季節は、夏になった。
じりじりと肌を焼くような日射しと、耳鳴りのように響く蝉の声が、外の世界を支配している。
インターハイ宮城県予選、決勝。及川たちは再び、あの白鳥沢学園に敗れてしまった。その壁は、あまりにも高く、分厚かったのだろう。コートの上で、呆然と立ち尽くす彼らの背中を、私はただ見つめることしかできなかった。
あの敗北から数週間。及川たちが部活動を引退するまで、もう数ヶ月しかない。今はただ、目の前の春高予選を見据えて──三年生にとって、最後の大会へ向かう大切な時間を過ごしていた。
昼休み。窓の外では相変わらず蝉がオーケストラみたいに鳴いていて、がらんとした空き教室は、その声と、薄いカーテンを通り抜けて差し込んでくる眩しい陽射しで満ちている。私たちは、その片隅で、机を向かい合わせにしてお弁当を広げていた。
春休みに提案をしてから、週に二、三回、私は及川にお弁当を作っていた。どんなおかずでも、いつも目を輝かせて食べてくれる彼の笑顔を見れるのが、何よりも幸せだった。
今日も空になった二つの箱を包みながら、私は目の前でバレー雑誌に視線を落とす彼の顔を盗み見る。
言おうか、言うまいか。ここ数日、ずっと迷っていたこと。
バレーという確固たる目標がある彼にとって、私のまだ輪郭もおぼろげな夢の話は、どう響くのだろう。
不安が胸をよぎる。でも、一番に伝えたかったのも、彼だった。
私は意を決して、「及川」と、自分でも分かるくらい少し硬い声で名前を呼んだ。いつもと雰囲気が違うと感じたのだろう、彼はすぐに顔を上げてこちらを不思議そうに見る。
「どうしたの?」
以前は、これから大人になっていく中で、及川と違う道を歩むかもしれないという未来を想像するだけで、ただ寂しかった。彼のために、私に何ができるんだろう、とそればかり考えていた。
でも、今は少し違う。自分の足で歩く道を探し始めたからこそ、隣を歩く彼の大きさを改めて感じる。寂しいけれど、それはもう、ただ悲しいだけの感情ではなかった。
「私、行きたい大学決めたんだ」
「……へぇ、どこ?」
興味深そうに顔を覗いてくる彼に、はっきりと答える。
「東京にある、スポーツ栄養学が学べる大学。……前から、興味あって」
東京。宮城からは、新幹線でも数時間かかる場所。もし、私がそこへ進学して、及川が宮城に残ったら──私たちは、「遠距離恋愛」になるんだ。
(……嫌な顔、されないかな)
遠距離なんて嫌だ、と。そんな風に、彼を困らせてしまわないだろうか。不安が胸をよぎり、彼の表情を恐る恐る窺う。
「栄養学?」
私の内心の動揺など知る由もなく、彼はただ純粋に、私の選んだ道に興味を持ってくれたようだった。そのことに少しだけ安堵しながら、私は緊張で強張る声を必死で抑える。膝の上で、知らず知らずのうちにスカートを強く握りしめていた。
「うん。……及川とか、岩泉とかみたいに、一つのことに夢中になって頑張ってる人を見ると、すごいなって思うから。私には、そういう特別な才能はないけど……そういう人たちを、支えることができたらなって、及川が主将で頑張る姿見てからずっと思ってて」
「……ナマエ」
「私が出来るのって、食事でサポートすることかなって思ったの。ほら、及川って、私が作るお弁当喜んでくれるじゃない? ああいうの本当に嬉しいし、スポーツする人のことを考えながらおかずを作るのも、けっこう楽しくて」
彼の前でこんな話をするのは、なんだかすごく恥ずかしい。自分の夢を語るなんて柄にもないし、そのきっかけが、あまりにも彼の存在であるように聞こえてしまうから。顔が熱くなるのを感じながら、つい早口になってしまう。
バレーに全てを懸けている及川。その隣にただいるだけの女の子じゃなく、私も、私自身の足で、胸を張って立っていたい。
憧れだけじゃない。一人の人間として、彼とちゃんと向き合えるように。そんな想いが、私を突き動かしていた。
「最終的には、トップレベルで戦う選手をサポートできるような、そんな管理栄養士になれたらなって……。……まあ、簡単なことじゃないし、私にちゃんと出来るか、分からないけど……」
そう言って、誤魔化すように俯き加減に笑う。すると、向かいから迷いのない、力強い声が聞こえた。
「ナマエなら、できるよ」
驚いて顔を上げると、彼は真っ直ぐに私を見て、はっきりとした口調でそう言った。その瞳には、一点の曇りもない、肯定の色が浮かんでいる。
「え……」
「絶対できるって。ナマエ、そういうの向いてると思うし。ちゃんと目標見つけられて、偉いじゃん」
彼のストレートな言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
でも、同時に、その表情にほんの一瞬だけ、何か違う色が混じったような気がした。それは、寂しさ、のような、それでいて何か大きな決意を固めた人のような、静かで、強い光。
すぐにいつもの優しい笑顔に戻ったけれど、気のせい、だろうか。
「……ありがと」
胸に落ちた小さな違和感の染みをしまい込み、私は彼に尋ね返した。
「……それで、及川は進路どうするの? そろそろ決めないとでしょ?」
大学や、もしかしたら実業団から、バレーでの指名はきっといくつも来ているはずだ。
「……んー、まあ、色々と考え中……」
けれど、返ってきたのは、予想外に言葉を濁す声だった。机に肘を乗せ、頬杖をついて窓の外を見つめている。カーテン越しに差し込む陽射しになのか、あるいはそれ以外になのか、眩しそうに僅かに目を細める。その横顔には、焦りとは違う、何か途方もなく壮大なものと向き合っているような雰囲気があった。
さっき感じた、あの寂しさと決意の色が、また彼の瞳の奥に見えた気がした。
(……何を、そんなに悩んでるんだろう……?)
及川が、高校バレーだけで終わるような器じゃないことは分かっている。だけど、彼の視線の先にあるものは、私の想像よりもずっと遠い場所にあるのでは、と胸がざわつく。
不意に、及川がこちらを見る。
机越しにすっと伸びてきた大きな手。いつもみたいにふざけて頬をつねるんじゃなくて、まるで壊れ物に触れるみたいに、指先が私の頬にそっと触れた。その真剣な眼差しと、じわりと伝わる熱に、どきりと心臓が大きく脈打つ。校内では、こんな風に触れられることは滅多にないから、余計に。
「……ねえ、ナマエ」
囁かれた声は、少しだけ震えていた。
「俺がさ、もし……すごく遠いところに行くことになったら…寂しい?」
「……え……?」
——遠いところ、って?
大学が県外になるとか、そういうレベルじゃない、もっとずっと遠いところを指しているような響きを感じて、心臓が冷たくなる。
(まさか、海外……? いや、そんなわけ…ないよね…?)
でも、彼の声の切実さが、ありえないはずの想像を煽り、私の不安を掻き立てる。じわりと夏の暑さのせいとは違う汗が背中を伝う。
「……寂しく、ないわけ?」
返事をしない私を不満に思ったのか、拗ねた子供みたいに唇を少し尖らせて、私の髪の毛先を長い指でくるくると弄び始めた。その視線は私の目から僅かに外れていて、甘えているようで、同時に何かを試しているようにも見える。
「俺がいなくなっても、平気?」
「……っ」
「……ちょっとはさ、寂しいって思ってよ……」
その声は、どこか必死で、不安げだった。なんでそんなことを聞くのだろうと、嫌な予感に胸が締め付けられた。
「……寂しいに、決ってるじゃん」
私は、小さく、けれどはっきりと答えた。
「及川がどこで何を目指すとしても、私は応援する。……けど、もし離れることになったら…すごく、寂しいよ」
それが、嘘偽りのない、私の本心だった。
私の言葉を聞いた彼は、何も言わなかった。ただ、一瞬だけその唇をきゅっと引き結んで、何かを堪えるような顔をした。どうしたの、と名前を呼ぼうとした、その時。及川がふっと視線を廊下側へ向けたのが見えた。つられるようにそちらへ顔を向けた瞬間、彼が椅子から立ち上がり、机の上を覆うように、ぐっとこちらへ体を寄せる。
そして、次の瞬間には、柔らかい感触が私の唇を塞いでいた。
「!?」
学校でキスをされているという状況に、驚きと羞恥で、座っている椅子ごとガタンと音を立てて身体を引いてしまう。
ぱちぱちと瞬きを繰り返す私を、及川はどこか苦しそうに、だけど、ひどく愛おしそうな目で見つめていた。まるで、大切な宝物を、誰にも奪われないようにその目に焼き付けているかのような瞳をしている。
その眼差しに射竦められて、胸がきゅっと痛む。
彼はもう一度、今度はゆっくりと顔を近づけてくる。
「……ナマエ」
二度目のキスは、さっきみたいに不意打ちじゃなくて、もっと私の唇の形を丁寧に確かめるような、優しい触れ方だった。縋るような彼の熱が伝わってきて、私はそっと目を閉じる。
いつもの自信に満ちた及川じゃない。大きな決断を前にしているような彼の不安と覚悟が、唇を通して流れ込んでくる気がした。
及川は、どこに行こうとしてるのだろう。何を目指そうとしているのだろう。
置いて行かないで、と思う。私がやっと歩みたいと思える道を見つけたのに、彼は既にもっともっと先を見ているような気がした。
でも、今だけは、及川の心の錘が少しでも軽くなるようにと、ただ強く、そう願って、彼のキスを受け入れた。