怖いのだと、彼は寂しそうに笑っていた。
 目の前の彼女は、その被害者でもあるのだろうか。それとも、彼女の、及川の上辺だけを見るその眼差しが、彼にあんなことを言わせるきっかけになったのだろうか。

 彼女は、無言で向き合う私に嘲るような口調のまま、淡々と続ける。

「それなのに、あなたみたいな子に必死になってるって聞いて、笑っちゃった。よっぽど焦ってるんじゃない、徹も。今まで相手にもしなかったタイプの子にまで手を出すなんて」

 先輩は一度言葉を切ると、ふいに面白そうに口の端を吊り上げた。両隣にいる人たちは口を出さないまま、だけど心底おかしそうに微笑んでこちらを見ていた。

「……なんていうか、ごめんね。あなたが隣にいるところを見ると、つい、徹が苦し紛れに誰かを選んだのかなって、思っちゃって。気のせいならいいんだけど」

 その目は、こちらを気遣うようにわざとらしく細められている。

(……何も知らないくせに)

 そう思っても、心のどこかがキリキリと痛む。たしかに私は、及川の隣にふさわしいのか、自信がない時もあった。だからこそ、彼女の口ぶりが、余計に胸に刺さってしまったのだ。

「だから気が変わったのよね。ちゃんと吊り合える私が、また徹の隣に戻ってきてあげることにしたの」

 まるで、自分の気まぐれで、他人の運命を左右できると信じて疑っていない声。そうやって、すべて好きなように動かしてきたのだろうか。
 不愉快で、思わず眉間に皺が寄った。

「想い合ってるつもりでしょうけど、あなたは無理よ。どうせあの子の中のバレーに負ける。すぐ飽きられるわ。私なら、今度はもっと大切にしてあげられる。だから、別れてくれない?」

 ──その、瞬間。今まで感じていた恐怖や悲しみが、ふっと消え、代わりに胸の奥から熱い何かがせり上がってきた。
 負けるとか、飽きられるとか、及川にとってのバレーは、そんな次元じゃ無い。及川が、何よりもバレーに尽くしてきた姿を、この人は一度でもちゃんと見たことがあるのだろうか。

 私は、ゆっくりと顔を上げた。

「……そうかもしれませんね。あなたが知っている及川は、そうだったのかもしれない。でも…飽きるかどうかは、あなたが決めることじゃない」

 自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。

「それに、あなたは及川のこと、何もわかってない」
「は……?」
「私は、バレーボールを何よりも大切にする彼を、心から尊敬してます。周りが見えなくなるくらい一つのことに打ち込む彼を、すごいと思います。バレーを最優先する彼に、飽きられるかもなんて、そんなこと、一度も考えたことない。もし、私の存在が、バレーをする及川の邪魔になるっていうなら、私は彼から離れます。…でも」

 私が愛しいと思うのは、あなたが「飽きっぽい」原因として切り捨てた、彼のその不器用なまでの一途さだ。
 及川の生み出す、狂気を感じるほどのバレーへの執着。それは私にとって、何よりも気高く美しいものにしか思えないから。

「いま、及川はバレーも私も同じくらい大切にしてくれてる。だから私は、あなたに指図されて別れたりしません」

 芯の強さ、なんて呼べるほど立派なものじゃない。けれど、これが私の精一杯の覚悟だった。

 先輩とその周りにいる女の人たちが、私の思いがけない反論に呆気に取られて言葉を失う。その静寂を破ったのは、教室の入り口から聞こえた、静かな声だった。

「——その通りだよ」

 そこに立っていたのは、底光りするような怒りをその瞳に宿した及川だった。いつからそこにいたのか、彼はすべてを見ていたのだろうか。
 彼は迷いなく私の方へ歩いてくると、私の隣に立ち、元カノを真正面から見据えた。その声は、凍えるほど冷たい。

「俺が今、大切にしてる女の子は、この子だけ」

 その言葉は、私にではなく、目の前の彼女たちにはっきりと告げられたものだった。

「俺のことをどう思おうが勝手にすればいいけど、あんたが昔の話を振りかざして、この子を傷つけるのは見過ごせない。二度とナマエに近づくな」
「……徹」
「上っ面だけでなんとなく付き合ってた俺も悪いからそれは謝る。だけどそれは、ナマエには関係ない。これ以上、この子を傷つけたら、俺はあんたのことを本気で軽蔑するし嫌いになる」

 それは、もう二度と覆らない、決別の響きを持っていた。及川は私の震える手を取ると、その場に立ち尽くす彼女たちに背を向けた。

「行くよ、ナマエ」

 力強く引かれるままに、私は彼と一緒に、悪意で満たされた教室を後にした。彼の大きな背中と、繋がれた手の温かさだけが、ひどく鮮明だった。

 廊下を歩くとき、彼は前だけを向いていて、何も言わなかった。けれど、その静寂が、彼の怒りの深さを何よりも雄弁に物語っていた。
 その怒りの矛先は、もちろん先輩たちへ向けられたものだろう。けれど、それと同じくらい、及川自身にも向けられているような気がして、私は何も言えなかった。

 どこへ行くのかもわからないまま、私はただ彼に手を引かれるままに歩を進める。
 昇降口まで辿り着いたときにやっと、及川が私の鞄を持っていたことに気づいた。そのまま靴を履き替えて、校舎の外へ出る及川に倣う。

「…鞄、自分で持つよ」

 やっとの思いで消え入るような声音で伝えた一言は、ちゃんと聞こえていたらしい。表情こそ、まだ硬いままだけれど、私に鞄を手渡すその動作には、乱暴さのかけらもなかった。そのことに安堵して、強張っていた肩の力が少しだけ抜けていくのを感じた。

「……今日、部活は?」
「今日は体育館の点検で休み」

 そうだったのか。この数日、お互いのスケジュールを確認する余裕もなかったことに、今更ながら気づく。無言のまま、私たちは歩いた。
 私の手を握る彼の手に、少しだけ力がこもっている。その強さが、彼のやり場のない怒りと、私を案じる気持ちの両方を伝えてくるようで、胸が締め付けられた。
 やがて着いたのは、見覚えのない一軒家だった。

「入って」

 玄関のドアを開け、彼が短い言葉で促す。

(もしかして、及川の家?)

 突然のことに立ち尽くす私に、彼は「いいから」と有無を言わせぬ口調で繰り返し、私は抵抗もできないまま、彼の後を追って靴を脱いだ。そのまま、導かれるように二階へと続く階段を上る。

 通されたのは、い草の香りが満ちている畳の部屋だった。どうやらここが及川の部屋らしい。てっきり洋風のベッドの部屋を想像していたから、少し驚く。
 けれどそこは、思っていた以上に“及川徹”そのものが詰まった場所だった。

 壁際には、バレーの雑誌が並ぶ本棚と、シンプルな長い机。その上には、洗練されたデザインの薄い銀色のパソコンモニターが置かれている。壁に掛けられた青葉城西と北川第一のユニフォーム。部屋の隅には、きちんと畳まれた布団。
 そして、畳の上には、まるで主の帰りを待っていたかのように、ぽつんとバレーボールが一つ転がっていた。

「そこ、座って」

 私が力なくクッションに座ると、及川はそのすぐそば、畳まれた布団の上に腰を下ろした。そして、片足を立て、組んだ両手の先の指先をじっと見つめた。
 重い沈黙が流れる。しん、とした張り詰めた空気の中、時計の針の音だけがやけに大きく響いた。

「……いつから?」

 静寂を破ったのは、低く抑えられた彼の声だった。その一言を合図にしたかのように、堪えていたものが、とうとう堰を切る。

 ぽろぽろと涙がこぼれ落ち、言葉にならない声が喉から漏れた。怖かったこと。下駄箱の手紙や、陰口、更衣室でリボンを隠されたこと。そして何より──及川に心配をかけたくなくて、負担になりたくて、ずっと一人で抱え込んでいたこと。

 途切れ途切れの拙い告白を、及川はひとことも口を挟まず、ただ真っ直ぐな瞳で聞いてくれていた。
 すべてを吐き出し終えた頃、彼はそっと立ち上がると私の隣に座り、震える身体を、強く、でも硝子細工に触れるかのように優しく抱きしめてくれた。及川の胸に押し付けられた私の頬から、彼の体温と、いつもの柔らかなシャンプーの香りが染み込んでいく。

「……なんで言ってくれなかったの」

 彼の声は、私を咎めているようで、それ以上に、何もできなかった自分を責めるような、後悔と苦しさに満ちていた。

「俺、そんなに頼りない? 俺のせいでお前が一人で泣いてる間、俺何も出来なかったんだよ? めちゃくちゃダサいじゃん。……一人で抱え込むなよ、バカ」

 その言葉が心に刺さり、私は彼の制服のセーターに顔をうずめて、肩を震わせた。こんな風に、抱き締めてもらえる日を、ずっと待っていたのだ。
 しばらくして、しゃくりあげながら、さっきからずっと胸の奥に澱みとなって残っていた本音をこぼす。

「……あの人に、私なんかより、自分のほうがずっと及川に吊り合ってるって、特別だって言われた…。私に、嫌な気持ちにさせたいだけって分かってはいたけど……私、及川の隣にいてもいいのかなって…思うときもあったから……」

 言い終えると、及川が呆れたように大きなため息をついた。ふいに身体を離され、涙で濡れた顔を覗き込まれる。

「はぁ? 何バカなこと信じてんの」

 そして、彼は私の目を見つめて言った。

「あのさ、俺、今まで付き合った子、誰一人として家に上げたことないんだよね。自分のテリトリーに、付き合ってる相手を入れるとか、俺の中ではありえなかった。……ここにナマエを入れたのが、初めてだよ」

 少し照れくさそうで、それでいて誤魔化しのない瞳。その瞬間、あの先輩の言葉が嘘だったのだと、“特別”は私なのだと、温かい確信が心の内側に広がっていく。
 再び涙があふれたけれど、もうそれは悲しみからではなかった。

 安堵と幸福感に包まれていると、及川は愛おしそうに目を細める。

「前も言ったけど、俺が好きなのは、ナマエだけ。比べるのは嫌だけど……伝わってる?」
「……うん」

 小さく頷くと、及川がホッとしたように肩の力を抜いたのが分かった。

「つらい思いさせて本当にごめんね。俺がちゃんと守るから」

 そう言って、彼は私の額に、そっと口づけを落としてくれる。

「だから、覚悟してよね。明日から、俺の彼女が誰かって、世界中に見せつけてやるんだから」

 いつもの自信に満ちた、悪戯っぽい笑顔。私は及川の腕の中で、今度はしっかりと、強く頷いた。誰にも邪魔されない彼の部屋で、私たちの心はもう一度、確かに結び直された気がした。
 再び隙間なく彼に抱き締められ、ようやく訪れた穏やかな時間に浸っていた、その時だった。

「ただいまー。徹ー? いるのー?」

 階下から、明るい女性の声が聞こえ、パタパタと階段を上ってくる音がする。私は慌てて及川から身を離した。

「あんたねぇ、帰ってるなら居間の電気くらいつけなさい」

 もしかして、と思った瞬間、返事をする間もなく、部屋の襖がガラッと勢いよく開けられた。
 そこに立っていたのは、及川に面影のよく似た、とても綺麗な女性だった。その人は部屋の中にいる私を認めると、驚いたようにぱちりと目を瞬かせる。そのクリっとした瞳や、少し茶色がかった髪を見て、すぐに確信した。

 ──及川のお母さんだ。

「……っ、こ、こんにちは! お邪魔してます!」

 緊張で裏返った声で頭を下げて挨拶すると、お母さんは「あらー」と柔らかく目を細めた。

「ちょ、母ちゃん! 返事する前に開けんなよ!」
「だってすぐに返事しないんだもん。徹が女の子を連れてくるなんて、初めてじゃない?」

 探るような、でも楽しそうな視線が私に向けられる。お母さんの言葉に、さっき及川が言ってくれた"特別"という意味が形を成していって、胸が温かくなる。

「もしかして、彼女さん?」
「うん」

 及川が、間髪入れずに頷いた。そのあまりに素早い肯定に、私の心臓がまた跳ねる。
 すると、お母さんの表情がぱあっとさらに明るくなった。

「そうなのね! やだ、早く言ってくれればよかったのに! すぐお菓子か何か持ってくるわね!」

 嬉しそうにそう言うと、お母さんは再び階下へと戻っていった。

 その場に残された私たちは、顔を見合わせる。及川は、バツが悪そうに自分の後頭部をガシガシと掻いていた。
 さっきまでの落ち着いた雰囲気の彼とは違う、なんだか年相応の男の子……というより、少し子供っぽいその姿に、思わず笑みがこぼれてしまう。こんな一面もあるんだ、と嬉しく思った。

 すると、私の表情を見た及川が、むっとした顔で近づいてきた。

「……何笑ってんの」
「え?」

 言うが早いか、彼は私の唇に、ちゅ、と軽いキスを落とした。

「ちょっ、お母さんいるから!」
「うるさい。笑ったお返し」

 そう言って、彼は意地悪く笑いながら、何度も啄むようにキスを繰り返す。恥ずかしさを誤魔化しているのが、バレバレだった。
 その時、「お待たせ〜」という声と共に、再びお母さんがお盆を持ってやってくる。私たちは慌ててまた距離を取った。

「ごゆっくり」と、及川によく似たいたずらっぽい笑顔を残していくお母さんに頭を下げる。はぁ〜、と及川がわざとらしく大きなため息をついた。

「せっかく出してもらったし、これ、いただいたら帰るね」

 お母さんが持ってきてくれたジュースを手に取りそう言うと、隣に座る及川が、ふと真剣な顔で私を見つめた。

「ねえ、ナマエ」
「うん?」
「付き合う前にさ、俺に言ったよね。『本気で人と向き合ったことある?』って」

 思わぬ言葉に、心臓が跳ねる。いつかの、帰り道で交わした言葉。
 さっき、先輩たちに立ち向かうために私が胸の中で思い出したあの日の記憶。まさか、及川も同じことを考えていたなんて。

「俺、あの時、正直ナマエが言った言葉の意味、あんまりピンと来てなかったんだよね。けど、今ならわかる。俺、ナマエには本気で向き合いたいって思う」

 彼の瞳は、どこまでも真摯だった。

「これからも、そばにいてほしい。離れていかない努力、ちゃんとやるから」

 本気で向き合うのが怖いと言っていた彼の、あの時の揺れていた瞳とは、全然違う。それは、どんな言葉よりも確かな誓いとして、私の心にすとんと落ちてきた。だから私は、精一杯の笑顔で頷いた。

「私もだよ」

 その返事を聞くと、及川はぎゅっと、私を引き寄せて抱きしめた。思わず「お母さんくるよ!」と焦ってしまう。

「……ちょっとだけ」

 及川の腕の中に閉じ込められると、耳元で彼が満足そうに囁くから。
 私はもう抵抗するのをやめて、その大きな背中にそっと腕を回し、安心させるように、優しく撫でた。





 昨日の出来事が、まだ夢だったのではないかと思う。
 けれど、繋がれた手の温もりも、彼の腕の中の安心感も、すべてが本物だった。

 ──『覚悟してよね。明日から、俺の彼女が誰かって、世界中に見せつけてやるんだから』。

 及川の部屋で囁かれた言葉は、決して大袈裟なものではなかった。翌日から、彼の「見せつける」という言葉が、文字通り実行に移されていくことになる。

 翌朝、私はいつもより少しだけ早く家を出た。吐く息が白く溶けていくのを見届けながら、校門をくぐる。
 昇降口で自分の下駄箱を開け、上履きに指先をかけた瞬間、胸の奥がきゅっと強張る。

 ──何も、入っていない。
 ただそれだけのことなのに、肩から力が抜ける。紙切れ一枚も挟まっていない、その当たり前が、こんなにもほっとさせるなんて。

 安堵の息をこぼし、教室へと続く廊下へ足を踏み入れる。
 けれど、この廊下はまだ、私にとって少しだけ恐ろしい場所だ。昨日まで私を静かに蝕んでいた、あの目に見えない悪意の気配が近づいてきそうで──思わず、歩調が速くなる。

(どうか、もう、何もされませんように…)

 そんな祈るような気持ちで、自分の教室の扉に手をかけた。

「おはよう、ナマエ。今日もかわいいね」

 扉を開けた瞬間、鼓膜を揺らしたのは、甘くて朗らかな声だった。
 声の主を見れば、そこには、とっくに来ていたらしい及川がいた。自分の席で友人と話していたらしい彼は、私の姿を認めると恥ずかし気もなく声をかけてきた。

「へっ!? お、及川!?」
「ん? なあに?」

 驚きと羞恥で顔に熱が集まる私に、彼は涼しい顔で首を傾げる。その背後から、すぐにクラスメイトたちの楽しそうな声が飛んできた。

「出たー、及川の見せつけー」
「朝からごちそうさまです!」

 からかうような、でも温かいその声。
 そうだ、最近は、嫌がらせから逃げるように彼との接触を避けていたから、クラスのみんなとこんな風に話すのも久しぶりだ。たった数日ぶりのことなのに、じんわりと胸の奥が温かくなるのを感じた。
 及川の"見せつける"宣言に伴う言動は、朝だけでは終わらなかった。

 移動教室のときや、休み時間に廊下を歩くとき。彼は当然のように私の隣に立ち、肩が触れそうな距離で並んで歩いた。ときどき何気ない会話を投げかけてきて、その笑顔につられて私も笑ってしまう。

 すれ違う生徒たちの視線が、私たちに向くのがわかる。耳に届く囁きは、以前のような棘のあるものではなく、驚きや興味を含んだ柔らかい声だった。

「及川さん、彼女には、あんな顔するんだ……」
「めっちゃデレデレだね…」

 そんな言葉に、身体中がじんわり熱を帯びる。

 昼休みには、彼が「中庭で食べよ」と言って、校舎の外のベンチへと連れ出してくれた。冬の日差しがやわらかく降り注ぐ中、お弁当の蓋を開けると、彼は隣からすぐに身を乗り出してきた。

「それ、美味しそう。ひと口ちょうだい」
「……自分のあるでしょ」

 そう言いながらも、つい箸でつまんで渡してしまうと、彼は満足そうに笑い、今度は自分のおかずを差し出してくる。
 他愛ないやり取りに、ふっと心が緩む。近くを行き交う生徒たちがこちらに視線を投げるのを感じても、嫌な気持ちは不思議としなかった。
 ──きっと、これが彼の言う「世界中に見せつける」なんだ。

 昼食を終え、中庭から教室へ戻る途中の廊下で、見知った顔が現れた。

(……っ!)

 昨日の、三年の先輩たちだった。恐怖で、表情が強張ってしまう。彼女たちは、楽しそうに笑う及川と、その隣にいる私を見ると、びくりと足を止めた。

 そして、及川の表情が、一瞬で変わる。私に向けていた柔らかな笑みが消え、温度のない、全てを見透かすような冷たい一瞥が、真っ直ぐに彼女たちを射抜く。
 先輩たちは、まるで蛇に睨まれた蛙のように硬直し、次の瞬間には、怯えたように目を逸らして、逃げるようにその場を去っていった。
 その背中を見送りながら、及川は「行こっか」と、またすぐにいつもの優しい顔で私に微笑んだ。

 最初は、彼のあまりに堂々とした愛情表現に、恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。けれど、一日、また一日とそんな日々を過ごすうちに、その感情は、心地よさと安心感へと変わっていった。

 彼が作ってくれた、この「安全な世界」の中では、もう何も怖くない。誰の視線も、噂も、気にならない。彼の隣で、心の底から笑えるようになった自分に気づいた。

 放課後、部活を終えた及川と校門で待ち合わせ、二人で帰る。それは、前と変わらず、いや、前よりもずっと私たちにとってかけがえのない時間となっていた。

「ねえ、及川」

 ある日の帰り道、私は隣を歩く彼に尋ねた。

「んー?」
「ちょっと、やりすぎじゃない? ここまでみんなの前で見せつけなくても、もう大丈夫だよ?」

 すると彼は、きょとんとした顔で私を見つめ、心底不思議そうに首を傾げた。

「えー? まだ足りないくらいだけど? 俺の彼女がこんなに可愛いって、まだ世界に伝わりきってないし」

 真顔でそう言い切る彼に、私はとうとう堪えきれずに吹き出してしまった。

「それにさ」

 及川は足を止め、私の方を向いた。

「俺は、俺がナマエをどれだけ大事にしてるか、みんなに知ってほしいだけ。そうすれば、ナマエを傷つけるような奴は、もう現れないでしょ?」

 澄んだ双眸が、私を見つめる。彼の瞳には、深い愛情と、私を守ろうとする固い決意が宿っていた。

「……うん」

 その真剣な眼差しに、私はただ頷くことしかできなかった。言葉にしたら、また涙がこぼれてしまいそうだったから。

「もう、一人で抱え込まないでね。何があっても、俺がナマエを守るから」

 そう言って、及川は私の頭をそっと撫でる。
 大好きな手。幾千回もトスを繰り返し、仲間と夢を追い続けてきた手。その手のひらから伝わる彼の優しさに、私は胸がいっぱいになった。

「……寒くない?」

 いつかと同じ問いかけが、胸の奥をやわらかく揺らす。

「…うん、寒くないよ」

 本当にそうだった。冷たい風が吹いても、彼の温もりが私を包んでいる。
 あの日の私は、苦しさをごまかすように“寒い”と言ったけれど、今はもう、ごまかす必要なんてない。

 冬の澄んだ夜空に、二つの白い息が溶けていく。
 及川が隣にいてくれる限り、私はどんな困難も乗り越えていける。この、少しだけ騒がしくて、どうしようもなく幸せな毎日が、私の本当の居場所になっていくのだと、そう思えた。

"特別"の本当の意味



メランコリー