※ この話には軽い接触描写があります。
「あ〜…ボール触りてぇ…」
机の上に広げられた数学の問題集。そこに並ぶ無機質な数字の羅列を睨みつけ、俺は誰に言うでもなく呟いた。
テスト期間──それは強制的に部活動も禁止される期間である。別に勉強が嫌いなわけじゃないけれど、やっぱり自分は身体を動かしている時間の方が好きらしい。
気分転換に、岩ちゃんに揶揄いのメッセージを送ろうか、なんてくだらないことを考えていた、まさにその時だった。
ピロン、とスマホが軽い音を立てる。
画面に表示されたナマエの名前を見ただけで、さっきまでの鬱屈とした気分が嘘みたいに霧散していくのが分かった。単純すぎる自分に呆れながらも、口元が緩むのは止められない。
『ねえ、テスト勉強してる? 数学で分からないところがあって。もしよかったら、教えてくれない?』
(……はっ、可愛いすぎでしょ)
たった数行のメッセージ。それを目で追いながら、想像する。きっと今頃、少し眉を寄せて、机に向かって唸ったりしてるんだろうな、とか。
いつも凛とした澄んだ目をしていて、素直に甘えるところをあまり見せないナマエが、俺を頼ってくれる。その事実だけで、柄にもなく心が浮き足立つのを感じた。
最近の自分は、ナマエを目にするたび、どうしようもなく可愛いと思ってしまう。
元カノの件が片付いてからは、ナマエの表情は目に見えて柔らかくなった。それが嬉しくて、誇らしくて、同時に、俺だけのものにしておきたいなんて黒い感情が湧いてくるのを、必死で笑顔の仮面の下に隠している。
キスをするたび、真っ赤になる彼女を見ていると、その可愛い反応にもっと触れたいと思ってしまう。非常に癪だがナマエには元カレがいるので、俺が全部初めての相手とはいかないだろうけど、俺ので全部上書きして元カレとの記憶を消せたらなんて女々しいことを思ってしまうくらいには、俺は相当、彼女に惚れているらしい。
男子高校生の理性なんて、ちっぽけなものだ。だから、いつ自分がナマエに衝動的に手を出してしまうのか、不安になる時もある。
そのせいで、俺は最近、紳士的な顔をして、優しくて頼りがいのある彼氏を演じるのに必死だった。その下にある、ドス黒い欲望を隠して。
だからこそ──。
『いいよーん。どこで? 図書館行く?』
我ながら完璧な返信だと思った。図書館。公共の場で、健全そのもの。今の俺には、それくらいがちょうどいい。
──そう、そのつもり、だったのだ。けれど、彼女からの返信は、俺のささやかな自制心なんて軽く吹き飛ばすものだった。
『いま家でやってるんだけど、うち来る?』
「……は?」
その数文字を認識した瞬間、時が止まった。
……家? 彼女の、家に? 今から?
脳内で警報がけたたましく鳴り響く。
ナマエは悪気なく、何の裏もなく、ただ純粋な効率だけを考えて、この言葉を送ってきているのが手に取るように分かる。それが彼女の可愛いところで、そして、俺にとっては一番タチが悪いところなのだ。
『ナマエの家、誰かいるんじゃないの?』
震える指で、なんとかそう打ち返す。これはただの確認じゃない。ほとんど祈りに近い問いかけだった。
「うん、お兄ちゃんがいるよ」とか、そういう、俺の理性のためのセーフティーネットになるような返事が来ることを、心のどこかで必死に願っていた。そうじゃないと、絶対に、俺は、もたない。
『ううん。みんな仕事行ってて、誰もいないから静かだよ』
彼女から返ってきた「静かだよ」という言葉に、俺は天を仰いだ。
(そうじゃないんだって…)
静かだから、集中できる。彼女の中では、思考がそこで完結している。その無邪気さが、俺の心を掻き乱す。
ダメだ、行ったら絶対にダメだ。好きな子の、しかも彼女の、誰もいない家に上がって、何事もなく勉強だけして帰ってこれるほど、俺はできた人間じゃない。分かってる。
でも、「会いたい」という本能が、理性に勝ってしまった。
『オッケー。今から行く準備するわ』
俺の指は、葛藤とは真逆の言葉を勝手に打ち込んでいた。己の馬鹿さ加減に、自分で自分を殴りたくなる。
家に着くまで、冬の冷たい空気を吸い込みながら、頭の中で「これはただの勉強会なんだ」「絶対に手を出すな」と呪文のように繰り返した。
彼女の家に着き、息を吐く。この家に入るのは、二回目だ。
一回目は、付き合う前の、大雨に打たれた日。そういえばあの時も、ナマエは何も他意はなく、俺のことだけを心配して家にあがるよう促した。男と二人きりは気をつけないとだめだと、その不用心さを咎めるように伝えた言葉は、彼女の中ではすでに頭の隅に追いやられているのだろうか。
インターホンを押し、ドアが開かれる。そこに立つ、嬉しそうな顔の彼女を見た瞬間、俺の脆い決意は、早くも半分以上が崩れ去っていた。
「……ほんとに、誰もいないんだ?」
往生際悪く、最後の確認のようにそう尋ねると、彼女は「うん、だから気兼ねなく勉強できるよ」と、なんてことないように笑う。
ほんの僅かだけ、もしかしたらナマエは俺と同じ気持ちで、このタイミングで誘ったのかと期待した気持ちもなかったわけではない。だけど今、この全く邪気の無い穏やかな笑顔を見て、結局、自分の浅ましい感情が浮き彫りになっただけだった。
ああ、もう。この子は本当に分かってないんだ。俺が今、どんな気持ちでここに立っているのか。心臓がどれだけうるさく鳴っているのか。
案内された、彼女の部屋。ドアが開けられた瞬間、ふわりと甘くて優しい匂いがした。──ナマエの匂いだ。
その空気を吸い込んだだけで、喉がカラカラに乾いて、眩暈がしそうだった。湧いてくる下心を振り払うように一歩、足を踏み入れる。
ローテーブルを挟んで向かい合って座る。この距離が、今の自分には遠すぎて、そして近すぎると感じた。
「……それで? どこ分かんないの?」
平静を装い、出してもらったオレンジジュースで喉を潤す。
彼女がノートを広げる。その小さな頭が近づいてきて、シャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。その一瞬で、公式だの、定理だの、そんなものは全部頭から吹っ飛んで、目の前の彼女のことで頭がいっぱいになる。
──それでも最初のうちは、なんとか耐えていた。
「ここはね、この公式使えば一発だって」
教え始めると、彼女は「すごい!」とか「あ、そっかー!」とか、素直に感心してくれる。そのキラキラした瞳に見つめられると、格好つけたい気持ちが勝って、完璧な「頼れる彼氏」を演じられていたと思う。
だけど、三十分も経つ頃には、もう限界だった。
シャーペンの芯が紙を擦る音。暖房の音。そして、すぐ近くで聞こえる、ナマエの小さな呼吸音。静かな空間に、二人きり。その事実が、じわじわと俺の脳内を麻痺させていく。
ノートに書かれた数式が、もう意味のある文字列として認識できない。
「……及川?」
彼女の声で、はっと我に返る。慌てて笑顔を作ったが、顔が引き攣っているのが自分でも分かった。俺の視線が、隠せないほど熱を帯びていたんだろう。彼女の顔が、少しずつ強張っていく。
(…あ、やばい。気づかれた)
その表情の変化を見て、もう隠せないと悟った。
「あーっ! もう! だーかーらー!」
咄嗟にごまかすように叫び、頭を抱える。もう無理だ。これ以上、平然としているフリなんてできるはずがない。
「こっちは……っ! こーんな可愛い彼女に誘われて、しかも二人きりで、家で! ……俺がどんだけ我慢してると思ってんのさ!?」
言ってしまった。全部、俺のせいだというのに、彼女の無防備さにつけこんで、勝手に期待して、勝手に限界になって。
彼女は悪くない。分かってる。でも、もうどうにもできなかった。しどろもどろに謝る彼女を見て、少しだけ冷静になる。ああ、ひどく困らせてしまっている。
「ナマエは悪くないから! 俺が、俺の理性がダメダメなだけだから!」
そう言って、部屋の隅に移動する。これ以上、近くにいたら本当に自分が何をしてしまうか分からなかった。
携帯を取り出し、無意味に画面を触る。何か、何か頭を冷やせることはないだろうか。バレー部にくだらないメッセージでも送ってみるか。
そんなことを考えていたら、意を決したような硬い声音で、ナマエが俺に声をかけてきた。
「……私…及川になら、いいよ」
その言葉が聞こえた瞬間、世界から音が消えた。
耳が、キーンと鳴る。今、彼女は、なんて言った?
「……及川に触られるの…嫌じゃ…ないから」
ゆっくりと顔を上げる。そこには、頬を真っ赤にして、それでも真っ直ぐに俺を見つめる彼女がいた。
じわり、と全身の血液が沸騰するような感覚をおぼえた。驚きと、戸惑いと、そしてもう隠しようのない歓喜が、俺の全てを支配する。
彼女が、俺を気遣って、勇気を振り絞って言ってくれてるということくらい、頭が回っていない今の自分でも分かる。その優しさが、健気さが、俺の中に残っていた最後の理性の糸を、あっさりと断ち切った。
「…はぁ〜〜……。お前さぁ、ほんっと…自分が今、どんな爆弾発言してるか、分かってんの……?」
俺は立ち上がり、呆然としている彼女の前にしゃがみ込む。その潤んだ瞳に映る俺は、きっとひどい顔をしていただろう。
衝動のままに、彼女を抱き上げて、自分の膝の上に向かい合わせに乗せる。思ったよりずっと軽くて、華奢な身体。その感触だけで、身体の奥が熱く疼いた。欲に蕩けてしまいそうな脳で、それでも最後に、警告だけはしてやった。
「……もう、ナマエが悪いんだからね」
「あ…」
「…知らないよ、どうなっても」
名前を呼ばれるのを待たずに、唇を塞ぐ。
まずは優しく、なんて考えていたのに、彼女の唇の柔らかさに触れた瞬間、すべてがどうでもよくなった。
──もっと深く、もっと奥まで、俺のものでいっぱいにしたい。
「…っ、んん…ふ…」
苦しげに漏れる甘い声。俺は角度を変え、ためらいなく舌を差し入れた。彼女の舌が、驚いたように逃げようとするのを捕まえて、執拗に絡め取る。キスに応える余裕もないらしい彼女の反応が、たまらなく愛おしくて、そして同時に、俺の独占欲を際限なく膨れ上がらせた。
ゆっくりと唇を離すと、彼女は潤んだ瞳で、ぼんやりと俺を見つめている。俺の唾液でぬるついている唇は、顔の火照りからか赤くなっていて、ひどくいやらしく見えた。
「……そんな色っぽい目で見つめてくれるの、やめてほしいんだけど」
「え!? ちがっ…!」
慌てて否定する声が、震えて上擦っている。
(ああ、もう、本当に……)
可愛い。可愛いすぎて、どうにかなりそうだ。
俺は込み上げてくる愛しさを抑えきれずに、彼女を強く抱きしめた。完全に密着した身体。そして、もう隠しようもなく熱く硬くなった俺自身が、彼女の下腹部に存在を主張する。
「っ……んっ……!!」
彼女の身体が、びくんと大きく跳ねた。その反応に、俺の頭の奥で、何かがプチリと切れる音がした。
「んっ、お…いかわ…」
「……ナマエ、かわいー……」
スカートの裾から、指を滑り込ませて、その柔らかい素肌に触れる。
「ひゃ……っ!」
ナマエの喉から、かすかな悲鳴が漏れた。反射的に俺のセーターを掴むその細い指先。その必死さが逆にたまらなくて、気づけば俺は意地悪く口角を吊り上げていた。
「……なに、ここ、弱いんだ?」
もっと知りたい。もっと俺にだけ暴かれていく姿が見たい。俺以外には絶対に見せない顔を、この手で引きずり出したい。
もう、完全に理性の箍が外れていた。
滑らかな太ももに指を滑らせる。びくっと跳ねる腰の反応が、俺を煽ってくる。触れるたびに奥から熱がせり上がり、抑え込む余裕なんてどんどん奪われていく。指先を、じわじわとスカートの奥へと滑り込ませる。
暖房の効いた部屋は外よりもずっと暑く、指先に触れる肌はしっとりとしている。小さく震える彼女の吐息が耳にかかるたび、俺の呼吸も荒くなった。
彼女の内側にようやく触れることができるという高揚感に、胸の奥が高鳴って、下着の縁をなぞろうとした、その時だった。
「っ……ま、待って! やめ…っ!」
はっきりと聞こえた、涙声の拒絶。
その声が、沸騰していた頭に突き刺さった氷の杭のように、俺の動きを完全に止めた。
「……え?」
覗き込んだ彼女は、さっきまでの色っぽさなんてどこにもない、ただ恐怖に怯えきった表情を浮かべていた。
そこで、ひとつの答えに行き着く。
「……もしかして、ナマエ…初めて……?」
信じられない、という気持ちで尋ねる。
元カレがいたことは知っていた。だから、当然、身体を重ねた経験があるものだと、勝手に思い込んでいた。彼女は何も言わず、ただ俺の胸に顔を押し付ける。その小さな沈黙が、何より雄弁な肯定だった。
──俺が、初めての相手?
次の瞬間、乱暴な欲望とは全く違う、もっと熱くて、どす黒い独占欲が、腹の底から湧き上がってきた。この世の何よりも尊い宝物を見つけてしまったような感覚。そして、そんな宝物を、もう少しで自分が乱暴に傷つけるところだったという事実への、底知れない後悔。
(……違うだろ、俺。喜んでる場合か、馬鹿が)
初めてなのに、こんなめちゃくちゃな触り方をして。最低だ。
(──大切に、しなきゃ)
自分に、強く言い聞かせて、こみ上げる衝動を必死に押し殺す。身体中の血液が沸騰しそうで、息が荒くなる。 それでも、彼女を傷つけたくない。だから、さっきより少し強めに、でも壊さないように抱きしめる。
「……そっか……初めて、なんだ……」
声が、掠れた。腕の中で感じる鼓動がうるさい。唇を噛み締め、ゆっくりと、本当にゆっくりと、腕の力を緩めた。彼女を膝から降ろし、距離を取る。
「……これ以上は、ダメ」
自分に言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。
「ナマエが嫌だとか、そういうんじゃない。……むしろ、すげぇ好きだから……このままじゃ、絶対止まれなくなる」
顔なんて見れなくて、彼女から目を逸らす。見たら、決意が揺らぐと確信していた。
本音を言えば、今すぐこの場で押し倒して、ナマエに触れて、その熱を全身で感じたかった。でも、違う。彼女の初めての体験を、そんな風に俺が触れたいという理由だけで続けることなんて出来ない。
「ナマエは優しいから、俺に気を遣って受け入れてくれようとしたんだろうけど……本当は、ちょっと怖いでしょ?」
「ちがっ…!」
否定しようとするが、その声は震えている。ああ、なんて健気で、残酷で、可愛いんだろう。
「……お前の大事な初めてを、こんなかたちでもらうなんて、絶対に嫌だ。…もっと、ナマエが心から望んだ時に、俺にちょうだい? …だから、今日は、ここまで」
呆然としている彼女の頬をつつく。本当は、こんなことさえ命懸けだ。
「でも、約束する。ちゃんとお前のこと、大切にするって」
理性と欲望が互いに押し合い、胸の奥でぶつかり合う。触れたい、抱きしめたい、でも怖がらせたくない──その板挟みの中で、改めて自分に言い聞かせる。
「……俺は、ナマエが欲しいよ。今すぐにでも、お前の全部が、欲しい。……けど、ナマエの心が追いついてないままなんて、絶対に嫌だから」
俺が欲しいのは彼女の身体だけじゃない、心も含めて全てだから。
「悪いけど、今日はもう帰るわ。……これ以上ここにいたら、自分がナマエに何するか、マジで保証できないから」
そう言って、俺は立ち上がった。一刻も早く、ここから立ち去りたかった。
──なのに。
制服の裾を、小さな手が、震えながら掴んだ。その弱々しい力に、俺の足は縫い付けられたように動かなくなる。
「……なに?」
絞り出した声が、自分でも驚くほど低く、熱を帯びていた。
「…このまま、バイバイするのは、やだ…から……」
俯いたまま、そう呟く彼女。
「……さいごに…一回だけ、キス…してくれない…?」
(は……?)
その言葉の意図が、理解できなかった。あんなに欲望のままに触れてしまって怖がらせた俺に、今、この子は、キスをしてくれと言ったのか? なんで。どうして。
(ああ、そうか……)
この子は、俺が、気まずい思いのまま帰るのが嫌なんだ。俺が、無理に触ってしまってナマエを怖がらせたと思って後悔しているのが伝わったのだろう。だから、この空気を何とかしたくて、羞恥や不安を押し殺して、必死で、俺のために、この言葉を言ってくれている。
その事実に気づいた瞬間、俺の中で何かが、ぐちゃぐちゃになった。
「……っ〜〜!! お前、ほんっと…っ! 俺がどんだけ必死か分かってて言ってんの!? 本気で殺す気!?」
叫ぶように呻いたのは、もうそうでもしないと、感情の行き場がなかったから。
「……キスだけで、俺が我慢できるって…本気で思ってんの? ……それとも、わざと俺のこと試してる?」
つい意地悪に聞こえる言い方をしてしまった自覚はある。
けれど、彼女のその無防備さを見ると、呆れと諦めと、どうしようもない愛おしさが一気に押し寄せてきて、心がどうにかなりそうだった。
俺の言葉に、彼女が唇をぎゅっと引き結んだ。その顔に、また不安の色が濃く浮かぶのを見て、もう降参するしかなかった。
「はぁ〜〜…お前さぁ、ほんっと鈍いっていうか、健気っていうか……」
全ての感情を深いため息に乗せて吐き出す。彼女の溢れそうな涙を溜めた瞳に、俺が映っていた。指先でそっと目尻を拭うと、委ねるように目を細める。それだけでたまらなく扇状的に見えるのを、彼女は自覚もしてないのだろう。
「ねぇ、なに不安そうな顔してんの? 俺が、こんなことでナマエのこと嫌いになるわけ、ないでしょーが。…むしろ、逆だっての」
そう言って、そっと顎を掴んで顔を上げさせる。その瞳の奥では、期待と安堵が混じり合っていて、俺への想いが十分に伝わってきた。
──ああ、やっぱり。誰よりも、何よりも、可愛くて仕方がない。
ゆっくりと顔を近づけ、さっきまでの激しさとは全く違う、壊れ物に触れるようなキスを繰り返した。啄むように、何度も、何度も。確かめるように、優しく。
好きだ。好きで、好きで、胸が張り裂けそうだ。──でも、今はここまで。
「ん…」
キスの合間に漏れる彼女の声が、俺の身体をまた熱くする。今すぐにでも掻き抱いて、舌を入れて、すべてを奪ってしまいたい衝動に駆られる。だけど、唇を合わせるたびナマエの身体から少しずつ力が抜けていくのを感じると、この子にこれ以上触れるわけにはいけないと、全身が警告を鳴らすのだ。
大切にする。そう決めたから。
ゆっくりと唇を離し、額を合わせる。お互いの呼吸が震えていた。
「……ほんとに、キスだけだからな。……これ以上は、俺が、持たない」
今の俺に言える、精一杯の本音に、彼女は「ありがとう」と小さく頷いた。その顔に、もう恐怖の色はなかった。
彼女の頬を一度だけ撫で、俺は振り返らずに部屋を出た。玄関のドアを閉め、冷たい外気に身を晒した瞬間、自分がずっと息を止めていたことに気づく。
「……はぁ〜〜……」
熱い息が、白い塊になって夜の空気に溶けていった。胸の中の熱も少しずつ静まっていく。 空からは雪が降り始めていた。
とんでもない爆弾を抱えてしまった、と苦笑が漏れる。でも、それ以上に。
──これからはもっと、あいつの全てを大切にしていく。
そう誓った瞬間、胸いっぱいの愛おしさが込み上げてきた。