図書館の、仕切りで区切られた自習スペース。蛍光灯の白い光が、無機質にノートの上を照らしていた。目の前に広げられた参考書の、びっしりと並んだ黒い文字の羅列を、私はただ目で追う。けれど、その内容は少しも頭に入ってこなかった。

(……だめだ)

 ページをめくる指が、微かに震える。
 瞼を閉じれば、すぐに蘇る、夕暮れの教室。そして、彼の瞳から零れ落ちた、一筋の涙。あの、あまりにも綺麗な光景が、頭から離れなかった。

 さっき、私たちは別れることを決めた。彼がアルゼンチンへ行ったら、私たちは恋人をやめる。そう告げたのは、他の誰でもない、私自身だ。口にした言葉は、強がりなんかじゃない。全部、本当の気持ちだ。
 及川が、人生を懸けてバレーボールを愛している姿が好きだった。その夢を、誰よりも応援している。海外へ挑戦するという彼の決断は、少しだけ、ううん、本当はすごく驚いたけれど、努力を惜しまない彼らしいと思った。
 そして、私の存在が、彼の覚悟を鈍らせる原因になっていたのだとしたら、悲しいけれど、離れるのが正解だと、そう思ったのだ。

 私は、私の道を歩む。及川の、道に乗っかるだけじゃない。彼がいなくても、ちゃんと自分の足で立てる人間になる。
 あの日、同じクラスになって初めて彼の指を見た時、私は憧れたのだ。バレーボールという、揺るぎない根幹がある、及川徹という人間に。
 それに比べて、私には何もないと思っていた。でも、今は違う。スポーツ栄養士になるという、成し遂げたいと心から願うものが、私にもできたから。だから、大丈夫。私は、一人でも、ちゃんと立てる。

 ──だけど。

「……っ」

 分かっている。分かっているのに、どうしてだろう。胸の奥が、軋むように痛い。幸い、両隣の机には誰もいない。高い衝立のおかげで、私の顔を見られることもない。
 ゴォオオ、という暖房の、一定のリズムを刻む音が、この図書館の静寂を支配していた。私の、か細い鼻を啜る音なんて、きっと誰にも聞こえない。

 だから、今だけ。ほんの少しだけ。
 この、止まらなくなった涙を、どうか許してほしかった。



 図書館で勉強をしてから帰るというナマエの後ろ姿が見えなくなるまで、俺はその場を動けなかった。
 一人で校門へと向かう足取りは、まるで鉛を引きずっているように重い。いつもなら、「終わるまで待ってるよ」なんて言って、少しでも長く一緒にいたがるくせに。今日だけは、できなかった。一人になって、このぐちゃぐちゃになった頭をどうにかしないと、あいつの前で、またみっともない顔を晒してしまいそうだった。

 泣いていたせいで熱を持った目元を、本格的な冬へと片足を突っ込んだ冷たい空気が容赦なく刺してくる。さっきの空き教室での出来事が、何度も頭の中で反芻していた。彼女の涙も、震える声も、そして、俺の夢のために「さよなら」を選んだ、あの強すぎるほどの覚悟も。
 足元がおぼつかない。冷たいアスファルトの感触だけが、妙にリアルだった。

「おせーぞ」

 校門のそばで腕を組んで待っていた岩ちゃんが、俺の姿を認めると、眉間の皺を深くして言った。そうだった、岩ちゃんを待たせていたんだ。

「ごめんごめーん。ちょっと野暮用でさ」

 ぐっと、意識して口角を引き上げる。いつもの調子で、へらりと笑ってみせた、つもりだった。声が、上擦らなかっただろうか。脳が命令して、表情筋が動く。その単純な動作が、今はひどく億劫だった。

「……帰るぞ」

 岩ちゃんはそれ以上何も言わず、俺の隣に並んで歩き出す。街灯がぽつりぽつりと灯る帰り道。二人分の足音だけが、やけに大きく響いた。

「……お前、なんかあったのか」

 しばらく無言で歩いていたが、不意に、隣から低い声が飛んできた。ドキリと、胸がざわめくのを無視して、無理やり口角を上げて首を傾げる。

「えー? なんもないよ? 相変わらず絶好調な及川さんですけど?」
「嘘つけ。そのヘラヘラした顔の下で、なんか隠してんのが見え見えなんだよ」

 さすが幼馴染、と言うべきか。俺のこんな完璧な演技を、岩ちゃんはいとも簡単に見破ってくる。

「別に、気のせいでしょ。岩ちゃん受験勉強のしすぎで疲れてんじゃないの」
「……そうかよ」

 それっきり、また沈黙が落ちる。その不器用な優しさが、今はありがたくて、同時に少しだけ息苦しかった。岩ちゃんに問い詰められたい自分と、このまま誤魔化しきりたい自分が、ぐちゃぐちゃになって思考を鈍らせる。
 俺から何かを言うべきだろうか。──でも、何を言う? 何から言えばいい? 俺自身が、まだ完璧には受け入れられてないことばかりなのに?

「……んだよ」
「え?」
「さっきから、チラチラこっち見てんじゃねぇよ、うっとおしい」
「み、見てないし! 岩ちゃん自意識過剰なんじゃない!?」
「あァ? てめぇが落ち込んでるみてぇだから、気ぃ使って黙っててやってんのに、察してちゃんかよ、めんどくせぇ」
「落ち込んでないし、察してちゃんでもねーわ!」

 ぷい、とそっぽを向く。ガキの頃から、こいつに図星を突かれると、決まってこうやって拗ねてきた。もう、ほとんど反射みたいなものだ。今さら、この幼馴染の前で、大人ぶる方法なんて、俺は知らない。
 やがて、見慣れた景色まで戻ってきた。あの交差点を曲がれば、あと百メートルもしないうちに、お互いの家に辿り着く。もう誤魔化しきれる。そう思った、その時だった。

「……ミョウジと、何かあったんだろ」

 確信に満ちた声だった。その瞬間、周りの全ての音が消えた。思わず足を止め、心臓の音だけがうるさい静寂の中で、ゆっくりと振り返った。岩ちゃんは、少し後ろで立ち止まっていた。

「……なんで、そう思うわけ」
「お前の考えてることなんざ、大体分かるんだよ。春高予選で負けた時より、ひでぇ顔してやがる」

 岩ちゃんの真っ直ぐな視線が、俺に突き刺さっているのが、薄暗い住宅街の中でもはっきり分かった。
 容赦ない言葉が、冷たい槍みたいに突き刺さる。こいつには、やっぱり隠し事なんてできやしない。長い付き合いで培われたこの観察眼は、俺の薄っぺらい虚栄や自尊心なんて、簡単に見透かしてくる。ふっと息を吐き出した。貼り付けていた笑顔の仮面が、音を立てて剥がれ落ちていく。

「……ナマエに、言ったんだ。卒業したら、アルゼンチンに行くって」

 さっき見たばかりの、彼女の涙が脳裏に蘇って、胸が軋んだ。俺の言葉を聞いた岩ちゃんは、僅かに眉間に皺を寄せる。

「……そうか」
「……そしたら、別れようって、言われた」
「…………は?」

 岩ちゃんの目が、驚愕に見開かれた。いつもの仏頂面からは想像もつかない、素の反応。それくらい、こいつにとっても衝撃的な言葉だったようだ。

「なんでだよ。遠距離でも何でも、やれるだろーが」
「…俺だって、そう言ったよ…。でも……あいつが、嫌なんだってさ。俺の足枷になりたくない、って。俺のバレーの邪魔をしたくないから、俺がバレーに集中できるように、アルゼンチン行ったら別れようって」

 言葉を紡ぐたびに、さっき教室で起きた出来事が、ただの悪夢ではなく、もう覆しようのない「現実」なのだと、その重みを増して胸にのしかかってくる。

「……ナマエ、泣いてた」

 ぽつりと、自分でも無意識に、一番言いたくなかった言葉が漏れた。隣の岩ちゃんが息を呑んで、纏っている空気が、ぴんと張り詰めたのが分かった。

「俺のこと好きだって、離れるのはつらいって泣いてたくせに、それでも、別れるって言うんだよ。……わけ、わかんねぇよ……」

 グッと、手の震えを抑えるように拳に力を入れた。俺は、ナマエの、あまりにも大きな愛情を、どう扱っていいのか、まだ分からなかった。

「あいつの願いは、『行く日まで彼女でいさせてほしい』ってことだけだった。俺は、それを受け入れるしかなかった。……あいつの覚悟、本気だったから」

 彼女の、健気な最後のわがままが、どんな鋭い刃物よりも深く、俺の心を切り裂いている。
 これから二人で過ごす時間が、すべて「最後」へのカウントダウンになる。一つ思い出を重ねるたびに、別れの日が近づいてくる。そんな、甘くて、幸せな地獄の時間を、彼女は自ら望んだのだ。

 ──俺のために。

 俺の言葉を聞いて、岩ちゃんはしばらく黙り込んだ。

「…………あー……」

 そして、腰に手を当て、溜め込んでいたものを吐き出すように俯いて深く息を吐く。

「……ミョウジなら、言いそうだな」
「え…」
「あいつは、お前が思ってるより、ずっと芯が強ぇよ。お前がバレーに人生懸けてんの、誰より分かってる。だから、中途半端な応援なんかしたくねぇんだろ。……ったく、お前よりよっぽど男前だな」
「……」

 その言葉に、何にも言えなかった。そして、さっきの岩ちゃんの長いため息の意味を悟る。
 あれは、呆れでも、怒りでもない。どうしようもなく世話の焼ける幼馴染と、俺が好きになった、あまりにも真っ直ぐで強い女の子──二人が選んだ道を、ただ、静かに納得したため息だったんだろう。
 そうだ、あの子は、強い。きっと、俺なんかより、ずっと。

「……そうだよね。ほんと、参っちゃう…」

 思わず自嘲するような笑みが漏れる。その瞬間、俯いた俺の背中を、岩ちゃんはバシン!と、思い切り平手で叩いた。

「…ぐはっ!!」

 身体の芯まで痺れるようなその強さに、耳元で目覚まし時計を鳴らされ、ぼやけた頭が無理やり起こされたような気になる。前によろけながらも何とか踏ん張り、真っ赤になっているであろう背中を摩りながら、信じられないものを見る目で岩ちゃんを振り向く。傷心の幼馴染への慰めにしては、パワーが強すぎる。

「いってー!! 何すんだよ岩ちゃん!!」
「この、うんこ野郎がっ!!! しっかりしろ!!!」
「──っ!」

 岩ちゃんの怒声が、静かな住宅街に響いた。その力強い口調は、耳元で鳴り響く警鐘のように、感傷に浸っていた俺の意識を、現実へと引き戻した。

「お前が選んだ道だろーが。あいつも、それを受け入れて、てめぇの背中押してくれてんだろうが。それなのに、お前がそんな湿気たツラしてどうすんだ!」

 そこまで聞いて、俺は、グッと目元に力を入れる。岩ちゃんの言葉が、正論だってことは分かってる。でも、今の俺には、その正論が一番、重い。そして、痛かった。
 自分の不甲斐なさへの悔しさと、何も言い返せない自分の情けなさに、奥歯を噛み締める。

「……だって…」

(だって、俺が、あいつをあんな風に泣かせた)

 俺のせいで、「別れよう」と言わせてしまった。俺の腕の中で、あの子が、小さく震えていた。あの声が、あの感触が、この身体に、そして鼓膜に焼き付いて、忘れられない。
 そんな、どうしようもない罪悪感が、ぐるぐると胸の中で渦巻いていた。

 受け入れなきゃいけないって、分かってる。分かってるけど、苦しい。離れるなんて本当は嫌だ。
 俺のほうが、よっぽど脆いなと再確認する。あの子がいなくなる未来を想像しただけで、世界から色が消えて、足元がぐにゃりと歪んでいく。

「…っ、だってじゃねえ! そもそも、まだ始まってもいねぇだろうが!」
「……っ!」

 俺が黙り込んだのを、弱音と捉えたのだろう。その眉間の皺をさらに深くしながら、岩ちゃんは言葉を重ねてきた。

「…あいつに、負けんじゃねぇよ。あいつが、自分の選択は間違ってなかったって、胸張って言えるくらい、お前はデカい男になってこい。地球の裏側で、誰にも文句言わせねぇくらい活躍して、そんで、それでもまだミョウジがお前にとって唯一の存在だってんなら……」

 岩ちゃんは一度言葉を切ると、俺の肩を掴んで、真正面からこちらを見据えて声を放つ。

「何年かかっても、迎えに行けばいいだろうが」
「……」

 ギリ、と拳を握りしめた。岩ちゃんの言葉は、今の俺には眩しすぎる。

(迎えに行く?)

 冗談じゃない。俺は、あいつを泣かせた。俺のせいで、あいつに「さよなら」を選ばせた。散々好き勝手なことを決めた俺が、都合よく迎えに行っていいわけがない。もし行けたとしても、あいつを困らせるだけだ。

 俺は、足元に目線を落とし、力なく呟いた。

「……そんな資格、俺にはないよ…」

 その、あまりにも弱々しい俺の言葉に、岩ちゃんは一度、ぐっと息を詰めた。そして、俺の肩を、さっきよりもっと強く、骨が軋むんじゃないかと思うほどの力で掴んだ。こっちを向け、と言われているのが分かって、ゆっくり顔を上げる。

「資格がねぇから、これから作んだろ」

 その、あまりにも真っ直ぐで、強く優しい言葉に、目を瞠る。

(……資格を、作る……?)

 考えたこともなかった。「別れる」という現実を受け入れ、自分の罪悪感に苛まれることで、必死だった。その先の未来なんて、考えちゃいけないとさえ思ってた。
 でも、こいつは、当たり前みたいに言うのだ。足掻いて、藻掻いて、手に入れろ、と。ナマエの選択を「正解だったこと」にするために、もう一度、ここから始めろ、と。

 嘘もつかないし、お世辞も言わない、そんな岩ちゃんの言葉は、いつだって正しい。その正しさが、今は痛いほど胸に沁みた。
 肩を掴むゴツゴツした手のひらから、熱が伝わってくる。それは、ただの慰めじゃない。俺と、そしてナマエの覚悟を、こいつが信じてくれているという、何よりの証だった。

 じわり、と目の奥が熱くなる。視界が、滲んでいく。

「……いわちゃん……」
「うわ、キメェ顔すんな! 鳥肌立っただろうが!」
「ひどっ! 人が感動してんのに!」
「うるせぇ! 感動してねぇで、腹括れ!」

 いつもの、軽口の応酬。でも、その言葉の一つ一つが、今は温かくて。俺は、涙が溢れそうな目元を乱暴に袖で拭った。
 そうだ。俺の道は、ここからだ。

「……俺、頑張る」

 見上げた夜空は、どこまでも澄んでいた。俺は、もう一度、前を向く。あの子に、そして、この最高の相棒に、胸を張れるように。

「おう。当たり前だ」

 岩ちゃんはそう言って、また前を向いて歩き出した。その照れ隠しだと分かる横顔に、俺は隣に並びながら、「ありがと」と、今度は声に出さずに呟いた。冷たい風が、頬を撫でる。

 卒業までの、あとわずかな時間。彼女と過ごせる、限られた時間。
 あの子がいない未来は、正直、怖い。息の仕方も忘れるくらい、途方に暮れるかもしれない。でも、岩ちゃんの言葉が、重く、でも確かに、俺の背中を押してくれた。

交差点にて



メランコリー