「卒業証書授与、三年六組──」
担任が、一人ひとりの名前を読み上げる声が、体育館に朗々と響いている。
高く大きな窓から差し込む光が、空気中を舞う細かな埃をきらきらと照らし出していた。私は冷たいパイプ椅子の上で、三年間ですっかり穿き慣れた制服のスカートを膝の上でギュッと握った。
「六組代表、及川徹」
反射的に顔を上げる。クラス代表として壇上に上がる彼の背中を、この一瞬を逃すまいと、息を詰めて見つめた。
凛とした立ち姿。でも、いつもより少しだけ、彼の肩が硬く見えたのは気のせいだろうか。この姿を、この瞬間を、痛みと共に瞼の裏に焼き付けることだけが、私にできる唯一のことだった。
──今日、私たちは、青葉城西高校を卒業する。
式典が終わり、体育館を一歩出ると、三月のまだ少し冷たい風が吹いていた。教室に移動し、クラスでの別れの時間を終えた三年教室の周辺には、喧騒が響き渡る。
解放感に弾ける声、別れを惜しむ湿った声、未来への希望を語る明るい声。その全てが、私の心には届かず、まるで分厚いガラスを隔てた向こう側で鳴っているノイズのように、鼓膜をただ通り過ぎていく。
手にした卒業証書の筒が、ずしりと重い。これは、私たちの高校三年間が終わった証。そして、及川との恋人としての関係が終わるまでの、本格的なカウントダウンが始まった合図なのだと、冷たく突きつけられている気がした。
「ナマエー! 一緒に写真撮ろ!」
「あ、うん」
友人に呼ばれ、お揃いのポーズを取っているクラスメイトの輪の中に引き入れられた。うまく笑えているだろうか、と不安になる。みんなの楽しそうな笑顔が、やけにゆっくりと、スローモーションのように見えた。
「ナマエ、及川くんと遠距離になるんだよね? 大変だろうけど、頑張ってね!」
「……」
卒業アルバムの寄せ書き部分にメッセージを書きながら言う、クラスメイトの屈託のない声が、鋭い針のように心を刺してくる。
「アルゼンチンだっけ? すごいよねー! でも、ナマエたちなら大丈夫だよ!」
「たまには及川もこっち帰ってくるんでしょ? その時は、いつもみたいにラブラブなとこ、ちゃんと見せてね!」
誰もが、私たちの「これから」を信じて疑わない。喉まで込み上げてくる「違うの」という言葉を、無理やり笑顔で飲み込んだ。
「……うん、ありがとう。頑張るね」
声は、震えなかっただろうか。でも、せめて、みんなの中だけでも、幸せそうな私でいたくて。その残酷な誤解を、否定することはできなかった。
廊下に視線を向けると、人の輪の中心で、岩泉たちとともにバレー部の後輩たちに囲まれている及川の姿が目に入る。彼は、その整いすぎた顔に、いつも通りの完璧な笑顔を貼り付けていた。
その時、不意に、視線が交わった。
ほんの一瞬。彼の瞳が、痛みを分かち合うみたいに、そっと細められる。でも、それは本当に束の間の出来事で、彼はすぐにいつもの人懐こい笑顔に戻って、後輩の頭をわしゃわしゃと撫でていた。
「あ、及川くーん! ナマエとツーショット撮ってあげるよー!」
友達の一人が、大きな声で彼を呼ぶ。その言葉に、周りが「いいねー!」と囃し立てた。
「い、いや、別にいいよ!」
私は慌てて首を横に振る。しかし、先ほどまで廊下にいたはずの及川が、いつの間にか人の輪を抜け出して、ひょいと私の隣にやってきた。
「ちょっとナマエちゃんー、なーに遠慮してんの。せっかくだし撮ってもらおうよ」
それは、よく聞き慣れた、及川の軽やかで甘い声だった。
緊張で固まる私の肩を、及川がぐっと引き寄せる。ふわりと香った、彼の匂い。抱き寄せられた肩から伝わる温もりが、私の胸を鋭く刺した。この香りも、この温もりも──今は心臓を締め付けるものに変わっていた。
スマホを構えた友達が、楽しそうに叫ぶ。
「はーい、撮るよー! 笑って笑ってー!」
その、あまりにも無邪気な一言が、私の心の最後の堰を切った。
──どうやって笑えばいいんだろう。みんなが信じている、私たちの「未来」は、もう、どこにもないのに。
熱いものが喉の奥から込み上げてきて、視界が滲む。だめだ。泣くな。卒業式でも、ちゃんと前を向いていられたのに。こんなところで、泣くなんて。
でも、一度溢れ出した感情は、もう止められなかった。ぽろり、と一筋の涙が、私の頬を伝った。慌てて俯き、手の甲で目元を拭う。
「えっ、どうしたのナマエ!?」
私の涙に、周りのみんなが驚きの声を上げた。
「もー、及川くんと離れるのが寂しいんでしょー!」
「うわー、愛だねえ」
「ほら、及川のせいだよー!」
口々にそう言ってからかう声に、違う、と叫びたくなる。
違う。寂しいだけじゃない。だって、私たちは、及川が旅立ってしまった瞬間に、もう恋人でいられないから──。
「はいはい、俺のせい俺のせい」
みんなを宥めるように、及川はいつもの軽い調子でそう言って笑った。でも、次の瞬間、彼は腰を折ると俯く私の顔を覗き込み、真っ直ぐに瞳を射抜いてきた。
「大丈夫、俺のナマエへの愛はアルゼンチンまで行っても変わんないから。……ね?」
周りのみんなには、私にかける、いつもの甘い恋人の台詞に聞こえただろう。でも、私には、分かってしまった。
「ね?」と問いかける声が、まるで子供みたいに、必死に何かに縋っている響きを含んでいたこと。それは演技ではなく、彼の心の奥底から溢れた、どうしようもないほどの本音だったのかもしれない。
そのことが、追い打ちをかけるように私の涙腺を壊す。しゃくりあげる姿を見て、彼が私の顔を隠すように、ぎゅっと抱きしめた。
「わー! ごめんねナマエ、泣かないで!」
及川らしい人の視線を全て奪うような派手な行動に、周囲からは「きゃー!」「最後まで見せつけるなー!」という歓声が上がる。
彼の胸に顔を埋める。誰よりも落ち着くはずの場所にいるはずなのに、今だけは、私の心を掻き乱していた。
(──別れたくない)
彼の腕の中で、初めて、心の奥底に押し殺していた本音が、叫び声を上げた。
やっぱり、及川が最初に願ったように、遠距離でもいいから、恋人でいたいと、今、この腕に縋って、みっともなく泣き叫んでしまえば──。
でも、最後の理性が、必死にその考えを否定する。
それを言ったら、全部、嘘になる。あの夕暮れの教室で、泣きながら告げた決意を。クリスマスプレゼントに託した、彼の翼を折らないと決めた、私のプライドを。今更、自分の寂しさで、覆すわけにはいかない。
私は、ゆっくりと深く息を吐いた。制服の袖で乱暴に涙を拭い、彼の胸を押して一歩だけ離れる。
「……ごめん、ごめんね、みんな。驚かせちゃって」
困惑している友人たちに、私は必死に笑顔を作って謝った。まだ目元は赤いだろうし、声も震えていたかもしれない。だけど、みんなの記憶に残る、彼の隣にいる最後の私が、泣き顔なのは嫌だったのだ。
彼女たちは、一瞬だけ痛ましそうな顔をしたが、すぐにいつもの調子で笑い飛ばしてくれた。
「んもー、ほんとラブラブなんだから!」
「もう一回撮るよ! 次はちゃんと笑ってよね!」
「うん」と頷いて、私はカメラに向かって、精一杯の笑顔でピースサインを作った。すると隣から、息を詰めるような、小さな声が聞こえてきた。
「……ナマエ……」
私を呼ぶ、及川の声。 隣の彼を見上げると、痛みと愛情をぐちゃぐちゃにした泣きそうな顔で、私を見つめていた。私が無理をしているのを、分かっているのだろう。
だから、彼にだけ聞こえるように、そっと囁いた。
「ごめんね。…最後なんだし、ちゃんと明るい顔で撮ってもらうから」
私の言葉に、彼は、ぐっと奥歯を噛み締めたような顔をした。そして、一瞬だけ目を伏せた後、ゆっくりと瞼を上げた。そこにはもう、さっきの泣きそうな彼はいなかった。
「……うん」
そう言って及川は私の肩を抱き寄せ直すと、クラスメイトが構えるスマホに向かって完璧な笑顔を向ける。
「はい! 元が良いから心配ないだろうけど、ちゃんと実物通り美男美女に見えるように撮ってねー!」
(──どうか)
「あはは。及川、最後までウザー」
どうか、今だけは。
「早く早く! 今超絶いいコンディションだから!」
「はいはい」
最後にみんなの記憶に映る私たちだけは、世界で一番、幸せな二人でありますように。
「撮るよー! はい、チーズ!」
カシャッ、と、スマホのシャッター音が、私たちの最後の時間を切り取っていった。
△
ひとしきり友人たちとの別れを済ませ、少しだけ人の流れが落ち着いた校門の傍らに、私はひっそりと佇んでいた。校庭の隅にある桜の木は、まだ固い蕾のまま、春の訪れを静かに待っている。
やがて、聞き慣れた賑やかな声と共に、及川がやってくる。彼の隣には、岩泉と松川、花巻がいた。部活の先生や後輩たちに、最後の挨拶に行っていたらしい。
「待たせたな」
「ううん」
岩泉に声をかけられ、私は小さく首を振った。
「じゃ、帰るかー」
「腹減ったなー」
「何か食べて行かない?」
「おー、いいな。駅でなんか食おうぜ」
いつもと変わらない軽口を叩きながら、帰り道を歩き出す。卒業証書の筒と色とりどりの花束を抱えて、まるで明日も学校で会えるような雰囲気の四人。その様子は、彼らの深い絆を感じさせた。明るい笑い声が、まるで別世界の出来事のように、遠く、現実味なく私の中に響く。
もちろん三人は、及川から私たちが別れることを聞いている。だから、このいつも通りの空気は、彼らなりの、最大限の優しさなのだろう。湿っぽい空気にならないように。私を、気遣って。
その温かさは嬉しいのに、気づけば胸の奥でひりつくような痛みに変わっていく。
「あっちのメシってどんなんだろうなー。最初腹壊しそうじゃね?」
「んー、調べたら肉多めって出てきたけど」
「…今度会うとき、ぶくぶく太ってたりして」
「はあー!? そんなことあるわけないじゃん、この及川さんが!」
(……岩泉たちは、いいなぁ)
明るく未来の話をして笑い合う三人を見ていると、私だけがその“続いていく世界”には入れないのだと、静かに分かってしまう。
及川と私は、もう未来の約束を口にできない──その事実が、みんなの笑い声の中でひどく際立っていった。
友達としてなら、一緒にいられるのだろうか。
けれど、彼の弱さも、温度も、全部知ってしまった後で、どうやって“ただの友達”に戻ればいいのか分からない。そんな思いが胸をかすめた瞬間、ひどく心がきゅっと縮んだ。
同じ速度で歩いているのに、私と及川の間だけにだけ、薄いようで越えられない透明な壁があるみたいだ。
そんなことを考えて俯きかけた私の指先に、温かいものが触れた。
「……っ」
驚いて顔を上げると、及川が仲間たちの会話に相槌を打ちながら、私の手を、そっと握っていた。そして彼は、重ねられたその手を、一瞬だけ──強く、握りしめる。
「──」
言葉にならない想いが、触れた指先から流れ込んでくる。その温かさと、隠された痛みに、喉の奥がきゅっと熱くなり、込み上げてくる涙を唇を噛んで必死に押しとどめた。
私は、彼の大きな手を、そっと握り返した。