「放課後、この空き教室で少し話せる?」
昼休みに一緒にお弁当を食べていると、及川からそう言われた。いつもみたいな軽い響きはなく、真っ直ぐに私を見つめる真剣な眼差しに、心の準備をしなければ、と直感的に思った。
春高予選が終わり、及川たち三年生はバレー部を引退した。体育館に響いていた怒号も歓声も、ボールが床を叩く硬い音も、すべてが過ぎ去った日の出来事になった。あの灼熱のような日々を過去のものとした彼らは、どこか受け入れきれない現実と向き合いながら、進路という、否応なく見据えるべき未来を前にしているようだった。
最近の及川は、どこか上の空だった。時折、遠くを見つめて思い詰めたような顔をする。隣にいて、一緒に笑っていても、ふとした瞬間に彼の表情から温度がふっと消える。その度に、私の胸は理由のわからない不安に小さくざわついた。
(……何か、言われるんだろうな)
それが何なのか、はっきりとは分からない。けれど、もう二人の間に残された時間は多くないのだということだけは、嫌でも感じていた。だから、どこかで覚悟は、していたのかもしれない。
放課後、指定された空き教室の扉をそっと開けると、彼は一人、窓の外を眺めて立っていた。夕暮れのオレンジ色の光が、彼の広い背中と整った横顔を神々しく縁取っている。春高予選で敗退したあの日、遠くを見つめていた彼の、泣きたいくらい綺麗な横顔を思い出した。
「……ごめん、呼び出して」
私の気配に気づき、彼がゆっくりと振り返る。その表情は穏やかだったけれど、瞳の奥には、強い決意と、それからほんの少しの緊張が見て取れた。
「……座りなよ」
言われるがままに席に着くと、彼も向かいに置いた椅子に腰を下ろす。机を挟んだだけの距離が、今はひどく遠く感じる。
窓から差し込む西日が、床に長い影を落としていた。静かな教室の中、風にカーテンが微かに揺れる音と、及川の、いつもより少しだけ浅い呼吸の音だけが聞こえた。
「──……大事な話があるんだ」
少しだけ、及川の声が強張った。やっぱり、と思った。胸が、きゅっと締め付けられる。
彼が一度、唇を固く結び、何かを振り払うように息を吐いた。
「……俺、卒業したら…アルゼンチンに行くことにした」
唐突に、けれど、もう迷いのない、はっきりとした声で放たれた言葉。
(……アルゼンチン……?)
ぼんやりと、世界地図を思い浮かべる。日本の、ちょうど裏側にある国。飛行機で丸一日以上かかる、昼と夜が真逆の場所だと、授業で習ったことを思い出す。そんな途方もなく遠い国に、彼は本当に行ってしまうのか。
そして──ああ、と腑に落ちた。
だから、いつか聞いてきたのだ。『遠くに行ったら寂しい?』と。あの時の違和感が、痛みを伴う納得に変わって霧散していく。
分かっていた、つもりだった。彼はいつか、もっと広い世界に羽ばたいていくんだろうと。でも、いざその言葉を直接聞かされると、胸の奥がぽっかりと空洞になったような気持ちになった。
「……そう」
声が出たのが不思議なくらい、喉がからからに乾いていた。ただ、小さく頷くことしかできない。
「そっか…すごいね」
やっとの思いで絞り出した言葉は、自分でも驚くほど平坦に響いた。本当は、こんな他人事みたいに言いたくない。
──どうして、そんな遠い場所なの。
──なんで、一言も相談してくれなかったの。
喉元までせり上がってくる言葉を、全部飲み込んだ。
彼の決意の大きさを前に、私の存在なんて、なんてちっぽけなんだろう。心が軋む音がした。
「……ごめん。言うの、遅くなって」
及川が、苦しそうに呟いた。
「本当は、もっと早く言わなきゃって思ってたんだけど……お前に言うと、覚悟が鈍る気がして……言えなかった。……ごめん…」
その言葉に、はっとした。
彼が私に相談できなかったのは、私のことを軽んじていたからじゃない。むしろ、その逆で。私の存在が、彼の覚悟を揺るがすほど、大きかったから。その事実が、嬉しくて、そしてどうしようもなく、苦しかった。
及川は、机の上に置かれていた私の手を、そっと両手で包み込んだ。その瞳が、何かを伝えるように、真っ直ぐに私を見つめる。
「……なんで、アルゼンチンなのか、話してもいい?」
彼の問いかけに、私は黙って頷いた。
彼の言葉は、驚くほど静かで、けれど、その奥には子供の頃からずっと燃やし続けてきたであろう、熱いものが滲んでいた。
「俺が小学生の時、日本対アルゼンチンの試合を見に行って、そこにアルゼンチン代表のベテランセッターがいた。不調のエースをサラッと立て直して…めちゃくちゃ、かっこよかった。……こんなセッターに、なりたいって思った」
懐かしむように、彼の目が細められる。
「ずっと、俺のヒーローだったんだ。……それで、入畑先生の伝手で、その人が日本でVリーグの監督をしてた時に、会って、少しだけ話す機会があったんだ」
その声に、隠しきれない興奮と尊敬の色が滲む。その顔は、バレーボールを語る時特有の、少年のような輝きを放っていた。
「その人に再会して、自分の限界が、どこにあるのか本気で試したくなった。俺のこのバレーが、世界でどこまで通用するのか、知りたくなったんだ。この人に、ついていきたいって思った」
(そっか、だから…)
及川の夢は、私が思っていたよりもずっと大きく、深く、そして、ずっと昔から彼の心に根付いていたものだったのだ。
そのあまりに眩しい情熱を前に、私の存在が、彼の隣にいることへの自信が、急速にしぼんでいく。
「その人が、今アルゼンチンにいるんだ。だから、俺も行く。あの人の下で、もう一度バレーを学びたい」
その言葉は、もう誰にも覆すことのできない、彼の人生そのものの決意だった。
分かってしまった。この夢を追いかける彼の邪魔をすることだけは、絶対にしたくない。してはいけないと思った。
「──…」
私の手を覆う、及川の大きな手のひらのぬくもりに、一瞬だけ安堵する。
(綺麗だなあ…)
細いのに、骨張っていて、少し力を入れるとキュッと筋が浮かび上がって、その関節の美しさを際立たせる。爪の先まで、いつだって隙なく手入れをされている。
この手から、彼のバレーは生まれるんだ。そう思って、初めて彼から目が離せなくなった、あの日のことを思い出す。
でも、だからこそ、胸が抉られるように痛む。
この温もりも、この大好きな手さえも、もうすぐ私のそばから離れていく。その現実が、鋭い棘のように心を刺した。
「……及川」
喉が震える。心臓を鷲掴みにされるような錯覚に陥る。それくらい、彼の存在は私の心の奥の奥にまで根を張っていて、もう離れ難いものとなっていた。
及川が大切だ。及川も、私を大切にしてくれている。そして彼がバレーをどれだけ大切にしているかも、私は誰より知っている。だから──。
「別れよっか」
だから、もう、一緒にいられないと思った。
「…………は?」
私の言葉に、及川の瞳が、驚愕に大きく揺れた。握られた手に、ぎゅっと力が籠る。
「な、に言ってんの、ナマエ。冗談きついって……」
信じられないものを見るような目。彼の声に、今まで聞いたことがないほどの動揺が滲んでいた。だけどそんな彼に、私は残酷な言葉を繰り返す。
「冗談なんかじゃないよ。及川が、アルゼンチンに行ったら、私たち別れよう」
「……なん、で…遠距離、じゃ、だめ……?」
必死に何かを求めるような不安げなその問いかけに、心が張り裂けそうになる。彼が、私たちに「これから」があることを、疑いもせずに信じてくれていたことが伝わってきて、泣きそうになるのを奥歯を噛んで堪えた。
「…うん。だめ」
震える声を叱咤し、私は真っ直ぐに彼の目を見つめ返す。
「中途半端に、したくないの。……だって、及川はこれから世界で戦うんだよ? 地球の裏側で頑張る及川の隣に、私はいない。それなのに『付き合ってる』っていう事実だけがあって、それはきっと及川の重荷になる。そんなの、絶対に嫌なの」
彼のバレーが、好きだった。誰よりもひたむきに、泥臭く、ボールを追い続ける姿が。チームメイトを信じ、その力を最大限に引き出す、あの美しいトスが。
だからこそ、言わなければならない。
「私は、及川がバレーボールを追う姿が大好きだから。世界で戦う及川も、きっと、すごくかっこいい。だけどそれを、ただ応援するだけの彼女にはなりたくない。それは、及川のためにもならない」
及川は、何も言わずに私の言葉を聞いていた。ひどく傷ついた顔をしている。だけど、私の口から滑り出る言葉たちは、もう止められなかった。
「私は、私が決めた道で、胸を張れるように頑張る。栄養学を学んで、及川みたいに、本気でスポーツを頑張る人を支えられるような人になりたい。…及川も、私のことなんて気にしないで、全部、バレーに注ぎ込んでほしい」
それは、私の精一杯の、覚悟と愛だった。
「……そんなの、無理だよ……」
及川の瞳が、不安げに揺れる。
ガタンと大きな音を立てて、彼が勢いよく立ち上がった。
「っ、勝手に! 俺の未来からお前のこと無くすなよ…っ!」
「…及川…」
「……いやだ」
及川が、掠れた声で呟いた。迷子の子供のように、縋るように、私を見つめる眼差しは、ひどく弱々しい。
「……俺は…お前のこと…簡単に忘れられない…。ナマエがいない未来なんて、考えられない…!」
今にも消え入りそうな、苦しそうな声。
その、あまりにも正直な、私との未来を願う言葉に、とうとう堪えていた涙のダムが決壊した。一筋、頬を伝った熱い雫を合図に、ぽろぽろと大粒の涙が後から後から溢れてくる。
知ってる。私も、あなたを忘れられるはずなんてないから。
「……知ってるよ、そんなこと…っ」
力なく笑おうとしたけれど、失敗して、歪んだ唇から嗚咽が漏れる。頬を伝う涙はもう止められなかった。
その涙に、彼の方が耐えられなくなったようだった。
「だったら、なんで別れるなんて言うんだよ…っ!」
及川が、悲痛な声で叫ぶ。
「俺は、お前のこと重荷なんて思ったこと、一度もない! むしろ、お前がいたから、頑張れたことだって、たくさんあって…!」
「……っ」
彼の慟哭を聞き、一瞬だけ、甘い幻想が心を掠めた。
もしも、今、私が「行かないで」と、泣いて縋ったら?
この手を握りしめて、「私のそばにいて」と、みっともなく懇願したら?
優しくて、脆くて、そして今、誰よりも私を求めてくれているこの人は、もしかしたら、その夢を諦めてくれるかもしれない。二人で一緒に、どこかの大学に行って、今までみたいに日常を過ごして、くだらないことで笑い合う。そんな、穏やかで幸せな未来だって、手に入るかもしれない。
でも──その隣にいる及川は、本当に輝いているのだろうか。
違う。私が好きになったのは、そんな彼じゃない。
世界の果てに行くと言う大きな決断をして、無謀だと笑われても、がむしゃらにバレーボールの高みを追いかける。そんな、眩しいくらいに輝いている及川だから、私は好きになったんだ。
私が彼の翼を折って、この鳥籠に閉じ込めてしまったら、きっと、いつか後悔する。彼も、そして、そんなことをさせてしまった私自身も。
──だから。
だから、言わなければ。この甘い幻想を、私自身のこの手で、終わらせなければ。
「……うん、分かってるよ。ありがとう。……でもね」
私は一度言葉を切り、しゃくりあげそうな喉を必死で抑える。
「私を傷つけると思ったから、アルゼンチンに行くこと、ずっと言えなかったんでしょう?」
「──っ!」
その言葉に、及川は息を呑んで、何も言えなくなっていた。彼の沈黙が、何より雄弁な肯定だった。
私は、彼の葛藤の原因になっていた。その事実が、嬉しいだなんて、とても思えなかったのだ。
「きっと、及川がアルゼンチンに行ってからも、たった一人で決断しなくちゃいけない時がたくさんあると思う。その時に、私の存在が、足枷にはなりたくないの」
及川の隣で、支えることが出来ない。それはとても辛い、けど。彼は、きっと一人でも、大丈夫。彼には、バレーボールという道標があるから。
「私ね、及川の中では、バレーが一番であってほしいの。及川の覚悟を揺らす存在に、私がなってるんなら、私は、及川の前からいなくなる。及川のバレーの邪魔になるのなら、私はいつだって身を引く覚悟でそばにいた。…だからお願い。…行くと決めたなら、もう、振り向かないで」
私の固い意志を感じたのだろう。及川は何か言いたげに口を開き、また閉じて、何も言えないというように俯いた。
その姿が、あまりにも痛々しい。そして私は、最後のわがままを口にする。
「……及川のこと大好きだから…離れるのはもちろん、すごくつらいよ。…だからせめて、アルゼンチンに行く日まで、及川の彼女でいさせて。それまでは、今まで通り……たくさん甘えさせて」
及川は唇を引き結んで、グッと強く拳を握る。
「……ごめん」
その謝罪の言葉を否定するように、私はゆっくりと首を振った。
「謝らないで……及川は、何も間違ってない」
涙を拭うのも忘れて、私は彼を力づけるように、精一杯の笑顔を作った。
「……私は、及川がその道を選んでくれて、よかったって思ってる。……及川が、そういう人だから、私は好きになったんだから」
その言葉が、彼の最後の何かを壊したようだった。
後悔でも、悲しみでもない。まるで、堪えきれない感情が溢れ出すように、彼の瞳から涙が一筋、静かに流れ落ちた。その雫が夕日を反射して、きらりと光る。
彼の瞳から零れたそれが、あまりにも綺麗で。
(……つらい、なあ)
今この瞬間の彼の顔が、声が、流した涙の美しさまで、全部、全部『思い出』になっていくのだ。私の意思とは関係なく、脳裏に焼き付いて、過去として額縁に収められていく。
まだ、目の前にいるのに。まだ、こんなにも大好きなのに。あと半年もしないうちに、彼は日本からいなくなる。
「……ずるいよ、ナマエ」
そう呟いた彼の声は、ひどく弱々しかった。ふらつくような足取りで私の椅子の横まで来ると、まるで何かに縋るみたいに、私の腕を引いた。そのまま、息が詰まるほど強く、強く、抱きしめられる。その胸に顔を押し付けられると、触れた肩が、微かに震えていた。
「そんな風に言われたら、何も言えないじゃん。……お前が、誰より俺のバレーを応援してくれてるって、分かってるから……だから…」
彼の腕の中は、不思議といつも温かかった。しっかりとした筋肉の硬さと、彼の匂い。この腕の中にいると、どうしようもなく安心してしまう。
この温もりから、離れる日がくる。その事実が、鋭いナイフのように胸を抉った。
「……わかった。…俺の、わがまま聞いてくれたんだもんね……お前の、わがまま、聞くよ」
「……」
「行く日まで……ううん、行く瞬間まで、……俺の、一番可愛い彼女でいて」
「……うん」
その言葉に頷くと、彼は再び私を強く抱きしめた。今度は、さっきよりもっと、失うことを恐れるみたいに、ぎゅっと。
彼の腕の中で、どくどくと速くなる鼓動を感じながら、私は静かに目を閉じた。
窓の外では、夕日が沈みきる直前で、教室の中が一瞬、赤く染まる。風に揺れたカーテンの影が壁を渡り、時計の針が「カチリ」と進む音だけが響いた。
その一瞬が永遠に続けばいいのにと、心の中で必死に願った。
だけど、これが、私たちの選んだ未来。切なくて、苦しくて、でも、彼の夢を一番に応援できる、たった一つの方法だった。