※ この話には軽い接触描写があります。


 十二月二十四日の昼下がり。街が浮かれたような喧騒とイルミネーションの光に満たされるその日、私の家のキッチンは、甘い匂いと賑やかな笑い声で満たされていた。

「ちょっ、及川! つまみ食いしないでって言ってるでしょ!」
「えー、味見だよ、味見! 必要不可欠な工程でしょー」
「どこが…あー、ちょっと! クリーム無くなっちゃうってば!」

 口を尖らせながら言う私の制止を意にも返さず、及川はボウルに残った生クリームを指ですくい、ぺろりと舐めた。その子供みたいな仕草に、呆れつつもそれ以上怒る気は起きなかった。

 二人で過ごす、初めてのクリスマス。そして、きっと、最後になるクリスマス。だから、何か特別なことをしたくて、一緒にクリスマスケーキを作らないかと提案した。

 料理を作るのは好きだけど、実はお菓子作りはあまり得意ではない。慣れない作業に奮闘する私の横で、及川は「俺、泡立て機使ってみたい!」とハンドミキサーを手に取ったかと思えば、案の定、クリームをそこら中に飛び散らせて私に怒られる。私が苺のヘタを取っていると、隣でその苺を一つ、また一つと口に放り込んでいく。
 そんな他愛もないやり取りが、くだらなくて、愛おしくて。キッチンに響く私たちの笑い声を聞いて、誰が私たちに別れの期限なんて存在すると想像できるだろう。そのくらい、私たちは、どこまでも楽しげだったと思う。

「……はい、完成」
「わ、すご! ナマエ、天才じゃん!」

 不格好ながらも、白いクリームと真っ赤な苺で彩られた手作りのケーキが完成する。及川が大袈裟に褒めてくれるのが嬉しくて、私たちは顔を見合わせて笑った。でも、私の笑顔は、きっと、ほんの少しだけ、泣きそうに歪んでいたと思う。

 ──この時間が、永遠に続けばいいのに。
 心の奥で、そんな叶わない願いで胸の奥がぎしりと軋んだ。

 ケーキを私の部屋のテーブルに運び、分厚い遮光カーテンを引くと、まだ明るい昼間の世界が遠ざかり、私たちだけの薄暗い空間へと変わった。窓の外では、音もなく雪が舞い降りる。灯りは、部屋の隅にある、小さなクリスマスツリーだけ。子供の頃から見慣れた豆電球の、宝石みたいな光が、彼の横顔を優しく照らし出していた。

 及川が待ちきれないと言うように、皿とフォークをお互いの目の前に並べた。

「じゃ、食べよー! メリークリスマース!」
「……うん、メリークリスマス」

 変に大人ぶって、お父さんがいつもお酒を飲む時に使っている綺麗なグラスに炭酸ジュースを入れて乾杯をした。

 そして、皿に切り分けたケーキをフォークで一口大に切り分け、口に運ぶ。スポンジは少し硬いし、クリームの塗り方も雑だけど、今まで食べたどんなケーキよりも、甘くて、美味しいと思った。

「ん、うまっ! さすが俺が泡立てたクリーム!」
「…ちょっと、及川の手柄みたいに言わないでよ」
「冗談だってー」

 軽口を叩きながら、及川は幸せそうにケーキを頬張っている。いつも通りの、自信満々で、悪戯っぽい、私の大好きな及川だ。そして、彼がいつも通りであればあるほど、私の胸は、きゅうっと締め付けられる。

(……あと、何回こうして笑い合えるんだろう)

 彼がアルゼンチンに行くことを告げた、あの夕暮れの教室を思い出す。
 
 ──『アルゼンチンに行く日まで、及川の彼女でいさせて』

 そう言ったのは、紛れもない私だ。あれから約二ヶ月。残された時間を、私たちは、まるで宝物を慈しむように、穏やかに過ごしてきた。
 でも、終わりが近づくほどに、心の奥底に仕舞い込んでいた醜い感情が、鎌首をもたげる。

(……いや、だな)

 絶対に口に出さないと決めた言葉だからこそ、頭の中を埋め尽くして、私の決意を揺るがそうと支配してしまう。

「……ナマエ? どうしたの、美味しくなかった?」

 フォークを握りしめたまま俯いている私に、及川が心配そうに声をかけてきた。私はハッと我に帰り、咄嗟に笑顔を作る。

「ううん、美味しいよ。……本当に、すごく、美味しい」

 彼の視線が、私の顔の上を静かに彷徨った。まるで、貼りつけた笑顔の裏に隠した感情まで、すべて透かし取るみたいに。その一瞬、呼吸が止まる。

 ──きっと、気づかれてる。
 この笑顔が、痛みを誤魔化すためのものだって。

 でも、及川は何も言わなかった。ただ、そっと笑って、「……そう」とだけ呟く。その唇から次の言葉が紡がれるのが怖かった。今日くらい、暗いことは考えずにいたかった。私は咄嗟に話題を変えるように「そうだ!」と私らしくない、わざとらしく明るい声を出す。

「クリスマスプレゼントあるの」

 そう言って、ツリーの下に置いていた箱の中から、用意していた箱を取り出す。「どうぞ」と及川に渡すと、彼は少し驚いたように目を見開いて、それから子供みたいに嬉しそうな顔で微笑む。

「ありがと。…いま、開けていい?」
「うん。気に入ってくれるといいんだけど…」
「ナマエちゃんがくれるもの、ぜーんぶ宝物だから大丈夫」

 明るく笑いながら、及川は包みを開けた。だけど中身が見えた途端、その手が、ぴたりと止まる。
 彼の視線は、箱の中に収められた小さなそれに、釘付けになっていた。箱を受け取った時の、無邪気な笑顔はもうどこにもない。 ただ、まるで驚きで呼吸が止まったかのように、固まっている。

「……これ、キーケース?」

 私が及川に選んだものは、革のキーケースだった。できるだけ、丈夫で、長く使えるものを、と願って選んだものだ。その意図に、及川は気付いているのだろうか。

「うん。アルゼンチンでの、新しい生活で使ってほしいなって…」
「……そっか……」

 ぽつりと、彼が呟いた。ゆっくりと顔を上げた彼の瞳と、視線が絡む。その瞬間、私は息を呑んだ。
 そこにあったのは、何か熱いものが込み上げてくるのを必死で堪えるように潤んだ光と、どうしようもなく嬉しそうに綻ぶ口元だった。 そんな、喜びと、痛みと、愛おしさが、彼の顔の上で混ざり合って、私が見たことのない表情を作っていた。

「……ははっ、……マジか……」
「……?」

 掠れた笑い声が、その形のいい唇から漏れる。その言葉の意図が汲めず、私はただ黙って彼を見つめた。 私の混乱をよそに、彼はまるで宝物でも扱うみたいに、そっとキーケースを手に取り、愛おしそうに、その革の表面を何度も撫でた。そして、込み上げてくる感情の波に耐えるように、一度だけ、ぐっと唇を引き結んだ。

「…ありがとう」

 喉の奥から、絞り出すような声だった。

「めっちゃかっこいい。…絶対、大事に使うよ」

 溢れ出しそうな気持ちを誤魔化すみたいに、彼は優しく微笑んで、私の頭を撫でてくれる。その手つきがあまりにも心地よくて、涙が滲みそうになった。

「……俺も、ナマエにクリスマスプレゼント、あるんだ」

 そう言って、及川はベッドの脇に置いていた自分のバックから、ラッピングされた箱を取り出した。
 「はい」と差し出されたそれを受け取る。ぐちゃぐちゃの心のまま、震える手でリボンを解き、包装紙を丁寧に開けて、そして息を止めた。中から出てきたのは、落ち着いたブラウンの、革のカバーに包まれた手帳だった。

「……これから、大学入って、それからも、スケジュールとか、メモとか、色々と書き込むこと、増えるでしょ。もちろん、パソコンとかタブレットとか、そういうのも使うだろうけど……紙に咄嗟に書くことも多いかなって。その時、これ使ってくれたらいいなって思ったんだよね」

 及川の言葉が、じんわりと胸に沁みる。

「──ナマエの夢、応援してるから」

 顔を上げ、目の前にいる彼の顔を見つめた。彼の声からは、心から私を信じてこの背中を押してくれているのが伝わってくる。それなのに、どうしてだろう。声の奥に、ほんのわずかな、置いていかれる子供みたいな、心細い響きが含まれているような気がした。
 これから私が歩んでいく未来を応援してくれる彼の優しさと、その隣に自分がいないという寂しさ。その二つが、彼の瞳の中で、静かに揺れていた。

「……ありがとう。すごく、嬉しい」

 膝の上に置いた手帳を、さっきの及川を真似するみたいに、そっと撫でる。まだ少しざらついた新しい革の感触がした。

「……ナマエのプレゼント開けた時、革だったから、びっくりした」
「…はは、本当だね」

 二人して、顔を見合わせて、一瞬だけ、時が止まった。そして、どちらからともなく、ふっと、困ったように、寂しそうに、微笑み合う。
 「お揃いだね」と彼が笑う。その一言に、また胸の奥がちくりと痛んだ。

 革は、長く使えば使うほど、味が出て、柔らかくなって、傷さえも愛おしくなる。このキーケースが、この手帳が、彼と私の手に馴染んで、くたくたになる頃。彼は、まだ私のことを、少しでも覚えていてくれるだろうか。私は彼の目の前に、自信を持って立てるようになっているだろうか。
 
 相手を縛らないように、自由に羽ばたかせるために、私たちは「待ってて」も「待ってる」も言わない。だからこそ、未来への約束を口にしない代わりに、こうして物に祈りを込めるしかないのだ。「どうか忘れないでほしい」という、お互いの願いが、こんな形ではっきりと示されてしまった。

 そんな、苦しくなるほど残酷な現実を前にして、私はもう、自分の気持ちに蓋をすることができなかった。

 ──大好きだ。なによりも、誰よりも、及川が好きだ。

 でも、この想いは、あと数ヶ月で、行き場をなくす。 及川が、アルゼンチンに行くのは、もう止められない。そこで、彼はきっと、もっとかっこよくなる。目まぐるしく変わっていく日々を過ごす彼の時間の中で、私との記憶は、どれだけ持ちこたえられるのだろう。

(いつか、忘れられちゃうのかな…)

 手帳も、キーケースも、時が過ぎるごとに古びていく。思い出なんて、物よりも、もっと脆い存在だ。及川は、アルゼンチンで新しいチームメイトができて、新しい生活が始まって、そして──新しい誰かと出会うかもしれない。
 
 私以外の誰かが、及川の隣で笑う? 私が知らない顔で、及川がその子を見つめる?
 ──想像しただけで、全身の血が逆流するような感覚に陥った。

 自分から離れることを選んだくせに、なんて身勝手なんだろうと思う。それでも、耐えられない。彼が誰かのものになるなんて、考えたくもなかった。
 こんな風に、甘い声で、優しい手付きで、他の誰かに愛の言葉を口にして、体に触れる及川なんて、想像したくない。そんなの、絶対に嫌だ。

 言葉だけじゃ、足りない。思い出だけじゃ、勝てない。 もっと、確かなものがほしいというこの想いを、何か形にして、彼の体に刻み付けたい。私という存在を、彼の記憶に、深く、深く、焼き付けたいと思った。そうでもしないと、私はこの不安に押し潰されてしまいそうだった。

「……ねぇ、及川」

 早速、プレゼントしたキーケースに、今使っている鍵を付け替えている及川の名前を呼ぶ。

「んー?」
「……えっち、しよっか」

 自分でも驚くほど、その言葉は静かに唇から滑り落ちた。シン、と部屋が静まり返る。エアコンの稼働音だけが、やけに大きく聞こえた。

「……え」

 ゆっくりと顔を上げた及川の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。

「なっ……な、な、な……!」
「……ふふ、なに、その反応」

 いつもは、自信たっぷりに私をからかって、ペースを乱してくるくせに、私のたった一言で、あの及川が、こんなにも余裕をなくしている。その、あまりにも動揺しまくっている彼を見て、私は思わず笑みをこぼした。
 不安で壊れてしまいそうだった心が、おかげでほんの少しだけ、軽くなった気がした。

 私は、彼の手を取って、両手で包み込む。ぴくりと及川の肩が揺れた。

「ずっと、我慢してくれてたでしょ」

 結局、あの勉強会の日から今まで、彼は私にキスより先を求めたことがなかった。私が怖がっているのを察して、自分の欲望を押し込めて。その優しさが、今は少しだけ、もどかしかった。

「私、したいの。及川と」

 募る不安を振り払うように、私のすべての想いを伝えるように、彼の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
 及川はしばらく、ぱくぱくと口を動かしていたけれど、やがて私の瞳に宿る覚悟を読み取ったのか、こくりと喉を鳴らした。

「──わかった」

 答えた声は、低く、少しだけ掠れていた。 

「……ちょっとだけ、待ってて」

 及川は言葉と同時に立ち上がると、部屋の扉へと向かう。

「え…? 待って、どこ行くの…?」

 私の不安を含んだ問いかけに、彼はドアノブに手をかけたまま、少しだけ躊躇うように視線を彷徨わせた。その耳が、ほんのりと赤く染まっている。

「……コンビニ。……ゴム、ないから」

 ぽつりと、消え入りそうな声でそう告げると、彼は私の顔を見ないまま、そっと部屋を出て行った。 バタン、と閉められたドアの音だけが、静かな部屋に響く。

(……ゴム……)

 その、あまりにも直接的な単語が、私の頭の中で何度も反響する。 顔に、カッと火が集まるのが分かった。私たちがこれからしようとしていることが、ただの夢物語ではなく、紛れもない「現実」なのだと、突きつけられた気がした。

 一人残された部屋。膝の上に置いた自分の手を見ると、それがカタカタと、小刻みに震えているのが見えた。 その震えを止めるように、反対の手で、ぎゅっと強く握りしめる。

(──大丈夫。私が、決めたことなんだから)

 心の中で、何度も呪文のように繰り返す。どれくらい、そうしていただろう。

 不意に、階下で、ガチャリと玄関のドアが開く音がした。びくりと、肩が跳ねる。続いて、ギシ、と階段を軋ませながら上がってくる、彼の足音。そして、その足音は、私の部屋のドアの前で、ぴたりと止まった。思わず、グッと息を詰める。

 ゆっくりと、ドアノブが回り、扉が静かに開かれた。そこに立っていたのは、小さなビニール袋を片手に、どこか戸惑ったように、窺うように、こちらを見つめる及川だった。外の寒さのせいか、それとも、この状況への緊張からか、彼の鼻の頭と頬は、まだほんのりと赤かった。

「……こっちきて」

 彼に手を引かれるまま、ベッドに腰を下ろす。及川が隣に座り、私の頬をそっと両手で包み込んだ。真剣な眼差しが、答えを求めるように私を射抜く。私は、小さく頷いた。
 その瞬間、彼の瞳に宿っていた理性の光が、ふっと揺らぐ。

「……ん」

 ゆっくりと唇が重なった。最初は、ケーキの甘い香りが残る、優しいだけのキス。でも、すぐに彼の腕が私の腰を強く引き寄せた。角度が変わり、もっと深く、と訴えるように唇がこじ開けられる。彼の舌が、ためらいなく私の口内へと侵入してきた。

(……私も、応えなきゃ)

 このまま、彼にされるがままじゃ、だめだ。これは、私が望んだことなのだから。私は意を決して、おずおずと、自らの舌を伸ばして彼のそれに触れさせた。

 その瞬間、及川の動きが一瞬だけ、ぴたりと止まる。そして、次の瞬間には、まるで私のささやかな反抗を喜ぶかのように、もっと深く私の舌を絡め取ってきた。

「んっ……ふぅ…ぁ…」

 息の仕方も忘れさせられるような、蕩けるように甘いキス。彼のセーターの裾を掴む指先に、ぎゅっと力が入る。しばらく吐息までも奪われるような深い口付けを交わしていたが、突然ふっと唇が離れたかと思うと、彼はそのまま、私の耳たぶをゆっくりと食んだ。

「ひゃっ…!」

 ぞくり、とした感触に、思わず肩が跳ねる。彼の唇はそのまま耳元へと移動し、甘い囁き声を落とした。

「……ナマエ……可愛い…」

 普段から砂糖菓子みたいに甘い彼の声が、吐息と一緒に耳に注ぎ込まれると、もっと粘度の高い、蜂蜜みたいにどろりとした濃厚なものに変わる。背筋が、その濃密な甘さにぞくぞくと震えた。そのまま、彼の唇は私の首筋へと降りていき、皮膚の柔らかい部分をなぞるように舌で舐め上げた。

「んんっ…!」

 唇からは、鼻にかかったような、声にならない音しか出ない。
 体の力が抜けて、そのまま、ゆっくりとシーツの上へと押し倒される。視界に映るのは、もう欲望を隠そうともしない顔をした及川だけだった。心臓が、痛いくらいに速く脈打っている。

 彼の手が、私が着ている厚手のトレーナーの裾から、するりと滑り込んできた。冷えた指先が、熱を持った私の素肌に直接触れた瞬間、びくり、と体が跳ねる。

「ごめん、冷たかった?」
「う、ううん、大丈夫……」

 答える声が、情けなく上擦ってしまう。私の返事にホッとした顔をした及川は、その長い指で、私の体のラインを確かめるように、ゆっくりと肌の上を滑った。ウエストのくびれをなぞり、肋骨の形を確かめ、そして背中に回り、ブラジャーのホックにそっと触れる。

「あっ…」

 パチンッ、と乾いた音がして、胸を締め付けていた圧迫感が緩んだ。やがてその手は体の前方に戻ってきて、隙間が出来た布地の下を潜り、私の柔らかな膨らみを、直接そっと包み込んだ。

「ん……っ」

 思わず漏れた声に、彼が満足そうに目を細めるのが分かった。人差し指が、硬くなり始めた先端を、わざとらしくゆっくりと撫でる。経験したことのない感覚に、頭が真っ白になった。

「…あっ……!」

 今まで出したことのないような、甘い声が喉から漏れる。その、快感に蕩けた自分の声が耳に届いて、痺れていた頭の熱が、水をかけられたように冷えていく。

(私…今、どんな顔、してる……?)

 及川に触れられるのは、嬉しい。けれど、及川にすべてを暴かれて、溶かされていく、自分の知らない自分。その姿を、彼に見られているという羞恥と、自分が自分でなくなっていくような感覚。それが、未知への恐怖となって、私の心を冷たく支配し始めた。

(ちがう、大好きだから、大丈夫。大丈夫だから)

 これは、私が望んだこと。彼を繋ぎ止めておきたいという、私のわがままなのだから。

 そんな私の心の葛藤など知る由もなく、及川がブラジャーに指をかけ、それをそっと、上にずらそうとした。ついに及川の眼前に、自分の素肌が晒される。その事実に、ぎゅっと目を閉じた、その時だった。

 ふと、私を覆っていた体の重みがなくなった。

「……え?」

 困惑して目を開けると、及川が少しだけ体を起こし、私を見下ろしていた。 さっきまでの、欲望を隠そうともしなかった熱っぽい光はもう彼の瞳にはなく、ただ、どうしようもなく優しくて、悲しい色だけが揺れていた。

「……無理しないでってば」

 その、どこまでも穏やかな声が、逆に私の心を抉った。

「ち、違う! 無理なんかしてない、本当に!」

 自分でも分かるくらい、上擦った声だった。 私の、あまりにも見え透いた虚勢に、彼は困ったように、ほんの少しだけ目尻を下げた。

「……そんな、今から殴られるのかっていうくらい奥歯噛み締めてる顔してる彼女に、手は出せないよ」

 及川の指が、私の強張った頬をそっと撫でる。彼にとって、私の嘘など、赤子の手を捻るように造作も無く簡単に見破れるものなのだろう。

「言ったじゃん、ナマエの心が追いつくまで待つよって。もちろん、正直言って俺は今すぐにしたいって思ってるよ。……だけど、俺の気持ちに、ナマエが合わせてくれるのは、嫌なんだって」
「ちがう…わたし、わたし…本当に及川としたいって……」

 かろうじて絞り出した私の言葉を、彼は遮らなかった。ただ、静かに聞いて、そして、全てを分かっているというように、悲しそうに微笑んだ。
 横たわったままの私の腕と腰に、彼の手が触れる。その優しい力に導かれるまま、私は体を起こされた。ベッドのスプリングが小さく軋み、私たちはシーツの上で向かい合うかたちになる。同じ高さになった彼の瞳が、まっすぐに私を見据えている。
 今から紡がれる言葉が、とても大切なものであると、予感させるように。

「うん。ナマエが、したいって思ってくれた気持ちは、本当だって分かってる。すごく、嬉しいよ」
「……」
「でもね、それは、俺がいなくなるから、焦って『思い出』を作ろうとしてる気持ちでしょ。……違う?」
「……っ」

 息を呑む。心臓がどくんと嫌な音を立てる。
 図星だった。 ここまで見透かされている彼に対して今更「違う」なんて言えなかった。

「俺が欲しいのは、そういうのじゃないんだ」

 彼の声は、どこまでも優しかった。

「ナマエが、不安とか、焦りとか、そういうの全部取っ払って、ただ純粋に俺に触れて欲しいって、心から望んでくれる、そういうのがいい。……じゃないと、俺は、お前のこと、ちゃんと大事にできてないってことだから」

 私自身ですら気づかないふりをして、 「大好きだから」という綺麗な言葉で上塗りしていた、触れて欲しい理由。 心の奥底に押し込めていた、身勝手な独占欲や焦りや、不安。それを、及川は、全部、分かっていた。
 その事実と、彼のどこまでも誠実な想いが、嬉しくて、誇らしくて、そして、そんな浅はかな考えで彼に触れてもらおうとした自分が、どうしようもなく恥ずかしくて。
 彼は、私の体以上に、私の心を、こんなにも大切にしてくれているのに。

「……っ、ごめん……」

 シーツをぎゅっと握りしめると、ぽろりと涙がこぼれた。
 ごめんなさい、あなたに甘えてばかりで。
 ごめんなさい、自分の弱さで、あなたを試すようなことをして。

 及川は何も言わずに、そんな私の涙を指でそっと拭うと、壊れ物を抱きしめるように、私をゆっくりと腕の中に引き寄せてくれた。

「俺こそ、ごめん。……焦らせたよね。無理させて、こごめんね」

 その、あまりにも優しい言葉に、さらに涙が溢れる。及川の胸に顔をうずめると、とくん、とくん、と力強い鼓動が伝わってくる。堪らず、彼の香りがするセーターを、皺がついてしまうのではないかと思うほど、強く、強く握り締めた。

(ああ、そうだったんだ)

 及川とひとつになりたかった。その気持ちに、嘘はない。でも、私が、その手段を使ってでも手に入れたかった「安心感」と「繋がり」の正体は、きっと“彼の体”じゃなくて、“彼がここにいるという確信”だったんだ。
 この腕の中だけが、私の世界のすべてだ。及川が、そばにいて、私を、何よりも大切に想ってくれている。ただ、それを感じられるだけで、あれほど私を苛んでいた未来への不安が、嘘みたいに溶けていく。

 ──でも、この音も、この温もりも、あと数ヶ月で、私の手から零れ落ちていく。

 しょっぱい涙の味が混じった、この聖夜が、あまりにも甘くて。甘すぎるからこそ、どうしようもなく、胸が痛んだ。

甘くて、痛かった



メランコリー