新学期を迎え、私たちはついに高校三年生になった。

 高校生活も残り一年。三年生になったというだけで、漠然とした焦りや、言い知れぬ不安が胸に広がる。それはクラスメイトも同じようで、休み時間には教室のいたるところで進路の話が飛び交うようになった。

 すでに進学先を決めている子、なりたい職業のために学部を絞っている子。夢に向かって、あるいはやりたいことのために進むべき道を決めた周りのみんなが、急に大人びて見えた。

(私の、やりたいこと…)

 大学には行こうと思っているけれど、その先で何をしたいのか、私にはまだ、明確な答えがない。みんなの会話の輪に入れず、自分だけが少し取り残されてしまったような気がして、胸の奥が小さく焦げ付くようだった。

 ぼんやりと窓の外を眺めていると、机の横にふっと影が差した。顔を上げると、いつの間にかそばに来ていた及川が、私の顔を覗き込んでいた。

「なーに、難しい顔しちゃって。眉間にシワ、寄ってるよ?」

 そう言って、彼は私の眉間を人差し指で、こつん、と軽く小突く。その悪戯っぽい仕草に、むっと口を尖らせる。

「…別に、なんでもないよ」
「ふーん? まあ、いいけど」

 彼はそれ以上は追求せず、私の頭をくしゃりと一度だけ撫でた。

「じゃ、俺はW頼れるキャプテンWというお仕事がありますので。ナマエちゃんも、寄り道しないで帰るんだよ」

 ひらひらと手を振って、彼は教室の出口へと向かう。ドアに寄りかかって腕を組んでいた岩泉が、待ちくたびれたという顔で彼を見ている。

「早くしろクソ川」
「もぉー、岩ちゃん、せっかちな男はモテないよー?」
「…あァ? お前、今日の対人覚悟しとけよ」
「きゃー!」

 幼馴染である二人の、いつも通りのやり取り。その背中を、私は静かに見送った。

 ──及川は、みんなの期待を一身に背負って、正式にバレー部の主将になった。
 けれど、新チームを率いるということは、彼が想像していた以上に、大変なことだったらしい。

 新入部員も数名入ったということで、インターハイに向けて、練習はますます熱を帯びていく。その中で彼は誰よりも声を出し、率先してチームを引っ張っていたけれど、時折、その表情には焦燥や疲れが滲んでいた。

 そんな彼の姿を見て、私は数日前に一つの提案をしたのだ。練習が終わっても、三年生は後輩の指導やミーティングで残ることが増えた。私が待っていると思うと、少しでも彼の気持ちを焦らせてしまうのが嫌だった。「明日から、先に帰るね」と伝えた時の、彼の顔を今でも覚えている。

「えー! やだー! 俺の唯一の癒やしタイムがなくなっちゃうじゃん!」

 大袈裟にそう言って拗ねて見せたけれど、その瞳の奥には、遅くまで私を待たせることへの申し訳なさが滲んでいた。私の気遣いを、ちゃんと分かってくれていたのだ。だから彼は、最後に「…わかった。ありがとう。ごめんね」と、少しだけ寂しそうに頷いてくれた。

 そんな、少しだけ切ない約束を交わして、一人で先に帰るようになって数日が経った、ある日。家で一人、授業の復習をしていると、及川から短いメッセージが届く。

『今から少しだけ顔見に行ってもいい?』

 その文面を見た瞬間、胸がきゅっと締め付けられた。
 いつもなら絵文字をつけたり、軽口を叩いたりしてくる彼が、今日は、まるで別人みたいに思えて。

 ——"少しだけ"。
 たったそれだけの言葉の裏に、何かを抱えているような気配がした。

『いいよ』

 そう返してから、私はスマホをそっと伏せた。なんとなく、部屋でただ待っているのは落ち着なくて、玄関の外に出る。
 冷たい風が頬を撫でていった。四月になり、肌を突き刺すような空気はだいぶ消え去っていたけど、日中の温暖な空気とは違い、夜はまだ少し冷える。それが妙に心細く感じた。

 数分後、角を曲がって彼が現れた。

 ジャージ姿でエナメルバックを片方の肩に無造作にかけ、俯き加減でゆっくり歩いてくる。

 近づいてきた彼は、私を見て、いつものように笑おうとして、失敗したみたいだった。口の端は無理やり上がっているのに、その瞳は全然笑っていなくて、まるでガラス玉みたいに光を反射しない。取り繕うことさえできないほど、心も身体も疲弊しているのだと、一目で分かってしまった。

「……ごめん、急に」
「ううん。全然、そんなの、いいよ。……来てくれて嬉しい」

 私は、なるべく柔らかい声で返す。そして、一歩だけ彼に近づいた。
 間近で見る彼の顔は、街灯の頼りない光の下でも分かるくらい、疲れ切っている。目の下の影が、痛々しい。

(……きつそう)

 そう思った瞬間、ふと、今朝の母との会話が頭をよぎった。

(そういえば、今日はお母さんたち仕事で遅くなるって言ってた……家、誰もいないんだ)

 静かな場所で、少しだけでも、彼を休ませてあげたい。その一心で、私は口を開いた。

「…家、上がる? 少しだけでも、休んでいきなよ」

 そう促すと、彼は立ち止まったまま、足元を見つめ黙ってしまった。玄関の前で無言になるその姿に、彼なりの躊躇いがあるのがわかる。
 最初は、彼がこの前の勉強会を思い出して、私の誘いに困っているのかと思った。けど、よく見てみると、この前のような困惑や動揺よりも、唇を引き結んで何かを逡巡しているような表情を浮かべている。

(……そっか…)

 きっと、彼氏としてのプライドが、邪魔をしているのだろう。学校でのW人気者の及川徹W。それは、いつも自信に満ちて、キラキラしていて、そして、簡単に弱みなんて見せない姿。
 そんな彼が、今、疲れ切った姿で、私の家に上がる。それは及川にとって、とても勇気がいることなのかもしれない。

 でも、同時に、分かってしまうのだ。

(……本当は、甘えたいんだろうな)

 毎日教室で顔を合わせているのに、それでも、わざわざこうして私の家まで来るのは、たぶん、メッセージを交わすだけじゃ足りなかったからだろう。
 主将の仮面を被ったままではなく、誰にも見られずに、何も考えずに、ただ心の鎧を脱げる場所。きっと彼にとって今は、それが必要なんじゃないかと思った。

 甘えたい。でも、プライドが許さない。
 その二つの感情が、きっと今、彼の心の中で必死に戦っているのから、こんな風に何かを堪えるような顔をしているのかもしれない。

「……無理には言わないよ。でも、そんなきつそうな顔見たら、放っておけない……」

 答えを促すように、重ねて伝える。あなたのその強がりも、その裏にある弱さも、全部わかってるよ、と。そんな気持ちを込めて。
 彼は少しの間、黙っていたけれど、やがて、ぽつりと呟く。

「……じゃあ、ちょっとだけ。お邪魔しようかな」

 その声音には、安堵と、少しの照れと、ほんのわずかな甘えが混ざっていて。
 私は何も言わずに微笑み返して、玄関のドアを静かに開ける。どこか緩んだような彼の気配が、背後からふわりと近づいてきた。

 及川を自室に案内する。二人きりでここにいる、ということの意味を考えて、喉が少しだけ乾いた。でも、今の彼には、きっとリビングよりも、誰の目も気にしなくていい、この場所が必要なのだと思う。

 及川は鞄とエナメルバッグを無造作に床へずりおろし、ベッドの縁に腰をかけた。
 そして、躊躇うような動きのあと、上半身をそのままうつ伏せにベッドへ倒れこむ。ジャージ越しに見える背中が、ふっと沈んでいく。

「……つかれた……」

 低く小さく、枕に顔を埋めたまま呟いたその声には、張り詰めたものが、ほどけたような響きがあった。
 学校や体育館では絶対に見せない顔。“主将”の肩書きも、“チームを勝たせなきゃいけない”という使命感も、この瞬間だけは、全部どこかに置いてきたみたいだった。

「…お疲れさま。はい、お茶」

 マグカップに入れた温かいお茶を差し出すと、彼はゆっくりと体を起こし、片手でそれを受け取った。一口すすると、湯気越しに息をついて、少しだけ目を細める。

「……ありがと。……なんか、ホッとする」

 そう言って見せた笑顔は、どこか照れくさそうで、それでいて安心しきっていて。私は何も言わず、隣にそっと腰を下ろす。
 マグカップを両手で包むように持ちながら、及川はしばらく黙っていた。何かを飲み下すように喉が動き、それから静かに息を吐く。

「……なんかさ、最近ずっと、空回りしてる感じがして」

 ぽつりと漏れた言葉。私は黙って彼の横顔を見つめる。その瞳には、疲れの他に微かな焦りが浮かんでいた。

「新入部員も入ってきて、みんな、それぞれ頑張ってんのにさ。俺だけ…ピリピリしてる気がして。主将だからって、ちゃんとしなきゃって思えば思うほど……なんか、上手くいかなくなる」

 その顔は、私が見たことのない表情だった。自分のプレーへの悔しさとは、全く種類の違う、もっと静かで、深い苦しさ。まるで足がつかない深い海の底に、たった一人で沈んでいくような、途方もない孤独と無力感が、彼の瞳から伝わってきた。
 普段のように笑って誤魔化すことさえできないほど、彼の中で何かが崩れかけているのが、痛いほど分かった。

「……正直、最近ちょっと思ったんだよね。俺、主将にならない方がよかったんじゃないかって」

 いつもの及川なら絶対に口にしないような、弱気な言葉だった。その肩には、きっと私が想像するよりもずっと大きなプレッシャーがのしかかっているのだろう。

 私はそっと及川の背中に手を当てる。

「そんなことないよ」

 ゆっくり撫でながら、静かに言う。ふっと、少しだけ彼の肩の力が抜けたような気がした。

「及川がどれだけバレーが好きで、勝ちたいって本気で思ってるか、みんな分かってるよ。一人で全部抱え込まなくてもいい。岩泉たちがいるじゃない」
「……ん」
「主将になった及川のこと、みんなちゃんと見てるし、ちゃんとついていってるよ。……私も、及川のことずっと見てるから」

 彼はしばらく黙ったまま、私の言葉を飲み込むように、静かに呼吸を繰り返していた。やがて、少しだけ顔を上げて、困ったように、でもどこか安心したようにふっと笑った。

「……はぁ〜…ナマエさぁ、ほんと……そういうとこ、マジで天使……」
「て、天使?」
「うん。俺さ、ちょっと前までマジで胃が痛くなるくらいしんどかったのに…。こうやって話してたら、何かどうでもよくなってきた。……いや、いい意味で、ね?」

 そう言って、彼は肩を軽くすくめると、照れくさそうに笑ってみせた。

「エネルギー、ちょっと補給できたかも」

 そう言って、彼は悪戯っぽく笑いながら、私の肩にこてんと頭を預けた。

「ねぇ、もうちょっとだけ、このままエネルギー補給させて」

 その声は、いつもの調子に戻っていた。だけど私は、さっきまで見せていた彼の脆さを知っているから、こうして甘えてくる姿が、ただただ愛おしくてたまらなかった。

 及川の柔らかい髪に手を添え、静かに撫でる。
 何も言わずにそうしていると、彼の呼吸が少しずつ落ち着いていくのが伝わってきた。静けさの中で、私はふと、未来のことを思う。

 ——いつか、もっと本格的に、スポーツを頑張る人を支える仕事に就けたら。彼のような、誰にも言えない悩みを抱えて、それでも前に進もうとする人を、近くで支えられる人になれたら。

 そんなぼんやりとした願いが、胸の奥に、そっと芽生えていた。
 それは、やりたいことが何も見つからずに焦っていた私にとって、暗闇だった道筋に、ぽつりと灯った小さな灯火のようだった。



 翌朝、いつもより少し早く家を出た。昨日の彼を思い出すと、あまり寝付けなくて、意味もなく早起きをしてしまった。
 弱音を吐き、子供みたいに私に甘えてきた、あの及川の姿。今日の彼は、一体、どんな顔をしているのだろう。

 誰もいない教室に入り、自席に鞄を置き、窓の外を眺めていると、扉が開き、クラスメイトが少しずつ集まってきた。友達がやってきて、昨日のテレビ番組の話や、好きなアイドルの話で盛り上がる。私は、普段通りに笑って相槌を打っていたつもりだった──だけど。

(……及川、大丈夫かな)

 心の中は、まだ彼のことでいっぱいだった。

 ──その時だった。
 がらり、と教室の扉が開き、汗で少しだけ前髪を濡らした及川が入ってきた、朝練帰りなのだろう、タオルを肩に掛けて「おはよー」と明るく挨拶をする。その姿を認めた瞬間、教室の空気が、ふわりと華やいだ気がした。

「及川おはよー!」
「朝練おつかれー」

 彼の周りには自然と人が集まる。そして、昨夜の弱々しさなど微塵も感じさせない、整った顔にいつもの笑顔を浮かべ、クラスメイトと軽口を叩き合っていた。

(……よかった。いつもの、及川だ)

 彼のその姿に、心の底から安堵する。周りにいる誰も、昨日の夜の彼のことを知らない。あんなに弱々しくて、必死に安らぎを求めていた、彼の本当の姿を。
 だけど、みんなに囲まれて笑う、完璧な「及川徹」の姿を見ていると、ふと、不安が胸をよぎった。

 ──もしかしたら、私がいなくても、彼はちゃんと一人で立ち直れたんじゃないだろうか。私の存在は、本当に、彼の支えになっているんだろうか。

 そんな暗い思考の渦に沈みかけた、その時だった。

 ブブッとスカートのポケットに入れたスマホが震えた。そっと取り出して画面を見ると、メッセージアプリの通知。送り主は、今まさに人の輪の中で笑っている、及川からだった。

『昨日はありがとね。おかげでエネルギー満タン。今日も一日頑張れそう』

 たった一行。絵文字も、いつものふざけたような文面もスタンプもない。でも、その短い言葉に、彼の不器用な感謝が詰まっているとわかった。

 反射的に顔を上げて彼の姿を見ると、友人と笑い合っている彼が、そっと制服のポケットにスマホを滑り込ませるのが見えた。ほんの一瞬、私にだけ送られた、彼の本音のメッセージ。

(良かった…)

 ──私のしたことは、ちゃんと彼のためになったんだ。
 彼がまた前を向くための、ほんの少しの休息になれたんだ。
 そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 込み上げてくる愛おしさに、思わず唇をきゅっと結ぶ。友人たちと談笑しながら、完璧な笑顔を浮かべている及川を見つめ直す。

(みんな、知らないんだ…)

 この完璧な笑顔の下に隠された、本当の彼のことを。
 世界でたった一人、私だけが、あの及川を知っている。その事実が、甘い優越感となって胸に広がっていく。この秘密が、どうしようもなく、愛おしかった。

 ──私の存在が、彼の支えになっている。

 その確信は、少しだけずるい、そして幸せな独占欲となって、私の心を静かに満たしていった。

君の隣で夢を見る



メランコリー