あの勉強会以降、なんだかんだ気まずさを感じることなく、及川とは付き合えている──と私は思っている。
昼休みは中庭や空き教室でお弁当を食べ、放課後は私が彼の部活終わりを待って一緒に帰る。そんな穏やかな毎日が続いていた。
そして彼はいつも、別れ際にキスをしてくることが当たり前になった。
私の家の近くの公園に寄ったときや、家への最後の角を曲がる前。及川の部活が終わるころにはすっかり日が暮れているので、誰かに見られる心配もないけれど、それでも街灯の明かりの下で彼の顔が近づいてくるたび、心臓が大きく音を立てる。
「…また明日ね」
そう言って、触れるだけのキスを残していく彼に、頷くことしかできない。
──まだ私は、及川に体を許す決心がついていなかった。
優しく抱きしめられることもあるけれど、彼の腕の中にいると、甘えたい気持ちと少し怖い気持ちが入り混じって、どうしたらいいかわからなくなる。
そんな私の戸惑いに気づいているのだろう。
彼はあの日の言葉通り、決して急かすことなく、静かに待ってくれていた。その優しさが心地よくて、同時に少し申し訳ない。けれど、彼の大きな愛情に包まれて、こわばっていた心が少しずつ緩んでいくのを感じていた。
△
高校二年生としての慌ただしい日々が終わり、やっと訪れた春休み。進級を前にした、少しだけのんびりとした時間である。
そんなある日の昼下がり、リビングで雑誌をめくっていると、スマホが軽快な音を立てた。覗いてみると、部活に行っていた及川からのメッセージが届いていた。
『やっほー! 体育館の清掃とかで、午後から急遽部活オフになった! ナマエが暇だったら、桜見に行かない? 駅の近くの公園、早咲きの桜が咲いてるっぽいよー』
その文字を見た瞬間、胸の奥がふわりと温かくなる。画面の向こうで、楽しそうに笑っている彼の姿が容易に思い浮かんだ。
『いいね。いま家にいるから、準備してから出てくるね』
そう返して、私はソファから立ち上がり自室への階段を上がる。
白いロングワンピースに着替え、ローテーブルの上に置いた鏡の前に座る。美白効果のある日焼け止めを顔にのばして、まぶたに淡い桜色をのせると、ほんのり顔立ちが華やいだ気がする。まつ毛をカールさせ、マスカラを軽く塗って、パウダーで肌を整える。最後にピンクのリップをひと塗りして鏡を覗き込んだ。
(ゔ…気合入れすぎたかな……)
思った以上に可愛らしい仕上がりになっている。でも、及川なら「似合ってるよ」って言ってくれそうだなと思って、そんな乙女なことを考えている自分に苦笑いした。
そして、キッチンへ向かい、食器棚から少し大きめの弁当箱を取り出した。
(部活の後なら、お腹すいてるよね…)
岩泉たちとファストフード店に寄ってから待ち合わせ場所に行くと言っていたけれど、それだけじゃ物足りないだろうと思い、簡単なお弁当を持っていくことにする。
及川と一緒にお昼ご飯を食べていると、時々私が作ったおかずを分けることがある。毎回美味しいと何度も言ってくれるので、我が家の味付けが口に合わないわけではないだろうと思っての行動だ。
冷蔵庫を開け、中にある食材を見ながらおかずを考える。
鶏むね肉はレモン汁を絡めて、さっぱり塩ダレで炒めよう。卵焼きは彼の好きな甘めにして。彩りよくミニトマト、アスパラの肉巻きも入れたら見た目も綺麗になるだろう。おにぎりの具は、疲労回復にぴったりな梅干しを選ぼうか。
及川のことを想いながら食材を切り、調理することは、思っていた以上に楽しい時間となった。
△
ワンピースの上に羽織ったカーディガンを胸元で引き寄せて待ち合わせた公園に行くと、入り口のU字柵に寄りかかる及川がいた。チームジャージに身を包み、スマホをいじっている。
近くまで駆け寄ると、私に気づいた及川が顔を上げて嬉しそうに顔を綻ばせる。
「ごめん、待った?」
「んーん、俺も今来たとこ。いきなり呼んだのに来てくれてありがとうね」
「ううん。朝から家にいて、特に予定もなかったから」
「そっか。……あれっ、じゃあもしかして、俺に会うためにわざわざメイクしてくれたの?」
さすがの洞察力。及川に見てもらえるようにと思って施したメイクなのに、実際に言われると、恥ずかしくて思わず視線を逸らす。
「別に…及川のためとかじゃないけど……外に出るからせっかくだしと思って…」
「…ふふ、そっか。すっごく可愛いよ」
予想通りの甘い言葉。私の照れ隠しなんてお見通しなのだろう及川は、満足そうに笑みを深くして頭を撫でてくれた。その優しい手つきに益々心臓が速くなって、まだ目的の花見もしていないのに、苦しさでどうにかなりそうだった。
「てか、それ何の荷物? でかくない?」
そう言って及川が指さしたのは、私が持ってきた少し大きめの籠バッグだった。
「これ? あとでのお楽しみ」
意味深に笑うと、彼は「気になるんだけどー」と言いながら楽しそうに私の隣を歩き出した。
公園の中は、予想以上に多くの花見客で賑わっていた。中央の広い芝生を取り囲むように並んでいるたくさんの満開の桜。その木の下では、大学生くらいのグループや、小さな子供を連れた家族が楽しそうに笑っている。
風が吹くたびに、はらはらとシャワーのように降り注ぐ薄紅色の花びら。子どもたちのはしゃぐ声が、春の暖かい空気と混じり合っているように感じた。
「うわ、すっげー綺麗!」
「ほんと。来てよかったね」
少し歩くと、桜の木の下に運よく空いたスペースを見つけた。持ってきたレジャーシートを敷くと、及川は「疲れたー」と大の字になって寝転がる。
私はタイミングを見て、バッグの中からお弁当箱を取り出してシートの上に置いた。様子を伺うように彼の顔を覗き込む。
「…ねぇ、ご飯食べてきたんだよね? あまりお腹空いてないかなとは思ったんだけど…」
「ん? さっき軽くみんなでハンバーガー食べてきたけど……え、まさか、弁当?」
がばっと体を起こした及川に、少し照れながら頷く。お弁当の蓋を開けると、彼の目がキラキラと輝いた。
「……うわっ、マジで!? すげぇ!! え、これ全部ナマエが作ったの!?」
「うん。急いで作ったから、味の保証はないけど…」
「はぁ!? めっちゃうまそうなんだけど!! まじで食べていいの!?」
「どうぞ」
「やったー!」
その素直すぎる反応が嬉しくて、自然と頬が緩む。
「いっただっきまーす!」
元気よく手を合わせた及川は、どれから食べようか、と真剣な顔で悩んだ末、卵焼きを一つ、大きな口を開けて頬張った。隣から、その様子を固唾を飲んで見守る。
もちろん味見はしたけれど、家族以外に、さらに彼氏に手料理を食べてもらうのだから、期待と不安でドキドキしながら彼の反応を待った。
「ん、うまっ! この甘さ、ちょーどいい!」
大げさなくらい目を輝かせて「おいしい」と言ってくれる及川にホッと胸を撫で下ろす。
もぐもぐと口を動かす幸せそうな顔を見て、胸の奥がじんわりと温かくなった。自分の作ったもので、大好きな人が喜んでくれる。元気になってくれる。それは、今まで感じたことのない感覚だった。
「この肉もめちゃくちゃうまい! もしかしてこの肉のレモン風味とか、おにぎりの梅干しって、部活終わりの俺のこと考えてくれた?」
「…気づいた? 疲労回復にいいかなって」
「やっぱりー? 最高すぎるでしょ俺の彼女ー」
及川は笑顔で次々とおかずを口に運んでいく。どんどんスペースが空いていくお弁当箱にホッとしながら、私も自分用に作った、少し小さめのお弁当の蓋を開けておかずを食べ始めた。
「ナマエって料理好きなの?」
「うん。お母さんが料理好きで、小さい頃からよく手伝ってたんだよね。今は、たまに自分のお弁当作ったり、家族の晩ごはん作るくらいだけど…」
「へえー! じゃあナマエにもしっかり料理上手な遺伝子入ってんだろうねー」
彼のストレートな褒め言葉に、頬が少し熱くなる。喜んでくれるのが、本当に嬉しい。そんな気持ちから、思わず私はこんな台詞を口にしていた。
「……あの、さ。もし、簡単なので良かったら…たまに、お昼のお弁当作ろうか? あんまりレパートリーないから、すぐ飽きちゃうかもしれないけど…」
そう言うと、及川はきょとんとした顔で私を見る。余計なことを言ってしまったかとドキリと胸が嫌な音を立てた。しかしその不安は杞憂だったようで、次の瞬間、及川はぱっと顔を輝かせた。花を咲かせたような表情を浮かべ、興奮を隠しきれない様子で私に詰め寄ってくる。
「まじで!? いや、もちろんナマエが無理しない範囲で、だけど…。作ってもらえたら、俺、めちゃくちゃ嬉しい! めっちゃ頑張れる!」
「う、うん。じゃあ、今度ね」
(良かった。喜んでくれた)
好きなおかずや苦手な食材を聞いて、頭の中でお弁当を組み立てる。母に作り方を聞いてみようかと思ったが、彼氏がいることは言っていないので、何か突っ込まれたら気恥ずかしいなと思い、今度本屋さんに行ってレシピ本を買おうと心に決めた。
そんな思考をめぐらせてると、及川はあっという間にお弁当を食べ終わり、手を合わせた。
「ご馳走さまでしたー!」
「お粗末さまでした」
私が持ってきたお茶を飲んで満足気に息を吐く彼の横顔を見つめながら、私はぽつりと呟く。
「……もうすぐ、三年生だね」
「ん。……高校生活もあと一年かぁ」
そう言いながら桜を見上げる彼の声は、少し遠くを見ているようだった。
「今度こそは、白鳥沢ぶっ潰したいなあ」
静かな口調なのに、いつもよりずっと強く心に響いてくるその言葉。どれだけの想いがこもっているのだろう。
そうだ、あと一年しかないんだ。及川と毎日のように顔を合わせ、こうして隣で笑い合えるのも、最後になるのかもしれない。
及川が進路をどうするかは分からないけれど、もし奇跡的に同じ大学に進んだとしても、今までのようにいつも隣にいることは不可能だろう。
胸の奥が、きゅっと寂しさで締め付けられる。
「……及川は、高校卒業しても…バレー続ける?」
思わず尋ねると、彼はすぐには答えず、風に舞う桜の花びらを黙って目で追っていた。
その横顔は、ただ綺麗だった。
綺麗すぎて、言葉が出なかった。ただそれだけのはずなのに、どうしてだろう──心のどこかに棘のような感覚が残った。
「……バレーは、やめないと思う。趣味か、本気かは……まだ、わかんないけどね」
少し間を置いて返ってきた言葉に、私は「そっか」と静かに呟く。
彼の才能を考えれば、プロの世界で活躍する姿も見てみたい。でも、それはきっと、私が想像もできないほど険しい道なんだろう。
──もしそうなった時、私は彼の隣にいられるのかな。
そんな不安が、胸を微かに掠めた。
「まっ、でも二年生も色んなことあったよね〜」
及川は空気を変えるように、声のトーンを明るくして言った。
「ナマエちゃんと隣の席になってー、俺が猛アピールしてー、付き合えて。俺、正直バレー以外の記憶ほぼそれだもん」
「……私もだよ」
初めて及川をちゃんと知って、指が綺麗だと思ったこと。隣の席になって、毎日のように軽い調子で話しかけられて呆れていたけど心の奥で惹かれていたこと。雨の日にキスしたこと。文化祭や体育祭、修学旅行…ぶつかったことも不安になったこともあるけど、学校生活での思い出はいつも及川が中心にいた。
飄々としているように見えて、実は誰よりも思慮深く相手を見ている。そして、そんな彼が人生をかけるほどの想いでバレーボールと向き合っているということを少しずつ知っていった日々。全部、大切な宝物だ。
すると、及川は私の手をそっと握って、こちらを見て優しく目を細めた。
「これからも、思い出作っていこうね」
「……うん」
及川が、これからのことを考えてくれているということに安堵する。さっきの、どこか消えてしまいそうだった儚気な雰囲気は気のせいだったのだろう。
微笑み返すと、彼は一瞬、息を呑んだように私を見つめた。そして、わざとらしくため息をついてみせる。
「はぁ〜〜…」
「な、なに」
項垂れた及川に、戸惑いながら声を掛ける。すると顔を上げた彼は口元を緩め、目尻を下げて笑った。
「今の顔、可愛すぎ。外じゃなかったら、絶対チューしてたよ」
「なっ…!」
「……ねえ」
彼が、私の耳元に顔を寄せる。
「……あとで、していい?」
囁くような声に、心臓が大きく跳ねた。
羞恥で彼の顔が見れなくて、赤くなった顔を伏せる。そして頷く代わりに答えた声は、今にも消え入りそうなものになってしまった。
「……人が、いないとこなら…」
それを聞いた彼が、満足そうに微笑んだ気配がした。
握られた手に力がこもる。彼の体温が、私を甘く包み込んだ。
「せっかくだし、ちょっと散歩する?」
及川のその提案に頷き、立ち上がる。芝生に沿うように整備されている歩道を二人で歩きながら、春休みの家での生活や及川の部活のこと、お互いの友人のことなど、他愛もない会話をする。
公園の奥の方では、柔らかいバレーボールでパスをして遊んでいる小学生くらいの女の子たちがいた。楽しそうな歓声が、ここまで聞こえてくる。
それを見つけた及川が、ふと足を止めた。彼の視線は、ボールを必死で追いかける子供たちに注がれている。その表情がとても優しくて、本当に、心の底からバレーが好きだ、ということが伝わってきた。
すると、私たちのすぐ近くに、別の方向からサッカーボールがころころと転がってきた。
「すいませーん!」と叫ぶジャージ姿の男の子に、及川はにこりと笑いかけると、足元にきたボールを、こともなげに、ヒョイと軽く蹴り上げた。ボールは美しい放物線を描き、男の子の胸元に吸い込まれるように、すぽん、と収まる。
「うわ、すげー! ありがとうございます!」
目を輝かせる男の子にひらひらと手を振って、及川はこちらに向き直った。
「……なんでも出来るんだね、及川は」
私がぽつりと呟くと、彼は待ってましたとばかりに腰に手を当てる。
「まぁね! パーフェクトボーイの及川さんだからね!」
「……すぐ調子乗るんだから」
得意げに胸を張る姿は、褒められた小学生みたいで可笑しくて。呆れつつも、私の口元にも笑みが浮かんだ。
その時、今までより少し強い風が、ざあっと吹き抜けた。桜の花びらが、まるで吹雪のように舞い上がる。私の着ていたワンピースの裾が、大きく揺れた。
「…きゃっ…」
厚めのカーディガンを羽織ってきたけれど、仙台の3月は、やっぱりまだ少し肌寒い。
「風強くなってきたね。そろそろ出よっか」
私の様子に気づいたのか、及川が気遣うように優しく声をかけてくれた。
二人でレジャーシートを敷いた場所に戻り、荷物を片付けて公園をあとにする。駅前に着き、及川は私の持ってきた籠バッグを持ちながら、こちらを見て首を傾げた。
「どうする? どこかで軽く飲み物でも飲んでく?」
「そうだね。近くのお店入ろっか」
私がそう言うと、及川は辺りを見回した。春休みの駅前は、どこも人でいっぱいで、すぐには店に入れそうもなかった。及川も同じ感想を持ったのだろう、困ったように眉を寄せる。
「うーん、どこも混んでそうだね…」
「春休みだもんね…。他にどこかあるかな」
「……あ、そうだ」
私が地図アプリを開こうとスマホをポケットから取り出したとき、及川は妙案を思いついたように屈託なく笑う。
「俺ん家近いし、ちょっと寄ってく? 母親いるかもしんないけど、飲み物とお菓子は出してくれるっしょ」
「えっ、及川の…おうち?」
予想外の提案に、思わず声が上ずってしまった。
「うん。いなかったらいなかったで、何か飲み物くらいは出せるし」
さらりと言われた言葉に、心臓が大きく跳ねた。
及川の家に行くのは、これで二度目だ。この前、彼の元カノと対峙したあと、半ば強引に連れてこられた時が初めてで。
あの時は、どこに行くかも分からず、ただ及川の背中を追いかけるのに必死だった。だけど今回は違う。彼と二人で、彼の家へ行く。その事実が、なんだかとても特別なことのように感じられた。
「…うん」
頷くのが精一杯の私を見て、その心中に気づいてるのか、いないのか、彼は「よし、決まり」と満足そうに笑い、私の手を引いて歩き出した。
△
「ただいまー」
玄関のドアを開けながら、及川が声をかける。けれど、しんと静まり返った家の中からは、返事はしなかった。
「…ありゃ、誰もいないや」
そう言って彼が靴を脱ぎ始めた瞬間、私の体が無意識に強張るのが分かった。
──ふたりきり。
その言葉が、頭の中で警報のように鳴り響く。先日の、私の部屋での記憶。熱っぽい彼の瞳と、触れられた肌の熱さが、鮮明に蘇る。
そんな私の変化に、彼はすぐに気づいたらしい。苦笑しながら、私の頭をぽん、と大きな手で優しく撫でた。
「なーんにもしないって。約束、したじゃん」
悪戯っぽく笑いながらも、その瞳はどこまでも優しくて、私の心の奥の不安まで、全部見透かしているようだった。
信じていないわけじゃない。でも、どうしても体が正直に反応してしまう。そんな自分が申し訳なくて、恥ずかしくて、私は俯いた。
「ご、ごめん…」
「いーのいーの。ささ、上がって」
「お邪魔します…」
彼に続いて、少しだけ緊張しながらお邪魔する。
「ジュース取ってくるから、部屋で待ってて。入ったらエアコンつけていいから」
そう言われて、彼の部屋の前に立つ。
前回は、元カノのことで落ち込んでいたのと、突然及川の自宅に連れて来られた事実に混乱して、あまりじっくり部屋を見渡す余裕もなかったので、変に緊張してしまう。
「…………」
ゆっくりと、襖を開ける。
部屋に足を踏み入れた瞬間、ふわりと鼻を擽ったのは、いつも抱きしめてくれる彼と同じ匂いだった。その香りに、不思議と心が落ち着く。
(及川の、匂いだ…)
クッションに腰を下ろし、エアコンのリモコンを操作する。ゴオオとモーターが稼働し始める音がして、やっと張り詰めていた息を吐き出すことが出来た気がした。
改めて部屋を見渡すと、本棚の中やテーブルの上には、バレー関連の雑誌や、トレーニングの本がぎっしりと並んでいた。棚の上には、たくさんの賞状やトロフィー、そして楽しそうに笑うチームメイトとの写真。彼のバレーへの情熱と、仲間との絆が、部屋の隅々から伝わってくるようだった。
その中に、一枚だけ、古びた写真立てがあるのに気づく。
思わず、ずりずりと膝を擦りながら近寄って手に取ると、そこに写っていたのは、屈託なく笑ってピースをする、まだ小学生くらいの及川と岩泉だった。
(岩泉、全然変わらないな)
幼い頃からの二人の仲の良さがわかる写真に、思わず笑みがこぼれる。岩泉の隣に写る及川は、今よりもずっとあどけない顔をしているけど、やっぱり彼らしくて。
「かわいい…」
ぽつりと呟いた、その時だった。
「ちょっとー、エロ本とか探してないよね?」
ひょこり、と襖を滑らせて顔を出した及川が、写真を手にしゃがみ込む私を見て、からかうように言った。その手には、トレーに乗ったジュースとお菓子を持っている。
「そ、そんなことしないよ!」
顔を真っ赤にして反論すると、彼はけらけらと笑いながら部屋に入ってくる。
「で、何見てんの?」
私の手元を覗き込んだ彼は、「ああ、岩ちゃんとの写真ね」と懐かしそうに目を細めた。テーブルにトレーを置き、私の隣に腰を下ろす。
「可愛いね、及川。小学校のときからモテたでしょ」
「まあー、当然ながら? 既にこの完成された顔立ちですからね? っていっても、小学生なんて足が速ければモテるからねー。岩ちゃんですら、それなりにモテてたし」
「……岩泉に失礼すぎるでしょ」
「やっべ、今の岩ちゃんに内緒ね? それより、今度ナマエのちっちゃい頃の写真も見せてよ」
「え、恥ずかしいからやだ」
「いーじゃん、見たい」
そんな軽口を叩きながら、及川がひとつひとつの写真について思い出を語ってくれる。小学生の及川、中学生の及川。一緒に過ごしてみたかったな、なんて今さら叶わないことを思う私は、いつのまに、こんなわがままになってしまったのだろう。
肩が触れ合うくらいの距離。しばらく、二人で黙って写真を見つめていた。穏やかな沈黙が、心地いい。
「……ねえナマエ」
不意に、耳元で彼が私の名前を呼ぶ。
「ん?」
顔を上げると、思っていた以上に近い場所に彼の顔があった。畳の上に置いていた私の手に、及川の大きな手のひらが覆い被さるように重なり、空気が変わったのが分かり、どくんと大きく心臓が鳴った。
写真を見ていた優しい目とは違う、少しだけ揺れた瞳。
「……さっきさ、人がいないとこならキスしていいって言ってたよね」
「……っ」
「…今なら、していい?」
あの日の約束を守るように、言葉で確認してくれる。その誠実さが、嬉しくて、愛おしかった。私は、小さく、でもはっきりと頷く。
及川がふっと優しく表情を緩めて、ゆっくりと唇が重なる。触れるだけの、穏やかで温かいキスに目を瞑る。唇を合わせられ、柔らかい彼の唇に委ねていると、そっと上唇を啄まれた。
「…ん」
私が小さく息を漏らした瞬間、彼の腕が私の腰を引き寄せた。驚いて目を開けると、すぐ目の前に、さっきとは違う、熱を帯びた彼の瞳があった。
唇が角度を変え、もっと深く、と訴えるように、私の唇を割り開いてくる。
「…ふっ…ん…」
舌が、ゆっくりと中に侵入してきた。彼の柔らかな舌に自分のそれも絡め取られて、思考が蕩けていく。ぬるついた唾液が、私の口内を滑らかにしていく。
腰に回された腕に、ぐっと力がこもる。もっと、と求められているのが分かって、息も胸も苦しくなった。
でも、その熱に体がついていかなくて、私の肩が小さく震えた、その時だった。
ピタリ、と彼の動きが止まる。
さっきまで私を映していた熱っぽい瞳が、苦しそうに揺らいだ。唇が名残惜しげに離れていく。
「……ごめん」
及川は肩で息をしながら、苦しそうに顔を歪めている。ただ謝っているんじゃない。約束を破りそうになった自分を、責めているのだと分かった。
「…怖がらせたね」
そう言って、名残惜しそうに私の頬を撫でる彼の瞳は、どうしようもない欲望と、それでも私を気遣う優しさがこもっていた。
その表情を見て、胸が締め付けられる。首を横に振りたかったけれど、吐き出す息はまだ小さく震えていた。
「…ごめん、これ以上はしないから」
申し訳なさそうに言う及川に、違うと言いたいのに。
気まずい沈黙が流れる。それを断ち切るように、及川はわざと明るい声を出した。
「そうだ! なんかDVDとか見る?」
空気を変えようとしてくれているその優しさが、嬉しくて、少しだけ切ない。私が「うん、見る」と答えると、彼が安心したように肩の力を抜いたのが分かった。
△
結局あのあと、及川のお母さんがすぐに帰ってきて、三人で少しだけお喋りをして、及川に家まで送ってもらった。帰り道、彼が繋いでくれた手は、少しだけ熱っぽくて、そして最後までとても優しかった。
自分の部屋のベッドに仰向けで倒れ込みながら、今日一日のことを思い返す。
公園での他愛ない会話。私の作ったお弁当を、本当に美味しそうに食べてくれた顔。そして、及川の部屋で触れた、少しだけ熱を帯びた、彼の唇。
『怖がらせたね』
また、あんなに苦しそうな顔をさせてしまった。
違うのに。怖かっただけじゃない。本当は、嬉しかった。もっと触れてほしいと、彼になら触れられても良いと、願っていたのも嘘じゃない。それなのに、心の奥のどこかが、彼の熱にまだ追いつけない。
私の「怖い」という気持ちと、彼の「欲しい」という気持ち。
その間で、彼はいつも必死に戦ってくれている。私を傷つけないように、あの日の約束を、ちゃんと守るために。
三年生になると、及川は正式にバレー部の主将になる。きっと、今まで以上に大きなプレッシャーとの戦いが待っているはずだ。
公園で見せた、バレーをする子供たちを見つめる、あの優しい顔を思い出す。彼の全てであるバレーを、これから一層、あの体に背負っていくのだろう。
──そんな時、私は彼の隣で、何をしてあげられるんだろう。
ギュッと、クッションを抱きしめていた腕に力を入れる。
彼が本当に辛い時、心から安らげる場所になりたい。彼の弱さも、焦りも、全部を受け止められるような、そんな彼女に、なりたい。いつか、私のこの臆病な心が、彼の大きな愛情に追いついたなら。その時は、私から、この手を伸ばしたい。
春の夜の空気は、まだ少しだけ、肌寒かった。