カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいた。
瞼をゆっくりと持ち上げると、見慣れない天井が目に入る。一瞬、ここがどこか分からなくて、けれど腰のあたりに感じる鈍い痛みと、背中に回された伝わってくる確かな体温が、昨夜の出来事を鮮烈に思い出させた。
そっと顔を横に向ける。すぐ隣で、及川がこちらに身体を向けたまま、規則正しい寝息を立てていた。
少し癖のある細い髪、長く伸びた睫毛、形のいい唇。コートの上で見せる、あの獲物を狩るような鋭さはどこにもない。無防備で、あどけなささえ感じる、少し幼い寝顔。
(……きれいな顔)
指先で触れたい衝動を、ぐっとこらえる。触れてしまったら、きっと起こしてしまうから。こうして、彼の寝顔を一番近くで見ることができるのは、きっとこれが最初で最後なのだろう。
そう思った瞬間、昨日あれほど流して、もう枯れたと思っていた涙が、またじわりと目の奥に滲んできた。
(……だめ。もう及川の前で泣かないって、決めたんだから)
私は唇を噛み締め、目を瞑り、こみ上げる熱いものを必死に飲み込んだ。嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪える。その時、隣でシーツが衣擦れの音を立てた。
「……ん……」
及川が小さく唸り、ゆっくりと目を開ける。焦点の合わない瞳がぼんやりと私を捉え、やがてふにゃりと柔らかく細められた。
「…おはよ、ナマエ……」
「……うん、おはよう」
寝起きの、少し掠れた低い声。それが鼓膜を揺らすだけで、胸が甘くときめいてしまう。
彼は布団から出した腕で目をこすると、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「……体、大丈夫? 痛くない?」
その問いかけの意図に、昨夜の行為が含まれていることは明白で。最中の、右も左も分からず、されるがままに触れられていた自分と、甘くて色っぽい彼を思い出してしまって、顔が一気に熱くなる。
「…う、うん。平気、だよ……」
「……ほんと? 無理してない?」
「ほんとだよ。……優しく、してもらったから」
恥ずかしさから、消え入るような声で呟くと、彼は安心したように「よかった」と息を吐き、愛おしそうに私の頬を撫でた。
窓の外が、少しずつ白んでいくのが分かった。残酷なほど正確に、朝はやってくる。彼が、遠い国へ旅立つ一日が始まる。
「……そろそろ、出る準備しよっか?」
身体を起こしながら、あえて明るく、普段通りを装って尋ねた。今日は空港まで見送りをするため、駅で落ち合うことになっている。一度自宅に帰って、準備をしなければいけない。
「………」
けれど、及川は私の問いかけに何も答えなかった。その唇が、何かを言いたげに引き結ばれている。そして、彼は私の腰に回した腕に力を込めると、こちらの身体をずるりとシーツの中に引き戻した。
「……わっ、ちょっ…」
「…やだ。…あと、もう少しだけ」
甘えるような声と共に、強い力で抱き寄せられる。バスローブ越しに身体が密着し、伝わってくる彼の体温が、私の胸を震わせた。鎖骨に顔を埋め、深く息を吸い込む及川。まるで私の匂いを記憶しようとするかのような仕草に、心臓が跳ねる。
そして、彼がゆっくりと顔を上げた。その瞳には、さっきまでの寝起きのあどけなさはなく、昨夜私を見つめていた、あの切なげで熱っぽい色が宿っていた。
「……ん…っ」
唇が塞がれる。それは、朝の挨拶のような軽いものではなかった。
角度を変え、何度も啄むように、そして確かめるように唇を食まれる。逃げ場を塞ぐように後頭部を捕えられ、熱い舌が強引に割り入ってきた。
「……んむ、ぁ……っ、まって……っ」
制止しようとした声さえも飲み込まれる。舌先が絡み合い、唾液が混ざる水音が、静かな部屋に生々しく響く。
「あッ、お…いか……っ、んんっ…」
息継ぎの隙間さえ与えられない。まるで私の呼吸も、魂も、全てを吸い尽くそうとするような、深くて貪欲なキス。脳が痺れ、身体の力がどんどん抜けていく。
そうしていると、彼の手が、バスローブの合わせ部分から割り入り、素肌の上を這っていった。驚く程に熱い掌が胸元に触れ、指先が敏感な場所を掠めた瞬間、背筋に電流が走ったような甘い痺れが駆け抜ける。
「…んぁ……っ」
「……は、ナマエ……」
合間に漏れる及川の吐息も、ひどく熱を帯びていた。彼の手が私の腰紐にかかり、するりと結び目を解いていく。バスローブがはだけ、朝の冷たい空気と、彼の熱すぎる体温が同時に肌を襲う。
「あっ…」
太ももの内側を撫で上げる彼の指先が、昨夜の快楽の記憶を強烈に呼び覚ました。
(………だめ)
このまま流されたら。また彼と繋がってしまったら。
きっと、本当に離れられなくなる。彼の体温なしでは生きられない体になってしまう。そんな確信めいた予感がしていた。そしてそれは、私にとって強烈な刃となるのを、自分でわかっている。
だから──。
「……お、いかわ…っ!」
私は残った理性を総動員して、彼の名前を呼んだ。昨夜あれほど呼んだ「徹」ではなく、いつもの呼び名で。
その声に、私の肌を這っていた彼の指が、ピタリと止まった。
「…おい…かわ……」
「……はぁ……」
及川は、短く、けれど重い溜息を吐いた。私の肩口に額を押し付けた彼の荒い息遣いが、直接肌にかかる。
「……ごめん、だめだね。…これ以上触ったら、俺、マジでここから出たくなくなるわ……」
悔しげな声。欲望と理性の間で激しく葛藤するその響きに、胸が痛む。彼は、はだけた私のバスローブを震える手で直すと、ゆっくりと顔を上げた。今まで見たことがないほど真剣な、痛々しいほど切実な瞳が、至近距離で私を射抜いた。
「………ナマエ」
「……なに?」
彼は一度言葉に詰まり、意を決したように口を開いた。
「……本当に、別れる?」
ドクン、と大きな音が体内で響く。
彼の瞳が揺れている。
(……言いたい)
別れたくない。ずっと一緒にいたい。あなたの隣にいたい。
(……でも、だめ)
これから世界へ羽ばたく彼の翼に、重りは必要ない。不慣れな異国の地で、言葉も文化も違う環境で戦う彼に、「日本で待つ彼女」という心配事を背負わせるわけにはいかない。それに、私にだって、叶えたい夢がある。彼にふさわしい自分になるための、大切な目標が。
私は、震える唇を噛み締めた。
「……うん、別れるよ」
微笑みながら、はっきりと、告げた。及川の瞳が、悲痛に歪む。私は、彼の頬に両手を添え、真っ直ぐに見つめ返した。
「お互いの夢に向かって、生きよう。……私は、私の場所で頑張るから。及川は、及川の場所で、輝いて」
──それが、私たちが選んだ、恋の形。
しばらくの沈黙の後、彼は何かを堪えるように目を伏せ、そしてゆっくりと頷いた。
「……うん」
顔を上げた彼が見せたのは、泣き顔ではなく、覚悟を決めた人間の、凛とした表情だった。
「……頑張る、から。…ちゃんと見てて」
その言葉は、私への約束であり、彼自身への誓いだったのだろう。
朝の光が、部屋全体を白く染め上げていった。
「──準備、できたよ」
身支度を整え、忘れ物がないかを確認する。
昨夜の熱が嘘のように、部屋の中は静まり返っていた。このドアを開ければ、私たちだけの時間は終わり、現実に引き戻される。空港での見送りには、彼の家族や岩泉たちがいる。だから、二人だけの時間は、本当にここで最後になるのだ。
「……よし」
先に歩き出した及川が、ドアノブに手をかけた。けれど、彼はそれを回すことなく、ピタリと動きを止める。一瞬の静寂の後、彼はゆっくりと振り返った。どうしたのだろうと首を傾げる。
「及川?」
「……ナマエ」
名前を呼ばれ、私が一歩近づこうとした瞬間、彼の手が私の腕を引き寄せた。
「……あっ」
抵抗する間もなく、広い胸の中に包み込まれる。彼の匂い、心臓の音、少し高い体温。及川が、ゆっくりと顔を寄せてくる。なにをされるのか分かって、そっと瞼を閉じた。
「──ん…」
重なった唇。それは、さっきような、欲に任せて舌を絡め合うような濃厚なものではなかった。かといって、挨拶代わりのような軽く啄むようなものでもない。ただ、唇と唇を強く押し当て合うだけの、静かなキス。
互いの唇の形を、温度を、柔らかさを、決して忘れないように確かめ合う。じっと、動かず、息をするのも忘れるくらい、長く。まるで、唇から伝わる温もりを、脳裏に焼き付けているようだった。──ああ。
(……これが、最後だ)
予感めいた確信が、胸を刺す。
もう二度と、彼の唇と、こうして触れ合うことはないのだと。そして、強く押し付けられる彼の唇から、彼もまた、同じことを思っているのだと痛いほど伝わってきた。
永遠にも感じる数秒が過ぎ、ゆっくりと、名残惜しそうに唇が離れた。至近距離で見つめ合った彼の瞳は、少しだけ潤んで揺れていたけれど、すぐにふっと口元を緩め、私の頭をポンと撫でた。
「…よし、行こうか」
「……うん」
私たちは手を繋ぎ、重いドアを開けた。
△
一度それぞれの家に帰るため、駅前で別れる。次に会うのは、仙台駅で。家に帰り着くと、キッチンで洗い物をしていたらしい母が顔を出した。
「あら、早かったのね」
「うん」
「ちゃんと帰る前に親御さんに挨拶してきた?」
「……うん、したよ」
母には、友達の家に泊まると伝えていた。嘘をついてしまったことが少し後ろめたくて、返事をして逃げるように自室へ上がった。
鏡の前へ座る。化粧水を叩き込み、しっかりとベースメイクを重ねる。アイラインはいつもより少しだけ丁寧に、リップは彼が褒めてくれた色を。
(……一番、可愛い私でいなきゃ)
彼が見る最後の私が、最高に可愛くあるように。
最後に、クローゼットから取り出したのは、淡いピンクベージュのコート。初めてのデートの時、「ナマエにぴったりだよ」と彼が微笑んでくれたもの。袖を通すと、あの時の彼の優しい笑顔が蘇り、胸がぎゅっと締め付けられる。
準備を終え、財布とスマホをバッグに入れる。時計を見ると、そろそろ出発しないといけない時間になっていた。
最後に鏡の中の自分を見つめ、口角を持ち上げる練習をする。
「うん」
──大丈夫。ちゃんと笑えてる。
ひとつ息を大きく吐いて、リビングへと降りた。
「……お母さん」
「んー?」
母の姿を探すと、まだキッチンの中にいた。どうやら、食器棚の整理をしていたようだ。
「私、ちょっと出かけてくる。遅くなるかもしれないから、帰る時間はあとで連絡する」
「……」
私の言葉に、母は作業をする手を止め、じっとこちらを見つめた。彼氏がいるなんて、家族には一度も言ったことはなかった。でも、私の様子から、何かを察したのかもしれない。
「…そう。気をつけなさいよ」
母の言葉は、いつもより少しだけ重く私の中に響いた。「行ってきます」と背中で告げ、私は家を飛び出した。
△
仙台駅の待ち合わせ場所には、一際背の高い集団がいた。
及川と、岩泉たち三年生。そして後輩たちの姿もある。三年生のレギュラーメンバー三人は空港まで見送りに行き、その他のチームメイトはここでお別れをするらしい。
「及川さんんんっ!! 向こうでも、元気でっ!!」
「うわっ、矢巾! お前、涙だけじゃなくて鼻水もやばいって! 俺の服で拭くな!」
人目も憚らず大号泣する後任を、及川が笑いながら引き剥がしている。
「もー、及川さん愛されちゃって困るな〜。……って、あれ? 国見ちゃん? もうちょっと悲しんでくれない? 先輩、旅立つんだけど?」
「これでも、心の中で号泣してます。うわーんうわーん」
「嘘つけ! 無表情すぎるでしょ!」
いつもの軽口、いつもの光景。同級生や後輩に囲まれて、呆れたように、でも嬉しそうに笑う及川の姿は、遠くて、眩しい。そこには、私たちがホテルで過ごした甘く切ない時間はなく、確固たる信頼で結ばれた「チーム」の絆があった。
あの輝く輪の中に、部外者の私が割って入ることなんてできない。私は少し離れた場所から、「みんなの及川徹」である彼の姿を、静かに見つめていた。
その時、ポンと肩を叩かれた。
「おはよう、ナマエちゃん」
振り向くと、そこには及川のお母さんとお姉さん、そして甥っ子の猛くんがいた。一瞬、息が止まる。私は頬の筋肉に力を込め、精一杯の笑顔を作った。
「……おはようございます。遅くなってすみません」
「ううん、大丈夫よ。空港まで来てくれるんでしょ? ありがとうね」
お母さんが優しく微笑む。及川によく似た、目鼻立ちのくっきりとした美しい顔。こうして、お母さんたちと言葉を交わすのも、もしかしたら今日が最後かもしれない。
及川のお母さんは、私の手を両手で包み込むと、温かい眼差しで私を見つめた。
「徹ったら、家でも本当にナマエちゃんのことばかり話すのよねぇ」
「え……」
思いがけない言葉に、私が目を丸くすると、お母さんは楽しそうに笑って続けた。
「『ナマエのお弁当は、売ってるやつより何倍も美味しいんだ』とか、『字がすっごく丁寧で読みやすいから、ノート借りるとやる気が出る』とか…。そうそう、『普段はしっかり者なのに、子供向けのアニメ映画でもボロボロ泣いちゃうのが可愛い』なんてことまで」
「えっ…そ、そんなことまで……?」
恥ずかしさで顔が熱くなる私を見て、お母さんは目を細めた。
「年頃の息子が、親に自分の彼女のこと話してくれるなんて、親としては本当に幸せなことよ。今まであの子、家での会話なんてバレーのことばっかりだったから」
お母さんの言葉には、息子への深い愛情と、私への感謝が滲んでいた。
「よっぽど、ナマエちゃんは自慢の彼女なのね」
その言葉は、私に与えられる最高の褒め言葉だった。彼の世界に、私がいた。彼が自慢したくなるほどの存在になれていた。嬉しくて、誇らしい。だけど何よりも、申し訳なさで胸が押しつぶされそうになった。
「遠距離で大変だと思うけど、徹のこと、これからもよろしくね。あの子、強がってるけど寂しがり屋だから、ナマエちゃんが支えてあげて」
その、疑いようのない信頼と期待の言葉。悪気など微塵もない、純粋な「お願い」。それが、今の私には鋭利な刃物のように胸に突き刺さった。
(……ごめんなさい、お母さん)
私はもう、彼を支えられない。彼の寂しさを埋めてあげる資格も、自らの手でもうすぐ手放してしまう。
喉の奥が引きつりそうになるのを必死に堪えて、私は「良い彼女」の仮面を被った。
「……はい。…よろしく、お願いします」
嘘つきだ。私は、最低な嘘つきだ。
笑顔で頷きながら、心の中でひたすらに自分を罵った。
「お。そろそろ新幹線の時間だな。行くか」
「おー」
「及川さんお元気でっ!!」
「はーい、みんな元気でね! 向こう着いたら連絡するからね!」
岩泉の声で、それぞれが動き出す。最後の別れを終え、改札へ向かう列の中、自然な流れで及川が私の隣に来た。きっと、さっきの私とお母さんとの会話が、聞こえていたのだろう。
「……ごめん」
誰にも聞こえない声量で、彼が呟く。おそらく、家族に対して、私に嘘をつかせていることへの謝罪だろう。
「……ううん。嬉しいよ」
私も小声で返す。
──家族ぐるみの付き合い。周囲も認めるカップル。
それがどれほど幸せなことか。
もしも彼が日本にいるなら、あるいは私がすべてを捨ててついて行くなら、いや、そもそも私たちが別れるという選択をしなければ、これは最高のシチュエーションだったはずなのに。
私たちは、少しだけ距離を保ちながら、改札を通り過ぎた。