今日は、及川たち三年生にとって高校生活最後となるかもしれない公式戦──春の高校バレー宮城県代表決定戦の準決勝が行われる。今日の試合で勝ったチームが、明日の決勝戦に進出することができる。
準決勝の相手は、王者・白鳥沢……ではなく、烏野高校。勢いに乗る、未知数のチームらしい。そしてそこには、及川が中学時代から意識し続けている後輩である影山飛雄がいた。
結果は——フルセットの激闘の末、青葉城西の敗北。あと一歩、全国には届かなかった。ホイッスルの音が、やけに遠くに聞こえて、喉の奥が熱くなるのを、必死にこらえた。
観客席から見つめる先、整列したチームの中で、及川だけが泣いてもいなければ、唇を噛んでもいなかった。まるで、込み上げる全ての感情に蓋をして、主将としての役割を最後までまっとうしようとしているように見えた。
メンバーが、観客席に向かって一列に並ぶ。及川の号令を合図に、全員が深く、深く、これまでの感謝を込めるように頭を下げた。
「ありがとうございました!!」
観客席から大きな拍手と、彼らの奮闘を労う声がかかる。
私は、泣かなかった。
今、私が泣くのは違うと思ったのだ。それは、彼の三年間の途方もない努力に、ただ便乗するだけの感傷的な涙になってしまうから。だから、唇を噛みしめ、ただその姿を目に焼き付けた。
ややあって、ゆっくりと顔を上げた及川と、一瞬だけ視線が交わる。その顔はやはり、悔しさに歪むでもなく、涙が滲むでもない。けれど、その瞳の奥には、何かを必死に押し殺しているような、痛々しいほどの強い光が宿っていて、私の心臓がどきりと締め付けられた。
会場のざわめきが遠くに薄れていく。控室へと続く、人気のない通路の手前で、私はただ立ち尽くしていた。
冬の足音が近づいてきていると実感する、少し冷えた空気の中、彼にどんな言葉をかければいいのか考える。安易な慰めや同情の言葉は、きっと彼のプライドを傷つけるだけだ。
今、彼にかけるべき言葉は、きっと──。
そんなことを考えていると、各校の選手たちが順に引き上げてきた。俯く者、涙を堪える者、そして、無表情のまま、前を見据える者。
しばらくして体育館から出てきた及川は、私の姿を見つけると、ゆっくりと、けれど真っ直ぐに、こちらへ歩いてきた。その表情は、怒りとも、悲しみともつかない、複雑な色をしていた。
「おう」
及川の後ろにいた岩泉が、私に気づいて手を上げる。お疲れ様、と声をかけると、彼は少しだけ目元を赤くしたまま「応援ありがとな」と笑ってくれた。すぐに松川と花巻がその両肩を抱き、無言で私の前に立ち尽くす及川に「先行くぞ」と声をかける。
「うん。すぐ行く」
「はいよー」
ひらひらと手を振る花巻たちを見送り、後に続く後輩たちにも頭を下げて、小さくなっていくその背中を見つめる。やがて、ひんやりとした通路に、私と及川だけが残された。
見上げた及川は、静かだった。あまりにも静かで、それが逆に彼の心の悲鳴を伝えているようだった。
「及川」
名前を呼ぶと、「なぁに」と、ほんの僅かに柔らかい声が返ってくる。
「お疲れ様」
──その一言に、私の全ての気持ちを乗せた。
この試合だけじゃない。主将として、チームを率いてきたこと。ずっとボールを追いかけ続けてきた、彼の長い、長い時間を。その全てを、労いたかった。
「っ…!」
その瞬間、及川の瞳が微かに揺れたのが分かった。彼は私の腕を掴むと、ぐっと引き寄せ、人目につかない柱の影へと体を隠す。
そして、今まで張り詰めていた何かが、ぷつりと切れたように、何も言わずに、ただ、強く、強く、私を抱きしめた。
ユニフォーム越しに伝わる彼の体温は、試合の熱がまだ残っているのかひどく熱い。ただ、何かを確かめるように、全ての想いをぶつけるように、その腕に力が込められていた。
「……あー……」
私の肩口で、及川が低く、息を吐き出す。それは慟哭ではなく、もっと乾いた、熱い塊のような響きだった。
「……くやしいな、ほんと」
絞り出すような声。でも、そこに涙の湿り気はなかった。
勝つために費やしてきた膨大な時間。勝利だけを信じて耐えてきた辛さ。主将として、チームを勝利に導けなかった悔しさ。三年間の努力が、報われなかった無念さ。
その全てを飲み込んで、彼はただ事実を噛み締めているようだった。
──胸が、締め付けられるように痛い。あんなに頑張っていた彼が、報われなかったことが、ただ、悲しい。
ふと、私の部屋のベッドで、疲れ切ってうなだれていた彼の姿が、脳裏を過ぎった。
『主将にならない方がよかったんじゃないか』と、か細い声で呟いていた、あの夜の彼。誰にも見せない弱音も、主将としてのプレッシャーも、全部、私は知っている。あんなにもがき苦しんで、誰よりも勝利を渇望していたのに。
でも、バレーボールは、残酷なほどにシンプルなスポーツだ。どんなに努力を重ねても、どんなに想いが強くても、最後にボールを落とした方が、負ける。
そして、そんな当たり前のことを、誰よりも、今この瞬間に噛み締めているのは、コートに立つ及川自身のはずだ。
だから、私は何も言わない。
「頑張ったね」も「惜しかったね」も、今の彼には、きっとただの気休めにしかならないから。
言葉を探す代わりに、私は及川の背中にそっと腕を回した。彼の想いを、今はただ全部受け止めるように、できるだけ強く、抱き締め返した。
ひんやりとした秋の空気が、私たちの間を静かに流れていく。言葉もなく、ただ互いの存在を確かめるように。
どれくらいの時間、そうしていただろう。
やがて、彼がゆっくりと体を離す。目元は熱を持っているように少し赤いけれど、濡れてはいなかった。その表情には、不思議と、何かが吹っ切れたような光が宿っていた。
「……ありがと」
ぽつりと呟かれたその一言に、私は「ううん」とだけ返す。
「でもさ」
彼は、ふっと力なく笑った。
「不思議と、『これで終わり』って感じが、全然しないんだよね」
まだ、ぶつけようのない悔しさはきっと残っているのだろう。けれど、その瞳は、それ以上に新しいスタートラインに立った挑戦者のように鋭く澄んでいるように見えた。
(──ああ、及川はもう、次を見ている)
言葉にされなくても分かってしまう。
彼のバレーは、ここで終わらない。
そして、彼と肩を並べて歩ける残りの時間は、もう長くはないのだと。
西日に照らされたその横顔は、悔しさも、痛みも、すべてを飲み込んで輝いていて。
あまりにも遠くて、手が届かないほどに、綺麗だった。
胸が軋むほどに、綺麗だと、思ってしまったのだ。