※ この話には軽い性的描写があります。

 駅前の賑わいを背に、及川に手を引かれて連れてこられたのは、繁華街を抜けた少し静かな裏通りにあるホテルだった。
 所謂ラブホテルと呼ばれるものなのだろうが、私のイメージにあるような派手なネオン看板がついているものではなく、思ったよりもシックで落ち着いた外観だった。

 自動ドアをくぐると、そこにはフロントの人はおらず、様々な部屋の写真が載ったパネルが光っているだけだった。

「んー……ここでいっか」

 及川は、迷うことなくパネルのボタンを押し、出てきたカードキーを手に取る。その一連の動作が、私の目には妙にスムーズに映ってしまった。

(……慣れてる、よね)

 ドクリ、と心臓が嫌な音を立てた。
 私にとっては、足を踏み入れるだけで足がすくむような、未知の世界。どうしていいか分からず、ただ彼の背中に隠れるように縮こまっているのに、彼は、しっかりとこういう場所のシステムを知っている様子で。
 かつての恋人たちとも、こうして来たことがあるのだろうか。そんな、今更考えても仕方のない過去への嫉妬が、棘となって胸をチクリと刺す。彼の背中が、急に大人びて、遠く感じられた。

「行こ」

 差し出された大きな手。その手を取るのが、一瞬だけ怖くなる。けれど、ここで躊躇ったら、彼との時間は終わってしまう。私は胸の痛みを飲み込んで、その手を握り返した。

 私たちは誰とも顔を合わせることなく、エレベーターに乗り込んだ。
 上昇する密室の中、沈黙が痛い。私が変なことを考えてしまっているのが伝わらないように俯いていると、ふいに彼が、握っていた手にぎゅっと力を込めて呟いた。

「……ごめんね、こんな場所で」
「え? …う、ううん」
「……本当は、もっとちゃんとしたとこ、連れて来たかったんだけど」

 申し訳なさそうに眉を下げる彼に、私は首を振るのがやっとだった。彼なりの誠意だということは、痛いほど分かっている。けれど、その優しさが今は少しだけ残酷に響く。
 「ちゃんとしたとこ」と「こんな場所」。その違いを区別できていること自体が、彼にはこういう所での経験があるという証拠のように思えて、エレベーターの床を見つめる視線を上げることができなかった。

「……及川と一緒なら、どこでもいいよ」

 沈黙が続くのが怖くて、そう伝えるのが精一杯で。彼は少しホッとしたように笑って、優しく私の頭を撫でてくれたけれど、私の胸の奥の澱みは消えてくれなかった。


 部屋に入ると、そこは思った以上に広くて、部屋の中央には清潔なダブルベッドがあった。過度な装飾のない、シンプルで落ち着いた部屋。
 先に足を踏み入れた及川が、コートを脱ぎながら振り向く。

「……シャワー、浴びてくる?」
「あ…えっと……」

 言われて、身体がカチコチに固まってしまった。
 シャワーを浴びるということは、その「準備」をするということだ。初めての場所に、これから起こることへの緊張。そして何より、スマートに私をエスコートする彼への劣等感で、どうすればいいのか分からず、立ち尽くしてしまう。

 それを察したのか、及川はふっと優しく微笑んだ。

「……じゃあ、俺、先に入るね」

 すれ違いざまに、もう一度ポンと頭を撫でてくれる。その掌の温かさに、強張っていた肩の力が少しだけ抜けた。

 バスルームのドアが閉まり、シャワーの水音が聞こえ始める。
 私はふぅと息を吐き出し、ベッドの端に腰を下ろした。

 手持ち無沙汰で、バッグからスマホを取り出す。フォルダを開き、今日撮ったばかりの写真を見返す。
 カフェで、ホットチョコレートが入ったカップを持って、少しおどけて見せる及川。満開の桜の下、穏やかで、どこか寂しそうに微笑む及川。

 画面をスワイプする指が止まる。写真は、それだけしかなかった。

(……もっと、撮っておけばよかったな)

 いつも私からはあまり写真を撮らなかった。目に焼き付ければいいと思っていたけれど、いざ明日いなくなってしまうと思うと、形に残るものが少なすぎて、急に不安になる。
 画面の中の彼を指でなぞっていると、不意に水音が止まった。

 しばらくして、カチャ、とドアが開く音がする。
 顔を上げると、ドキリと心臓が跳ねた。

 湯気と共に現れた及川は、タオルで濡れた髪を拭きながら、備え付けのバスローブを身に纏っていた。
 少し開いた襟元から覗く鎖骨や、上気した肌。普段の制服姿やユニフォーム姿とは違う、無防備で、艶っぽい姿に、直視できずに目を泳がせてしまう。

「待たせてごめん。…シャワー、次いいよ」
「……う、うん」

 緊張で裏返りそうになる声で答える。
 私は逃げるように立ち上がり、着替えを持ってバスルームへと向かった。



 シャワーを浴びて、髪を乾かし、及川と同じバスローブに袖を通した。鏡に映る自分を見る。頬は赤いのに、表情は強張っている。
 
(……大丈夫)

 自分に言い聞かせて、深呼吸をする。
 バスルームのドアを開けると、部屋の中は、ひどく静まり返っていた。ベッドには、及川が腰掛けていて、こちらを見つめていた。ヘッドボードの明かりに照らされたその顔は、悔しいほど綺麗で、そしてどこか落ち着いて見えた。

「…おいで」

 呼ばれて、少しだけ躊躇ってから、吸い寄せられるようにその隣にそっと腰を下ろす。沈み込むマットレスの感触。ふわりと漂う、同じシャンプーの香り。
 及川は、サイドテーブルに置いてあったミネラルウォーターの蓋を開け、私に差し出してくれた。

「……喉、乾いたでしょ」
「あ、うん。ありがとう」

 受け取って、一口飲む。冷たい水が喉を通るけれど、緊張で乾いた口の中はすぐにまた張り付いてしまう。
 隣に座る及川を、そっと盗み見る。彼はリラックスした様子で、長い足を組んで座っていた。バスローブの着こなしも、私への気遣いも、躊躇いや迷いがないように見えた。

(……やっぱり、慣れてるんだ)

 エレベーターで感じた不安が、また胸をよぎる。
 及川に過去、彼女がいたことは知っている。元カノである先輩が、自分が及川の「初めて」の相手だったと匂わせてきたこともあった。だから、こういうことになるのは初めてじゃないのは分かっているけれど、こういうホテルでの振る舞いまで慣れているのを見ると、やっぱり胸が苦しくなる。
 自分だけが、こんなにガチガチに緊張して、子供みたいで。そう思うと、急に自分が惨めに思えてきて、私は唇を噛んで俯いた。

「……どしたの? 気分悪い?」

 私の変化に気づいた彼が、顔を覗き込んでくる。
 その余裕そうな表情が、今は少しだけ恨めしい。

「…ううん。ただ…及川は、落ち着いてるなって……」
「え?」
「……フロントでの操作とか、早かったし……こういう場所、慣れてるのかなって、思ったら…なんか、やだなって……」

 蚊の鳴くような声で、情けない本音を吐露する。
 こんな時に嫉妬なんて、面倒くさい女だと思われるかもしれない。でも、口に出さずにはいられなかった。

 すると、及川はきょとんと目を丸くした後、困ったように眉を下げて、ふっと自嘲気味に笑った。

「…落ち着いてるように、見えるんだ」
「……うん」
「そっか。……よかった、バレてなくて」

 彼はそう呟くと、私の手首を掴み、そのまま自分の左胸──バスローブ越しに、心臓のある場所へと強く押し当てた。

「…っ!?」

 掌に伝わってきた衝撃に、私は息を呑んだ。
 トクン、トクン、トクン、と。及川の心臓は、私のものと同じくらい、いや、それ以上に激しく、壊れそうなほどの速さで脈打っていたのだ。

「……わかる?」

 彼の耳が、真っ赤に染まっているのが見える。

「……正直に言うとね。俺、こういうホテルに来たの、初めてなんだ」
「え……?」

 予想外の言葉に、私は瞬きをした。

「でも、さっき…すごくスムーズだったよ?」
「それは……」

 及川はバツが悪そうに視線を逸らし、口元を手で覆った。

「……さっき、ナマエが『帰りたくない』って言ってくれてから、ここに来るまでの間に……めっちゃ調べたから」
「え?」
「スマホで。『ホテルの入り方』とか『パネルの操作』とか『会計の仕方』とか……必死で検索してたの。もたついてダサいとこ、見せたくなかったし。……ナマエを不安にさせたくなかったから」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥のモヤモヤが一気に晴れていくのが分かった。彼は「慣れていた」んじゃない。「私にかっこいいところを見せるために、必死で予習していた」だけだったんだ。
 ただ、消えない疑問がある。ホテルは初めてでも、経験はあるはずだ。なのに、どうしてこんなに鼓動が早いのだろう。

 私が不思議そうに彼を見つめていると、及川は私の手を胸に押し当てたまま、真剣な瞳で私を見つめ返した。

「……女の子と付き合ったことはあるし、こういうことする経験がゼロってわけじゃない」

 彼は嘘をつかなかった。その誠実さが、今は少しだけ苦しい。けれど、彼は切実な声で、言葉を紡いだ。

「でもね……こんな風に、『大事にしたい』って思いすぎて、手が震えるのは、初めてなんだ」
「……っ」
「……過去の経験なんか、なんの役にも立たないよ。相手がナマエだと、全然、余裕なんて持てない」

 その言葉と、掌から伝わる激しい鼓動。それが、何よりの証拠だった。
 過去に誰がいたとしても、今、こんなに心臓をうるさく鳴らしてくれているのは、私のためだけ。その事実が、たまらなく愛おしくて。胸の奥のチクリとした痛みは、瞬く間に甘い痺れへと変わっていった。

「……ごめんね、変なこと言って」
「ううん。…俺も、かっこつけててごめん」

 及川は、私の手を胸から離すと、今度はその手で私の頬を包み込んだ。
 触れた指先が、ほんの少しだけ震えているのが分かった。

「……もう一度、最後に…確認なんだけど」

 低く、少しだけ掠れた声が続ける。

「…無理、してない? 本当に……後悔しない?」

 彼の瞳が、真剣に私を見つめる。その奥には、私の答えを待つ不安と、隠しきれない熱が揺らめいていた。
 その問いかけの優しさに、胸が締め付けられる。思い出すのは、いつかの勉強会と、ふたりで過ごした去年のクリスマスの日だ。

 私が怖がったとき、及川は一度だって無理強いをしなかった。私の心が追いつくまで、その欲望を抑え込んで、ただ抱きしめてくれた。
 自分の欲望よりも、私を大切にしてくれた人。そんな誰よりも優しい彼だからこそ、今、私は彼と一つになりたい。未来の約束なんていらない。ただ、及川が私を愛してくれた証を、この身体に刻み込みたい。

「……うん。本当に及川と一緒にいたいって思ってるから。後悔なんて、しないよ」

 そうきっぱりと告げると、彼は「そっか」と小さく呟き、そして、そっと私を抱きしめた。

「……ありがとう」

 その声が、鼓膜を震わせるほどの距離で聞こえる。彼の体温と、落ち着く匂いに包まれると、さっきまでの身体の強ばりがゆっくりと解けていくようだった。

 及川が、膝の上に置いた私の両手に自分の右手を重ねる。大きくて、爪の先まで綺麗に手入れされた、バレーをするための手。努力の証が刻まれた、大好きな手。そのあたたかさに触れているだけで、言葉はなくても心が通じ合っているような気がした。
 薄暗い部屋の中、光量を落としたヘッドボードの明かりだけが、私たちの輪郭を照らしていた。

「……ねえ」

 彼が、私の手を確かめるように握りながら、呟いた。

「…なに?」
「俺がさ、なんで最初、ナマエにちょっかい出し始めたか、知ってる?」
「え……? なんでって……ただ、隣の席になったからじゃないの? 暇つぶしとか、からかいたかったとか……」

 少し拗ねたように言うと、彼は「ひどいなー」と笑った。

「まあ、それもちょっとはあったかもだけどさ」
「…やっぱり」
「でも、きっかけは別にあって」
「……きっかけ?」
「うん。……一年生の時なんだけどさ」

 彼は記憶を手繰り寄せるように、少しだけ懐かしむような、照れたような表情で話し始めた。

「部活行く途中で、なんか近くの教室の前が騒がしいなーって思ったら、ナマエが先生にめっちゃ言い返してたんだよね」
「え? 私が? 全然覚えてない……」
「なんか、テストの採点かなんかで、先生が明らかに間違ってるのに認めなくてさ。周りの奴らも『まあ、この先生だしな…』みたいな空気だったのに、ナマエだけが、『それはおかしいと思います。ここがこうで、こうだから、私たちの答えが合ってるはずです』って、静かだけど、すっごいはっきり言ってて」

 そんなことがあっただろうか。言われてみれば、一年生の時にそんな場面があったような、なかったような……。

「あの時さ、俺、結構びっくりしたんだよ。あの子、おとなしそうに見えるのに、言うことはちゃんと言うんだな、芯が強い子なんだなって。なんか、妙に…印象に残ってたんだよね」

 彼は、繋いでいない方の手で、私の髪をそっと撫でた。

「だから、二年になって、まさか同じクラスで、しかも席が隣になるなんて思ってなくてさ。つい、『あ、あの時の子だ』って思って……それで、なんとなく、声かけ始めたんだ」
「……そう、だったんだ」

 初めて聞いた、彼が私を認識したきっかけ。なんだか、くすぐったいような、不思議な気持ちになる。

「うん。まあ、その時、ナマエにはバッチリ彼氏いたんだけどねー」

 彼は悪戯っぽく笑って、私の鼻を軽くつん、とつついた。

「……でも、彼氏いる女子にちょっかいかけないよね、普通……」
「えー、だってナマエちゃんのこと正直可愛い子だなって思ったし? それに、なんか…彼氏いるのに、幸せそうには見えなくて、ほっとけなかった、っていうのも、あったかな」
「…ふーん」

 思い出すのは、あの頃のこと。自分がなくて、言われるがままに彼氏との日々を過ごして何かモヤモヤを抱えててもそれを上手く口にできなかった。
 そんな時に、及川に話しかけられて、彼氏との関係のことを言われて。彼には、私が自分の意思で世界を広げていっていることを否定されて。徐々に、バレーボールという揺るがない『確固たるもの』がある及川に憧れて、惹かれていったこと。

「…あの時はさ」

 今度は、私が口を開く番だった。

「まさか及川のこと、こんなに好きになるなんて、全然思ってなかったな」
「……俺もだよ」

 もう片方の手も一緒に、私の手に重ねられる。彼の指先が、緊張で冷えていた私の指先を包み込んでくれた。

「ナマエと、恋人になれるなんて、あの頃は想像もしてなかった。……だから、今、こうしていられるのが……めちゃくちゃ、嬉しいし幸せだよ」

 彼の体温がじわりと伝わってくる。幸せだという言葉が、同時に「終わり」を予感させて、胸が締め付けられる。

「……ありがとうね、及川」
「え? なにが?」
「全部。……及川と出会ってから、今日まで、全部。大変なこともあったけど、すごく、幸せだった…」

 言葉にすると、堪えていた涙が込み上げてきそうになる。
 これからの未来の話が出来ない。私たちは、過去を振り返る会話しか出来ないのだという絶望が胸を襲う。慌てて俯くと、彼が優しく私の肩を引き寄せた。

「……俺の方こそ、ありがとう」

 耳元で囁かれた声は、少しだけ掠れていた。

「ナマエがいたから、俺、頑張れたことがたくさんあるよ。お前が、俺のバレー、見ててくれたから。……お前が、俺のあの、どうしようもない弱さも、受け止めてくれたから。……支えてくれたから」

 顔を上げると、すぐ近くに彼の顔があった。その瞳は、深い愛情と、感謝と、そして、隠しきれないほどの、別れの痛みを湛えて揺れていた。

 もう、言葉は必要なかった。
 どちらからともなく、唇が重なる。最初は、ただ触れるだけの、優しいキス。それが、それが、離れがたい気持ちを確かめるように、少しずつ角度を変え、深くなっていく。
 そのまま、背中を柔らかいシーツに押し付けられた。

 ゆっくりと、彼の手が私の頬を撫でる。触れられるたびに、名前を呼ばれるたびに、彼が私をどれだけ大切に思ってくれているかが伝わってくる。余裕なんてないはずなのに、彼は何度も私の目を見て、安心させるような笑みを向けてくれた。

「……及川」

 彼の名前を呼ぶと、彼は愛おしそうに目を細めて、私の前髪を指で梳いた。そのまま、彼の唇が私の耳元へと寄せられる。

「……ふ、可愛いなあ……」

 鼓膜を直接震わせるような、甘く濡れた響き。吐息が耳の奥にかかり、背筋がゾクリと粟立った。

「……ん、や…声……耳、だめ……」

 思わず肩を竦めて逃げようとすると、彼は逃がさないように私の頬を包み込んだ。

「え? あはは、すごい反応」

 彼は面白がるように、わざと唇を耳たぶに擦り付けながら囁く。

「もしかして、耳弱いの? それとも……俺の声?」

 さっきよりもさらに低く、甘さを増した声色。脳が痺れるような糖度を含んだ声で囁かれるたび、身体の芯から力が抜けていくようだった。

「…へ、変なこと言わないで……」

 むっとして言い返す私の声が震えてしまっているのを、彼はきっと気づいているのだろう。

「だって、本当に可愛いんだもん、ナマエは」
「……っ」

 言葉の端々に滲む甘さが、心の奥を揺さぶる。

「及川」
「ん?」
「……好き……」

 零れるように呟いた瞬間、堪えきれずに涙が溢れて視界が滲み出した。及川が、一瞬目を見開き、グッと言葉に詰まった様子を見せた。すぐに困ったように微笑んでいつもの揶揄うような、軽薄な雰囲気を作る。

「……あーあ、泣くなよー」

 そう言いながら、指がそっと私の目の縁をなぞる。流れ落ちる涙を、優しく拭うように。

「……泣いて、ない……」
「はいはい、泣いてない泣いてない。めちゃくちゃ泣いてるけどね」

 まるで、小さな子どもをあやすような声。だけどその瞳は私と同じくらい、いや、もしかしたら私以上に痛みを込めて揺れている。

 ——本当は、及川だって分かってるのだろう。
 私が「行かないで」と心の底では叫んでいることも、それを必死で飲み込んで、今、彼の腕の中にいることも。
 だけど、彼はそれを言葉にはしない。私も、言わない。言えば、彼の翼を重くしてしまうとわかっているから。夕焼けの教室で交わした言葉が嘘になるから。

 だから私は、彼の背中に回した腕に力を込めて、震える指で、その体温に縋ることしかできなかった。

「ん……っ……」

 吐息が漏れるたび、彼が「可愛い」とうわ言のように囁く。大きな手のひらが、腰のくびれをなぞり、素肌の上を這う。少し硬くなった指の腹が触れるたび、そこから痺れが広がっていくようだった。

 ──ああ、やっぱり。

「……手……」

 熱に浮かされた頭で、ふと、その言葉が唇から零れ落ちた。すると、肌を這っていた彼の動きが、ピタリと止まる。

「……ん?」

 及川が顔を上げ、心配そうに私の顔を覗き込んだ。

「ごめん。力、強かった?」

 私を気遣う、優しい声。首を横に振り、私の肌に触れている彼の手のひらを、そっと自分の手で包んだ。

「…ううん。……及川の手、好きだなって…思って」

 そう伝えると、彼はきょとんと目を丸くし、それからふっと小さく吹き出した。

「前も言ってたよね、それ。俺、自分の手がどうとか、全然わかんないんだけど」
「……うん」

 及川はわかっていない。この指が、どれだけ綺麗で、どれだけ努力の跡が刻まれていて、そして──どれだけ私が愛しているのかを。その大きな手のひらに、そっと頬を寄せた。

「……この手で、世界と戦うんだよね」

 ぽつりと呟いた言葉は、自分でも驚くほど寂しげな響きをしていた。
 明日からは、この手はボールを追いかけ、海の向こうで戦うための手になる。もう、こうして私に触れてくれることはない。

 私の言葉に、及川の瞳がすっと細められた。優しかった瞳の奥に、ゆらりと、暗く、重い色が灯るのを私は見た。次の瞬間、頬に触れていた手が、するりと首筋へと回った。

「……っ」

 今までよりも、僅かに力が籠もる。逃がさないように、絡め取るように。

「…あんまり、煽らないでよ…」

 耳元で囁く声は、低く、どこか切羽詰まったような響きを含んでいた。

「……そんなに好きなら…もっと、触ってあげるから」

 指先が、鎖骨から胸を滑って敏感な場所を掠める。

「あっ……!」
「…俺の手、忘れられなくなるくらいに」

 昏い独占欲を含んだ瞳が、私を射抜いた。その言葉は、まるで「忘れないで」という祈りのようにも聞こえた。

 ──そんなの、ずるい。ずるいよ、及川。

 彼の指が、私の奥深くまで触れて甘く翻弄していく。私が初めてだと知っているからこそ、及川はしつこいくらいに丁寧に、時間をかけて、私の体が彼を受け入れる準備ができるのを、辛抱強く待ってくれた。

 もう、思考がうまく働かない。ただ、彼のくれる快感と、愛情に、身を委ねることしかできなかった。

「……ごめん、ナマエ、俺、もう、限界かも…。……いい?」

 切羽詰まった掠れた声で、及川が私の同意を求めた。その瞳は、もう抑えきれない欲と、私への深い愛情で潤み、揺らめいている。

 これ以上、彼を待たせたくない。私も、彼が欲しい。
 私は及川の首に腕を絡ませると、答えの代わりに彼の身体を引き寄せた。たとえこの先、どれだけ時間が経っても、どれだけ遠く離れてしまっても。この夜のことだけは、絶対に忘れられないのだろう。

 シーツが擦れる音。彼の身体の重み。すぐそばで聞こえる、少し荒い呼吸。全てが初めてで、何もかもが未知の世界。緊張で体が強張るのを、及川は優しく頭を撫でながら解きほぐしてくれる。
 そして──ゆっくりと、彼の熱が、私の全てを包み込んでいった。

 心も、体も、境界線がなくなるみたいに溶けていく。繋がっている。本当に、彼と一つになっている。その感覚が、何よりも確かな安心感を与えてくれた。

 ふと、視界の中で、彼が悩ましけに、快感を堪えるように、深く息を吐いているのが見えた。
 いつも自信満々で、みんなの中心にいる「及川徹」。でも今、私の目の前で、こんなにも無防備に息を乱して、余裕なく私を求めているのは、世界でたった一人、私だけの彼だ。

 そう思ったら、「及川」という他人行儀な響きが、急に遠く感じられた。
 もっと近くに行きたい。誰のものでもない、この瞬間の彼だけの魂に触れたい。

「……とお、る…」

 ぽつりと、自分でも無意識に、声が零れた。いつもなら、絶対に呼ばない彼の名前。恥ずかしくて、照れくさくて、「及川」としか呼べなかったのに。

 だけど、今だけは。この夜だけは。

「……っ!?」

 私の口から零れた自分の名前に、及川の動きが止まり、息を呑む気配がした。

「…い、ま…なんて……?」

 いつもの余裕なんて、どこにもない声。彼の耳が、首筋まで真っ赤に染まっているのが、暗がりの中でも分かった。私をじっと見つめる瞳が、信じられないというように、切なげに揺れていた。

「……徹」

 もう一度、彼の名前を呼ぶ。

「…っ…ばか……」

 及川は小さく笑って、けれど泣きそうな顔で、私をぎゅっと強く抱きしめた。

「……そんなふうに呼ばれたら…俺…離れたくなくなるじゃん……」

 彼の声が、震えていた。

(私も、離れたくないよ)

 だけど、その言葉は口に出すことは出来ない。その代わりに、彼の唇に自分の唇を合わせる。すると、今度は呼吸を奪うように、そして名残惜しそうに、深いキスをされる。

「んっ…ふ、ァ…っ」
「……ん」

 唇から、触れ合っている身体から、内側から、ふたり分の熱が混ざる。心も、体も、境界線がなくなるみたいに溶けていくようだった。

「……徹、好きだよ…」

 唇が離れたとき、震える声でそう呟いた。彼への想いを言葉にすると、また涙が頬を伝ってしまう。

「……もー、だから、なんで泣くのさー」

 まるで駄々っ子を宥めるみたいに、困ったように及川が笑う。

「…わかんない…っ」

 好きすぎて、苦しくて、切なくて、どうしようもなくて。この夜が明けてしまうことを考えたら、涙が止まらない。

「…あーもう…お前が泣いたら、俺まで泣きそうになるじゃん…」

 そう言いながら、彼の瞳にも、光るものが滲んでいる。

「…泣かないで……」

 その濡れた目尻を、私に彼がしてくれたようにそっと指で撫でる。及川は目を伏せながら、ふっと力なく笑った。

「…じゃあ、ナマエも、泣きやんでよ」
「………むり…」
「……だよね。俺も、無理だもん…」

 言葉を交わしながら、もう一度、唇を重ねる。
 その時、頬に温かい雫が落ちた。それが、彼の瞳から零れ落ちたものだと気づいた時、私の涙腺が再び決壊した。

 お互いの涙が混ざり合い、しょっぱい味が口の中に広がる。それでも、この口づけを止めることはできなかった。

初めての夜、最後の夜



メランコリー