卒業式から、及川がアルゼンチンへ旅立つ日まで、私たちに残された時間は、本当にあっという間だった。

 彼は、自主的なトレーニングを欠かさず、渡航の準備も進めながら、それでも、できる限り私との時間を作ろうとしてくれた。
 邪魔にならないように、及川のトレーニングが終わるのを待って、短い時間でも会う。近所のカフェでお茶をしたり、話題の映画を観に行ったり、ただ公園のベンチで話したり。隣にいるだけで満たされる、穏やかで、宝物みたいな時間だった。

 だけど、ふと立ち寄った雑貨屋で、彼がシンプルなマグカップを手に取って、「こういうの、向こうにもあるかな」なんて呟いた時。ああ、及川はもう、アルゼンチンでの新しい生活を見据えているんだ、と実感して胸が痛んだ。
 私は寂しさを隠して、「さあ? でも、きっと素敵なのが見つかるよ」と笑ってみせたけれど。

 そんな風に、ささやかな幸せと、胸を締め付ける切なさを行き来しながら、私たちは最後のデートの日を迎えた。

「──ねえ、及川」

 待ち合わせ場所に指定した駅前の時計台の下。私は努めて明るい表情を作って目の前に立つ及川に言った。

「今日…ううん、明日、及川が出発するまで…それまで、私のこと、いーっぱい可愛がってね?」

 おどけるように、私らしくない、少しだけ甘えた声でそう言った。
 彼はその言葉に、一瞬だけ、驚いたように目を見開く。けれどすぐに、ふっと柔らかく笑って、頭を優しく撫でてくれた。

「……当たり前でしょ。言われなくても、そのつもりだよ」

 その声と眼差しは、どこまでも優しかった。そして、私たちの恋人同士としての最後のデートが始まった。


 まず、初めて二人でデートをしたカフェに行くことにした。

「ここのホットチョコレート、やっぱり俺好きー」
「ふふ、そっか。紅茶も美味しいよ」

 初めてここに来た時、及川が目の前にいるだけで緊張して、どうしようもなくドキドキした。今は、胸が張り裂けそうなくらい、愛おしくて、苦しい。何もかもが同じはずなのに、何もかもが違って見えた。

「お待たせしました。パンケーキです」
「あ、ありがとうございます」

 店員さんが持ってきた皿には、二段に積み重なった分厚いパンケーキが乗っていた。二人で分けて食べようと、頼んだものだ。思った以上にボリュームのあるそれがテーブルの上に置かれて、及川と目を合わせて少し笑ってしまった。

「家で作っても、このフカフカな厚み出せないんだよね」

 ナイフとフォークで半分に切り分けながらそう言うと、及川がふと、懐かしむような目をして呟いた。

「……パンケーキ見たらさ、俺、去年の文化祭思い出すんだよね」

 その言葉に、フォークを持つ手が、一瞬だけ止まる。
 蘇るのは、二年生のときの、あの文化祭の日。まだ付き合ってもいない、自分の恋心にさえ気づいていなかった、あの頃。教室に充満する甘ったるい匂いと、女の子たちに囲まれて笑顔を振り撒く及川。その姿が、どうしようもなく気に食わなくて、私は、皮肉のつもりで言ったのだ。

 及川は、メープルシロップがたっぷりかかったパンケーキみたいだ──と。

「……うん。私も、思い出すよ」

 そう応えると、彼は「だよね?」と、嬉しそうに、でも、どこか寂しそうに笑って、私が切り分けたパンケーキを受け取る。

 素直になれない私の性格は、多分、あの頃からあまり変わっていない。結局最後まで、彼の砂糖菓子を煮詰めたような言葉や態度には慣れることはなかったし、自分から上手に甘えることも、できなかった。

 ──それでも。

 あの時、ただ鬱陶しいだけだと思っていたはずの、彼の甘ったるさは、いつの間にか、私の生活の隅々まで、深く、深く、染み込んでいた。もう、離したくても、離れられないくらいに。
 きっと一生、この味は私の中から抜けてはくれないのだろう。

 皿の上のパンケーキに、たっぷりとメープルシロップをかけた。その、甘くて少しだけ胸が痛くなる味を、最後まで、しっかりと味わうために。
 一口サイズに切り分けたそれを、そっと及川の口元へと差し出した。

「え?」

 驚いたように、彼が私を見る。初めてのデートの時、私は同じようにアップルパイを食べさせてあげた。あの時は、ちょっとした仕返しのつもりだった。でも、今は違う。

(──染み込んで、いきますように)

 この甘さが。ここで、こうして笑い合った時間が。どうか、彼の心の奥深くまで染み込んで、簡単には消えない記憶になりますように。
 そんな、祈りにも似た、ずるい願いを込めて、微笑んで彼を見つめる。

 及川は、私の瞳の奥にある想いを、すべて理解したように、一瞬だけ、泣きそうな顔で、ふっと笑った。そして、手元の皿の上ではなく、私が差し出した柔らかな生地を、ゆっくりと口に含む。

「…はは、あっま」

 しばらくの沈黙の後、彼はぽつりと呟いた。

「……本当に、メープルシロップって、しつこいくらいに残るね」

 その甘さはきっと、幸せだった記憶を呼び起こすもの。だからこそ、もうすぐ来る別れの現実を、より一層、残酷に際立たせるのだろう。



 カフェを出て、私たちは去年の春休みに二人で早咲きの桜を見た公園へと向かった。

「おー、満開」
「うん、良かった。…綺麗だね」

 あの時と同じように、桜の木が満開の花をつけている。風が吹くたびに、はらはらと舞い散る薄紅色の花びらは、何度見ても綺麗で、目を惹かれた。

「あ、ナマエ、そのまま動かないで」

 ベンチに二人で腰掛けて花見をしていると、隣から、柔らかな声がした。その瞬間にシャッター音が鳴る。見ると、及川がスマホをこちらに向けていた。桜の木を見上げる私の横顔を、写真に収めたらしい。

「ん、可愛いー。あ、もちろん、いつも最高に可愛いけどね」

 そう言って笑う彼の瞳には、いつもの悪戯っぽさとは違う、何かを必死に留めておこうとするような、切実な色が浮かんでいた。その視線に胸が痛んで、私は衝動的に、自分のスマホを取り出した。

「……及川も、じっとしてて」

 起動させたカメラアプリの画面越しに見る彼は、春の柔らかな光の中で、今まで見たことがないくらい、穏やかな笑みを浮かべている。カシャリ、と小さなシャッター音が、やけに大きく響く。
 撮ったばかりの写真を確認する。画面の中の彼は、こちらを見て、レンズの向こうの私をひどく愛おしそうに、優しく微笑んでいた。

 その、あまりにも幸せそうな笑顔を見た瞬間、残酷な現実が、冷たい刃となって私の胸を貫いた。

(ああ、そっか)

 ──明日になったら、この写真の中の人は、私の『元恋人』になるんだ。
 
 その事実に、息が止まった。さっきまで浮かべていたはずの自分の笑顔が、顔に張り付いたまま、こわばっていくのが分かった。

「…どうかした?」

 私の変化に気づいた及川が、不思議そうに顔を覗き込む。

「ううん、なんでもない。……綺麗に撮れたなって、思っただけ」

 嘘をついた。喉の奥が、熱い塊で塞がれたみたいに苦しい。
 彼はそれ以上何も聞かず、「そっか」とだけ言って、私の隣に座ってまま同じように空を見上げた。



「あ、鳴ったね…」

 日が落ち、群青色に染まった空に、駅前の時計台が午後七時を告げる鐘の音を響かせる。帰宅を急ぐ人々の喧騒の中、私たちはその音を、まるで世界の終わりの宣告のように聞いていた。

「はー、楽しかったー。帰りたくないなー」

 及川が、名残惜しさを押し隠すように明るい声でそう言った。そして思い出したように「あ」と漏らして、私の顔を覗き込んでくる。

「ナマエ、明日、朝九時に仙台駅で大丈夫?」

 明日の出発は、及川のご家族のご厚意で、空港まで私や岩泉たちも同行させてもらえることになっている。
 本来なら、家族水入らずで過ごすべき最後の時間だろう。それなのに、家族同然の幼馴染でも、三年間の苦楽を共にしたチームメイトでもない、息子の彼女というだけの私を、「ナマエちゃんも一緒に来てくれると徹も喜ぶから」と快く誘ってくれたご両親。 そのどこまでも深い優しさが、嬉しい反面、胸の奥をぎゅっと締め付ける。

「……うん、大丈夫」

 頷いた。頭では、ここで「帰ろう」と言って駅の中へ向かうべきだと分かっている。──それなのに。

「じゃあ、行こっか。家まで送るから」

 そう言って及川が改札へ向かって一歩を踏み出した。だけど私の足は、まるで地面に縫い付けられたように動かなかった。
 一歩、また一歩と遠ざかる彼の背中。

 帰りたくない。明日、みんなの前で「お別れ」をする前に、私だけの彼を感じていたい。心の奥の深いところから、私がそう叫んでいた。

「……あれ? ナマエ?」

 ついてこない私に気づき、及川が戸惑ったように振り返る。そのどこか不安げな顔を見た瞬間、堪えていた想いが喉元までせり上がった。

「…今日は、帰りたくない」

 震える唇から、やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど熱を帯びていた。

 及川の瞳が、大きく見開かれる。その瞬間伝わったのは、驚きと困惑、そして一瞬だけ揺らめいた、微かな期待。しかし彼はすぐに、何かを堪えるように苦しげに表情を歪めた。
 ゆっくりと、踏みしめるようにもう一度、私の前までやってくる。

「……それ、どういう意味か、わかってる?」

 いつもより幾分か低く落とされた声。それは、私の覚悟を試すためであり、同時に、今にも崩れそうな自分自身の理性を必死に繋ぎ止めるための、彼の最後の問いかけなのだろう。
 その優しさが、今は少しだけ、痛い。

「…うん。わかってるよ」
「本当に、いいの?」

 及川の視線が、私の瞳の奥底まで覗き込んでくる。ここで少しでも目を逸らせば、彼はきっと優しい嘘をついて、私を家まで送るだろう。だから私は、逃げずに見つめ返した。

「一緒に、いたいから」

 はっきりと口にすると、及川は、ほんの一瞬だけ、言葉を失ったように息を詰めた。

「…今日だけは、及川と、朝まで一緒にいたい。……ちゃんと、心も身体も、繋がりたいの」

 最後の言葉は、消え入りそうなほど小さかったけれど、嘘偽りのない本音だった。その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた彼の肩の力が、ふっと抜けた。
 及川は一瞬だけ天を仰ぎ、何かを諦めたように、けれどどうしようもなく愛おしそうに、深く息を吐いた。

「…ほんと、バカだなぁ、お前は」

 その声は、責めているのではなく、私の不器用な愛情を、その覚悟を、すべて受け止める、深い響きを持っていた。彼は何も言わずに、私の手を強く、でも優しく握る。その繋がれた手だけが、二人の覚悟と、これから始まる夜の意味を物語っていた。

 手を引かれるまま、及川についていく。向かう先は、もう見慣れた帰り道ではない。
 ──私たちは吸い込まれるように、二人だけの最後の時間を過ごす場所へと足を踏み入れた。

永遠を切り取る方法



メランコリー