※ この話には軽い接触描写があります。
高校二年生として過ごす時間も、あとわずかとなってきた。
あの及川の「見せつける」宣言以降、元カノとその取り巻きからの嫌がらせはぱったりと止み、さらには及川のファンからの棘のある視線を向けられることも無くなり、平穏な日々を迎えていた。
そんな落ち着いた日常の裏で、学期末テストの時期が静かに近づいてくる。
今日はテスト期間で学校がいつもより早く終わったので、私は自分の部屋で教科書を睨みつけていた。しかし、そんなことをしても、苦手な数学の問題は一向に解ける気配がない。
(うーん、やっぱりここ、分からないなぁ。及川なら分かるかな…)
クラスでも成績上位の彼は、私が分からない部分の勉強を教えてくれることがよくある。一人でうんうん唸っているより、聞いた方が早いかもしれない。それに、テスト前で彼も勉強しているはずだ。
私は軽い気持ちで、トークアプリを開き、及川にメッセージを送った。
『ねえ、テスト勉強してる? 数学で分からないところがあって。もしよかったら、教えてくれない?』
すぐに既読がつき、『いいよーん。どこで? 図書館行く?』と返信が来る。語尾の伸び具合がいかにも彼らしい。
『いま家でやってるんだけど、うち来る?』
親も兄も今日は仕事だから、夜まで帰ってこない。勉強するだけなら、静かで集中できるだろう。そんな合理的な判断ゆえの提案だった。
私のメッセージに既読の文字がつく。けれど、一向に返信が返ってくることはない。しばらく間を置いて、やっと通知が届いた。
『ナマエの家、誰かいるんじゃないの?』
確認するような、どこか含みのあるメッセージ。私は特に深く考えず、事実だけを返す。
『ううん。みんな仕事行ってて、誰もいないから静かだよ』
また少しの間があった。そして『オッケー。今から行く準備するわ』という短い返信が表示される。
なんだか、いつもと少しだけ反応が違う気もしたけれど、すぐに勉強を教えてもらえるという安堵の方が大きくて、深くは考えなかった。
そして約二十分後、インターホンが鳴り、及川がやってきた。制服の上にコートを羽織った彼は、鼻の頭を少し赤くしてマフラーに顔を埋めている。慌てて家の中へ入るように促した。
「ごめん、寒かったよね! 家あったかいから早く入って!」
「いや…全然大丈夫…じゃあ、お邪魔しまーす……」
玄関で靴を脱ぎながら、彼は少しだけ辺りを見回すようにして、どこか確認せるように私へ問いかけた。
「……ほんとに、誰もいないんだ?」
「うん、だから気兼ねなく勉強できるよ。部屋、こっちね」
彼の様子がどこかぎこちなく見えたけれど、「緊張してるのかな」と軽く受け流して、廊下を奥へと進んだ。
二階にある私の部屋のドアを開けて中へ誘うと、及川は一瞬唇を引き結んだ。そして、まるで何かを振り払うかのように、ぎこちない足取りで部屋に足を踏み入れる。
ローテーブルを挟んで、向かい合って座る。暖房の効いた部屋は暖かくて、窓の外の寒さを忘れさせてくれた。
「……それで? どこ分かんないの?」
私が出したオレンジジュースを一口飲んだ及川は、いつものように優しく聞いてくれた。私がノートを広げて説明し始めると、彼は真剣な顔で耳を傾けてくれる。そして、「あー、はいはい、ここはね、この公式使えば一発だって」と、的確なアドバイスをくれた。
一人で悩んでいたのが嘘みたいに、問題が解けていって、やっぱり及川に聞いて良かったと安堵した。先程の強ばったような顔は、気のせいだったのだろうと、私はまた目の前の問題に向き合う。
ふと、向かいの彼をチラリと盗み見る。
前髪が少しだけ額に落ちて、真剣な眼差しがノートに注がれている。彼の顔は、やっぱり綺麗だと思う。バレーをしている時とは違う、知的な真剣さに見惚れてしまう。
いつも人の輪の中にいて人気者な及川をこんなに近くで独り占めできているのって、すごく贅沢かもしれない。そんなことを思いながら、私はまたノートに視線を戻した。
しばらくは、順調に勉強が進んでいた。静かな部屋に、暖房が稼働する音と、シャーペンの芯が紙の上を滑る音だけが響く。けれど、三十分ほど経った頃だろうか。ふと顔を上げると、及川がノートを見つめたまま、手を止めていることに気づいた。
「……及川?」
「…ん? なあに?」
声をかけると、彼はびくりとしたように顔を上げて微笑む。その表情はどこか硬い。
「いや、なんか……ぼーっとしてたみたいだから。もしかして、疲れた? 少し休憩する?」
「……いや、全然ヘーキ。気にしないで」
彼は誤魔化すように笑ったが、その声は少し掠れていた。そして、私の顔をじっと見つめてくる。いつも及川が私を見る眼差しは優しいけれど、それだけじゃなくて。
どこか、いつもより濡れた熱を帯びた視線で。
(…あれ?)
不意に、胸の奥がざわつく。ほんの一瞬の違和感。でも、その視線から目を逸らせない。
息が少しだけ早くなっていく。どこかで、この空気を知っているような──そして、雨音が、耳の奥で蘇る。
あの、まだ夏のぬるさを残していた秋の日。学校の買い出しの帰りに大雨に打たれて、びしょ濡れのまま、私の家での雨宿りを提案したこと。抱きしめられて、及川の素肌から彼の体温が伝わってきたこと。
『……男をさ、こんな簡単に二人きりの部屋に入れちゃダメって、お兄ちゃんとかに言われなかった?』
そう言って、及川は私の頬に触れたこと。
誰もいないリビングのソファで、見つめあって交わした視線は、今日と同じように、甘くて、熱を含んでいて──その熱の行き先を、あの時の私は深く考えなかった。
そして今、この部屋に満ちているのは、テスト前のピリピリした緊張じゃない。あの時と同じ、甘さが肌にまとわりつくような空気。
やっと、その正体に気づいてしまう。
(…もしかして……私、またとんでもないことしちゃった……?)
彼氏を、自分の家に、さらに自分の部屋に、二人きりになる状況で、誘ってしまった。
私は「勉強だけ」と思っていたけれど、及川は、もしかしたら、そうじゃなかったのかもしれない。
そう思い至った瞬間、さっきまでの自分の能天気さが、急に恥ずかしくなる。同時に、彼の今の状況を理解してしまい、冷や汗が出てき始めた。もしかしたら、私に誘われたと思って、そのつもりで、ここへ来たのだとしたら。
私の強張っていく表情を見て、そんな思考に陥っていると気づいたのだろうか。彼は急に「あーっ! もう! だーかーらー!」と声を上げて、わざとらしく頭を抱えた。
「だめだ、だめだめ! 全然集中できないっつーの!」
「ちょ、やっぱり疲れてるんじゃ……」
「違う! 疲れてるとかじゃなくて! なんでナマエはそんな平然としてられんの!?」
「え?」
勢いよく顔を上げた及川は、耳まで赤くなり熱を帯びているようだった。
その視線が一瞬だけ泳ぎ、次の瞬間には呆然とする私を真っ直ぐ射抜く。
「こっちは……っ! こーんな可愛い彼女に誘われて、しかも二人きりで、家で! ……俺がどんだけ我慢してると思ってんのさ!?」
早口で捲し立てる彼は、本気で困っているようだった。
「…え、あ……」
彼の言葉の意味を理解して、私の顔にも熱が集まる。
そうか、彼は我慢をしてくれてるんだ。私を困らせないように。
「…あの、ご、ごめん……私、そういうの、全然考えてなくて……」
「はぁ〜〜…」
しどろもどろに謝ると、彼は天を仰ぐようにして深いため息をついた。
「……やっぱそうだよね…。ほんっと、ナマエちゃんってやつは……ある意味、最強だよね…無防備すぎる……」
「うっ…」
「俺だって、ピチピチの男子高校生なわけ。好きな子に家に来てって誘われて、二人きりで部屋にいたら…そりゃあ、色々、考えちゃうに決まってんでしょーが…。しかも、ここはお前の部屋で、良い匂いしかしないし…こんな中にいたら、触りたいって…思うんだってば……」
彼は片手で口元を覆って、小さな声で、けれどはっきりとそう言った。
いつも余裕ぶっている彼の、こんな風に悶々としている姿を見るのは初めてで、どんな反応をしていいか分からず固まってしまう。
「…あーもう! 勉強中止!」
彼は両手をひらひらと左右に振って宣言する。恥ずかしさと申し訳なさで、私は思わず謝罪を口にしていた。
「ご、ごめ……」
「ナマエは悪くないから! 俺が、俺の理性がダメダメなだけだから!」
「……」
「とりあえず、俺は隅っこで携帯でも触っとくから、ナマエは勉強続けて。分からないとこ出てきたら声かけてよ」
及川は、私を困らせないように明るく言っているけれど、きっと、つらいのだろう。部屋にはまだ、気まずいような、甘いような、変な緊張感が漂っている。
こんな状況でも、勉強を教えてほしいという私のお願いに応えようとしてくれている、及川の優しさに胸が締め付けられる。
(……このままじゃ、だめだ)
彼だけが我慢しているのも、この重い空気も、全部、私が彼を不用意に誘ってしまったせいだ。この空気を作ったのは私なのに、彼にだけ苦しい思いをさせているのが、すごく嫌だった。
何とかしなきゃ。彼が、そんなに無理をしなくてもいいように。「私は大丈夫だよ」って、伝えないと。
私は意を決して、少し離れた場所で携帯を触っている彼に声をかける。
「…ねえ、及川」
「……なに」
「私といると、本当に、集中全然できない?」
「…まあ、ね。……ていうか、無理」
視線を合わせずに答える彼に、覚悟を決めて、言葉を紡ぐ。
「……私…及川になら、いいよ」
その瞬間、彼が息を呑む気配がした。
「……及川に触られるの…嫌じゃ…ないから」
ゆっくりと、彼がこちらを向く。その目は、驚きと、戸惑いと、そしてもう隠しようのない熱さを帯びて、激しく揺れていた。
「……お前さぁ、ほんっと…自分が今、どんな爆弾発言してるか、分かってんの……?」
彼は深いため息をつきながら、けれどもう抗えないというように、立ち上がってこちらまで歩いてくると、私の目の前にしゃがみ込んだ。そして、不意に顎を持ち上げられる。
端正な甘い顔立ちが目の前にある。じっと見つめてくる及川の目は、欲を孕んで蕩けているみたいだと思った。
思わず逃げようとした、その瞬間。彼の腕が、私の腰にするりと回された。
「わっ!?」
驚く間もなく、ふわりと体が浮く。彼が、私をいとも簡単に抱え上げ、そして──胡座をかいた彼自身の太ももの上に、私を向かい合わせるようにして、すとん、と座らせたのだ。
突然のことに、私の思考は完全に停止した。及川の体温が太ももへ直接伝わってきて、目の前には、もうどこにも逃げ場がないくらい近くに、彼の顔がある。
「……もう、ナマエが悪いんだからね」
「あ…」
「…知らないよ、どうなっても」
彼は、私の腰を支える腕に少しだけ力を込めながら、悪戯っぽく、それでいて熱のこもった双眸で私を見つめた。
「おいか…」
私が名前を呼び終えるのを待てないように、唇が、ゆっくりと重なった。
最初は、触れるだけ。でも、すぐに角度が変わり、もっと深く、求めるように押し当てられる。舌先がそっと私の唇を割り開いて、中に侵入してきた。
「…っ、んん…ふ」
彼の舌が、ためらいなく私の舌に絡みつき、甘く、ゆっくりと、けれど確実に奥へ奥へと探り当ててくる。
口内の温かさ、唾液が混ざり合う感覚、息苦しいほど近い距離──すべてが頭を痺れさせていく。
頬を両手で包まれ、逃げ場を奪われたまま、私はただその熱に飲み込まれていった。
やがて、ゆっくりと及川の唇が離れる。肩で息をしながらぼんやりと見つめ返していると、私の濡れた唇を親指でなぞりながら目を細めて心底愉しそうに口角を上げた。
「……そんな色っぽい目で見つめてくれるの、やめてほしいんだけど」
「え!? ちがっ!」
とっさに否定の声を上げるけれど、自分の声が震えているのがわかる。羞恥に顔が焼けるようだった。
彼はふっと息を漏らすように笑った。その笑みには、もう意地悪さはない。ただ、どうしようもなく込み上げてくる愛しさを、必死で抑えているような響きがあった。
「…かわいすぎ…」
熱い吐息と共に、彼は私をさらに強く抱きしめた。彼の腕の中で、体が完全に密着する。そして──彼の胡座の上に座る私の下腹部に、彼の体の熱く硬くなった部分が、存在を主張するようにぐっと押し当てられたのを感じた。
「っ……んっ……!!」
息が詰まった。思わず、体がびくんと跳ねる。
初めて感じるその感触に、頭が真っ白になる。何が起きているのか、すぐには理解できなくて。でも、本能的に、それが何なのかは、わかってしまっていた。
「んっ、お…いかわ…」
「……ナマエ、かわいー……」
耳元で囁かれ、息が詰まる。
いつもの飄々とした感じじゃない。熱に浮かされたような、掠れた声。
彼の大きな手が、私の背中をするりとなぞる。そのまま流れるように腰を辿り、制服のスカート越しに太もものラインを確かめるように動く。
そしてついにスカートの裾から、彼の指先がためらいがちに忍び込み、太ももの内側の、柔らかい素肌に直接触れた瞬間──。
「ひゃ……っ!」
経験したことのない、ぞくぞくするような感覚と羞恥に、体が強張る。声にならない声が漏れて、反射的に目の前にある彼のセーターの胸元を掴んでしまった。
それを見て、及川がニヤリと意地悪く笑うのが分かった。
「……なに、ここ、弱いんだ?」
囁きながら、彼の指が、さらに奥へと進み、下着の布地のラインにそっと触れそうになる。
「っ……ま、待って! やめ…っ!」
涙声に近い声で、かろうじて抵抗の言葉を紡ぐ。私のあまりに必死な制止に、及川の動きがぴたりと止まった。
「……え?」
及川は私の反応に驚いたようにこちらの顔を覗き込んできた。さっきまでの意地悪そうな笑みは消え、彼の瞳が大きく見開かれている。
「……もしかして、ナマエ…初めて……?」
呆然とした声音で、信じられないというように尋ねられる。その問いの意味を理解した瞬間、私は肯定も否定もできず、ただ彼の胸に真っ赤になった顔を押し付けることしかできなかった。
その反応だけで伝わったのだろう。彼の息を呑む音が聞こえた。
及川は、もちろん私に付き合っていた人がいたことは知っているため、私がそういう経験があると思ったのだと思う。だけど実際は、元カレとはキス以上のことをしたことはなかった。
こんな風に、熱っぽい眼差しに見つめられるのも、自分の柔らかい部分を誰かに触られるのも、初めてのことだ。
すると次の瞬間、彼の腕が、さっきまでとは違う、もっと強い力で私を抱きしめた。
それは乱暴さではなく、まるで自分だけの宝物を見つけたかのような、強い独占欲と、そして、驚くほどの優しさが混じった力だった。
「……そっか……初めて、なんだ……」
低く掠れた声。
私はどう返していいのかわからず、彼の胸に顔を押し付けたまま固まってしまった。
けれど──そのあと、及川は何も言わなくなった。私を抱きしめたまま、喉の奥で小さく何度も息を呑み、まるで自分の中の何かを必死で押し殺しているようだった。
腕の中で感じる鼓動が、やけに早い。沈黙が長く続き、胸の奥に、不安のようなざわめきが広がっていく。
(……めんどくさく思われた?)
心配になって顔を上げかけた瞬間、彼がふーっと長く息を吐き、腕の力をゆっくりと緩めた。その深い色の瞳が一瞬だけこちらを見たが、すぐに目を逸らし、奥歯を噛みしめる。
唇が何かを言いかけて、結局閉じる。その動きさえも、苦しげだった
そして──驚くほど優しい手つきで、私の体を自分の膝から下ろし、床へと降ろす。
「……これ以上は、ダメ」
ぽつりと落ちた言葉は、冷たくも突き放すようでもない。むしろ、誰よりも私を大事にするための響きを帯びていた。
「ナマエが嫌だとか、そういうんじゃない。……むしろ、すげぇ好きだから……このままじゃ、絶対止まれなくなる」
顔を背けたまま言う彼は、耳まで赤かった。
その姿を見て、胸の奥がじんわりと熱くなる。彼は私を拒んだんじゃない。私を初めてを大事にするため、必死で自分を抑えてくれたらしい。
彼は、まだ床に座り込んでいる私をじっと見つめる。その瞳は、迷いと葛藤、そして隠しようのないほどの欲に揺れていて──それでも、何よりも強く滲んでいたのは、私を大切に想う気持ちだった
「……本音言うと、このまま押し倒して、気持ちよくさせて……お前の全部、俺のでめちゃくちゃにしたいって……。本気で、思うよ」
言葉は熱を孕んでいた。けれど、その熱は暴力的なものではなく、切実で、どうしようもなく愛しい気持ちが溢れているものだと感じた。
「……でも、俺がしたいからっていう勝手な理由で、今するのは、違うと思うからさ」
独り言のような低い声。及川はそっと私の頬に触れ、親指で優しくなぞる。
「ナマエは優しいから、俺に気を遣って受け入れてくれようとしたんだろうけど……本当は、ちょっと怖いでしょ?」
言われた瞬間、胸の奥がぎゅっと掴まれたようになって、咄嗟に声が出た。
「ちがっ…!」
否定したはずなのに、声はかすかに震えていた。その反応を見た及川の瞳が、静かに細められる。
(……バレてる)
彼にじっと見られているだけで、心臓がどくどくと速くなる。嘘じゃない。及川に触れられるのは嫌じゃない。むしろ、嬉しい気持ちの方が大きいのに。けれど──その先を想像すると、身体が固まってしまうのも本当で。
「…隠さなくていいってば。……こんなに手、震えてるし」
そっと指先が私の手に触れた瞬間、反射的にびくんと肩が跳ねた。その小さな反応だけで、言葉より正確に私の中の動揺が伝わってしまったのだろう。ふっと優しく微笑む。
「お前の大事な初めてを、こんなかたちでもらうなんて、絶対に嫌だ。…もっと、ナマエが心から望んだ時に、俺にちょうだい? …だから、今日は、ここまで」
そう言うと、及川は自分の額を押さえるようにして、やれやれとため息を落とす。
「……はーっ…。こんな必死に理性働かせたの、生まれて初めてかも…」
私はまだ床に座ったまま、呆然としていた。
“私を大切にしたいから”という理由で、彼が衝動を抑えてくれたこと。
それが、どれほどの想いと葛藤の末に出された決断だったのか、頭ではわかっても、心が追いつかない。
ぽつりと、心に浮かんだ言葉が、そのまま唇からこぼれ落ちた。
「……そんな風に、考えてくれてた、んだ……」
なんとか言葉を絞り出すと、及川は苦笑して、私の赤くなった頬を指先でつん、とつついた。
「当たり前でしょ? あんな可愛い反応、目の前でされて。何も感じないわけないじゃん」
「っ……!」
「ナマエちゃんが、部屋に誘ってくれて、触っていいって言ってくれて、あんなふうに見つめてくれて。……俺がさ、キスだけで我慢できると思ったわけ?」
茶化すような口調の裏に、本音が滲んでいた。
彼の言葉に、これまでのやり取りが一気に蘇る。彼の指の感触、熱を含んだ吐息、思わず漏れた自分の声……すべてが恥ずかしさとして押し寄せ、顔がさらに熱を帯びる。
「でも、約束する。ちゃんとお前のこと、大切にするって」
不意に、及川の声が、ひどく真剣なトーンに変わる。
「……俺は、ナマエが欲しいよ。今すぐにでも、お前の全部が、欲しい。……けど、ナマエの心が追いついてないままなんて、絶対に嫌だから」
そう言って、彼は「この話はもう終わりだ」とでもいうように、私の背中をポンポンと軽く叩く。
「悪いけど、今日はもう帰るわ。……これ以上ここにいたら、自分がナマエに何するか、マジで保証できないから」
私は唇を引き結んで、立ち上がった彼の顔をじっと見つめた。さっきまでの余裕は完全に消え、どこか困ったような、それでいて真剣な眼差し。こんな顔の及川は、やっぱり見たことがなかった。
勉強道具を入れたバックと自分のコートを手にして、及川がドアに向かって一歩踏み出した、その時──自分でも衝動の理由が分からないまま、震える手で、彼の制服の裾を、ぎゅっと掴んでいた。
「……なに?」
振り返った彼の声が、今までになく低く、熱を帯びている。
その声だけで、彼がまだ限界ギリギリのところにいるのが分かった。
及川をこれ以上困らせたくない。でも、このまま彼を帰したら、きっとこの気まずい空気を、私だけじゃなくて、彼も引きずってしまう。
それだけは、嫌だった。
「……あのね……」
俯きながら、言葉を探す。
「帰るのは…うん、分かった。……及川が、我慢してくれてるのも、分かるから…。ほんと、何も考えてなくて、困らせて、ごめん……」
「……だったら、なんで」
「…でも…このまま、バイバイするのは、やだ…から……」
だから、せめて。彼が一人で抱え込まないように。「すき」という気持ちを伝えたくて。
顔を上げる。涙で滲んだ視界の向こう、彼の姿がぼやけて見える。こんな風に見つめたら、また彼の理性を試すみたいで、申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになる。なのに、言わずにいられなかった。
「……さいごに…一回だけ、キス…してくれない…?」
勇気を振り絞って、消え入りそうな声でそう懇願した瞬間、彼の目が大きく見開かれた。息を呑む音が、静かな部屋に響く。
(……やっぱり、だめだったよね……)
言った瞬間に後悔が押し寄せてくる。
こんなときに、わがままなんて言うんじゃなかった。そんな不安が胸を締めつけて、込み上げた涙が頬を伝いそうになった、その時だった。
「……っ〜〜!! お前、ほんっと…っ! 俺がどんだけ必死か分かってて言ってんの!? 本気で殺す気!?」
そう呻いた及川が、ぐしゃっと髪をかき上げ、苦笑を浮かべて私を見下ろす
「……キスだけで、俺が我慢できるって…本気で思ってんの? ……それとも、わざと俺のこと試してる?」
低く掠れた声で問いかけられ、また彼を困らせてしまったのだと不安でたまらなくなり、きゅっと唇を引き結ぶ。
すると、及川はふっと息を吐いた。まるで私の心の中を見透かしたみたいに、その顔が少しだけ呆れたようにゆるんで、そして、とても優しい色を帯びた。
「はぁ〜〜…お前さぁ、ほんっと鈍いっていうか、健気っていうか……」
少しだけ肩を落としたその表情には、怒りでも苛立ちでもなく、愛しさが滲んでいる。
指先がそっと私の目尻に触れ,今にも溢れそうな涙を拭った。
「ねぇ、なに不安そうな顔してんの? 俺が、こんなことでナマエのこと嫌いになるわけ、ないでしょーが。…むしろ、逆だっての」
その言葉に、私は張り詰めていた息を、安堵と共にかすかに吐き出す。
彼は、もう一度、今度はもっと優しく、私の顎を掴んで顔を上げさせた。視線が合った瞬間、彼の瞳に宿っていたのは、さっきよりもずっと深い熱と、滲むような優しさだった。
その瞳が、まっすぐに私だけを映していることがわかって、胸が切なく締めつけられる。
ゆっくりと顔が近づいてきて、息がかかるほどの距離になる。そして、彼の唇が、私の唇に、そっと触れた。
「ん…」
それは、さっきまでの激しさを孕んだものとは全く違う、驚くほど優しいキスだった。奪うのではなく、確かめるように。彼の唇が、私の下唇を、柔らかく食む。
角度を変え、今度は上唇に、また優しく触れる。まるで壊れ物に触れるみたいに、何度も、何度も、啄むようなキスが繰り返される。
彼の「好きだ」という気持ちと、「でも、今はここまでだ」という強い意志。その両方が、切ないくらいに伝わってくる。心の底から、愛おしい気持ちが込み上げてくる。
どれくらいそうしていただろうか。ふっと、彼がゆっくりと唇を離した。額が、こつん、と軽く触れ合う。彼の呼吸が、すぐそばで震えている。
「……ほんとに、キスだけだからな」
ぎりぎりの理性で押しとどめるように、掠れた声が落ちてくる。
「……これ以上は、俺が、持たない」
その言葉に込められた本音と、それでも私を思って抑えてくれた強さが、胸にじんと染みた。
「……うん…ごめんなさい。……ありがとう」
私も、息を整えながら、小さく頷く。
「……じゃあ、また、連絡する」
彼は、もう一度だけ私の頬をそっと撫でると、今度こそ、迷いを振り払うように、くるりと背を向けた。そして、一度も振り返らずに、部屋を出て行った。
バタン、と扉が閉まる音。
一人残された部屋で、私はまだ熱いままの唇を、そっと指でなぞった。彼の残していった温もりと、切なさと、そして確かな愛情。それらが混ざり合って、胸がいっぱいになる。
窓の外では、いつの間にか止んでいた雪が、また静かに降り始めていた。
△
昇降口は、朝のあいさつを交わす声や靴音で賑わっていた。
人の流れに混じって上履きへ履き替え、校舎に一歩踏み入れたその瞬間、よく通る声が、はっきりと耳を打った。
「おはよ〜、ナマエ! 今日も朝からちょー可愛いね!」
いつも通りの、明るくて軽いテンションで及川が近づいてくる。昨日の、あの部屋での出来事がまるで嘘だったかのような、飄々とした態度。
だけど私は、彼の顔をまともに見ることができなかった。
「……っ! お、おはよ……」
昨日の出来事を思い出すだけで、耳まで熱くなるようだった。彼の指の感触、熱っぽい囁き、そして最後の優しいキスが、鮮明に蘇ってしまう。
「なーに、朝から上の空なの? もしかして、俺のこと考えちゃってた?」
及川が、楽しそうに顔を覗き込んでくる。その距離の近さに、また心臓が跳ねた。
「ち、違う!!」
「えー? じゃあなんでそんなに顔が真っ赤なのかなー?」
慌てて反論すればするほど、自分の動揺が伝わってしまいそうで焦る。顔を上げられずに俯いていると、ふいに彼の唇が耳元に寄せられた。
「……ねえ。昨日の俺のキス、そんなに忘れられないくらい、良かった?」
「っ!!」
心臓が、喉から飛び出しそうなくらい大きく跳ね上がる。瞬間的に顔を上げて彼を睨みつけると、彼は口元を緩めながら、楽しそうにクスクスと笑っていた。
「冗談だって」
「……っ、ば、バカ!!!」
勢いよく彼の胸を押し返すと、「おっとっと」と彼は楽しげに後ろへよろけた。
そのからかうような態度に少しだけムッとしたけれど、彼の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、昨日のような真剣な色が宿ったのを見逃さなかった。
及川はすぐに体勢を立て直し、片手をポケットに突っ込んだまま、いつもの人を食ったような笑顔に戻る。でも、その声のトーンは、さっきよりも少しだけ落ち着いていた。
「……昨日伝えたことは、俺の本当の気持ちだよ」
「え…?」
「お前が、心から、俺に触れられてもいいって思えるまで、待つってこと。……大切にするって、約束したでしょ?」
真面目な声だった。彼の視線が、真っ直ぐに私を捉える。
「……だから、焦らなくていい。……けど」
彼はそこで言葉を切り、にやりと、いつもの彼らしい悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「俺の気持ちは、全然、待ってくれないけどね? ナマエのこと、今すぐどうにかしたいって気持ちは、昨日より強くなってるかも」
「……!」
「だからさ、ナマエも……心の準備だけは、しといてね?」
そう言って、悪戯っぽくウィンクを残し、今度こそ本当に軽い足取りで去っていく彼。その後ろ姿を見つめながら、私は顔を覆いたくなる衝動に必死で耐えた。
(…ずるい)
いつもみたいにからかうだけじゃなくて、ちゃんと「待ってる」「大切にする」って伝えてくれた。その誠実さが嬉しいのに、最後の「心の準備をしといてほしい」という言葉で、結局また頭の中は彼でいっぱいになってしまう。
あんな顔して、あんなこと言われて、意識しないでいられるわけがない。「次」がいつなのか、それがどんな形なのか、考え始めると止まらない。
結局その日一日、私の顔の熱は、まったく引いてくれなかった。